出歩いて、落っこちて、どこだろう?第一章
―――草の匂いがする。
「………ハッ!?」
鼻をくすぐる草木の匂いに驚いて目が覚めると僕は森の中にいた。ピピピ…と小鳥の囀りや風で木の葉が擦れるザァーっとした音が妙に響いている。これは一体…周りを見渡しても木ばっかりで何処まで行っても緑緑緑緑のオンパレード。人気なんかまるでない鬱蒼とした大森林。
路地裏を抜けている時に何か穴のようなモノに足をふみいれて落下したという事は覚えてるけど、上に天井なんて無いし落ちて来た筈の穴は影も形も無い。木々の間から木漏れ日と共に垣間見える青い空しか見ることは出来ないが、少なくても我が家の帰路ではない事は確かだ。
ここは一体どこなんだろう?そう思った時、僕の左手が何か生温かい物に触れている事に気が付いた。
「ん?―――はう!?」
なんだろうと顔を向けると視界に赤いなにかが映る。ああなんて事だろう。知らない場所に来たという事すら不幸なのに、どうやら一緒にさっきまでの不幸までも着いてきたらしい。僕は4度目となるが、あの犬のしっぽを今度は手で押さえる様に踏みつけていた。
幸いなのは犬は今だに目を覚ましていな―――
「……ぐるる」
「(わーお、タイミングバッチシね!)」
再び目覚めた野良犬との、果てしない追いかけっこが始まった。
***
「うわぁぁぁぁぁん!!」
「がぁぁぁぁ!!」
後ろは見えないけど唸り声からして歯をむき出して追いかけてくるワンちゃん。あれ?これなんてデジャブ?再び始まった追いかけっこは昼間の焼き直しに見えた。思えばこの時野良犬君のお陰で僕は取り乱す暇もなかったから、変に動揺して錯乱しなかったのかもしれないが、恐怖に取り込まれた僕はそんな事考える余裕は無かった。
「(怖い怖い怖いよー!!)」
しかし本当に犬は怖い。いや僕も普通に犬と接する分には別に抵抗はない。だけど怒り狂った獣はなんというか普通の犬と迫力が違い過ぎる。怖くて堪らなくて全力で逃げたけど、街中と違い自然いっぱいの森の中、木の根っことかフカフカの腐葉土に足を取られてスピードが出せなかった。転ばなかったのが奇跡だと思う。
こういう環境ではやっぱり四足歩行の獣さんの方がテリトリー。安定性バッチしな四脚と、しなやかな身のこなしで木の根っこ等の障害物もなんのその。ドンドン近づいてくる。僕は背中に野良犬の息使いが感じられる程に近づかれた事を肌で感じつつも噛みつかれてなるものか!と息も絶え絶えながら茂みへと飛びこんだ。
茂みの高さは2m位だったかな?まるで壁みたいに木々の間にそそり立つ藪というか…とにかく植物が生え茂っていた。足元はもっと茂ってたから、もしかしたら唸る野良犬も速度を緩めるかもと思ったんだ。
「ガルァァッ!!」
「ひえーん!!」
だけど、赤い野良は頭が良かったんだろうね。僕が茂みに飛び込もうとした瞬間、赤い弾丸のように一直線に僕に飛びかかって服の襟に喰らい付いたのだ!
吃驚した僕はそのまま足を付きたたらを踏もうとして――
《がら》
「へう!?」
――重力という軛から解放された。ううん、落っこちたんだ。
どうやら茂みは非常に薄く、しかもその先は谷となっていたらしい。ああ、万有引力とはこういうものなのか。肌でそう感じつつそのまま谷の下にまっ逆さまに落下した。小さく叫び声をあげて身体をこわばらせた僕はなんとか顔の周りだけ腕でガードする事が出来た。
谷はそれ程高い訳ではなく、数秒後谷底に到達した。谷底は川だった。それも凄い流れが急で深い谷川。雪解け水なのか、飛び込んだ瞬間あまりの冷たさに心臓を鷲掴みにされたように胸に痛みが走る。僕は慌てた、水の中では息が出来ない。水面へ、光が感じられる方へ向かおうと手足をばたつかせる。
だけど、身体が重い。服が水を吸っている。小さい頃近所のスイミングスクールで受けた水難事故講習で普通の服は水を吸って重くなるから水に落ちた時は脱がないと素人は泳げないと聞いた事がある。だけど生命活動に必要な酸素が供給されていない僕はその事に気がつかなかった。必死に腕と足を動かすけど身体は重くなるばかり。
苦しい、苦しい。
肺に空気を、意識だけが先行した。
「(ひ、光…ひかる、ほうこうへ…)」
身体が、重い。
早く、早く早く早く!
空気を!―――――僕に空気をっ!!
「―――かはぁ!ああああぁぁぁ!!――ガボッ!?」
何とか水面に出た僕は、叫ぶようにして空気を吸い込んだ。肺に空気が入って安心したのも束の間、僕は引きづり込まれるように再び川の中に沈んでしまった。しまった!服をつけたままだ!服が鉛のように重たいが後の祭り。脱ぐにも脱げず浮き沈みを繰り返し、僕はそのまま下流へと流されていった。
酸素不足で朦朧とした意識の中で、なんとか水面に顔を出す事だけを考えていた脳みその片隅に、流された僕が大きく口を開けたトンネルのような自然の洞窟に流され、そのまま地下深く落ちていった事など、この時の僕は知る由も無かった。
***
―――水の、音。
「………ぇほっ、ゲホゲホっ!」
おぼぼ、ぎ ぼ ぢ ば る゛い゛……。
咽の奥まで入り込んだ水を吐き出した後仰向けになった。凄くあたまがいたい。相当水の流れに揉まれたらしく、身体中を鞭で叩かれたかのような痛みが走る。これは打ち身とか青あざが沢山出来ているかもしれないな。咳き込みながら肺に空気を送り込んだ事で、少し酸素が巡り冷静になった僕は、仰向けのまま周囲を見渡した。
薄暗い、とにかく薄暗い。まるで夜の蚊帳が降りたかのようだ。かなり長い事流されてしまったのだろうか?それにこのカビ臭い様な何とも言えない匂い。あえて言うなら洞窟探検に行った時の洞…窟…?
そう言えば谷川に落っこちて流されて、なんか浮遊感と一緒にすっごく暗いところを通ったところで記憶が途切れてるんだけど?
(もしかして、暗いのは夜とかそういうのじゃない?)
谷川が繋がる下流の川原かなにかと思っていたがそうでもなさそうだ。ただ見渡そうにも薄暗くて遠くは真っ暗闇なので見る事が出来ない。手元がやっとこさ見える程度の薄明かりしか無ければ当然だろう……あれ?でもなんで薄明かりがあるんだろう?
「んー……えあっ?なに…あれ…!?」
――そこにあったのは幽玄なる老木だった。
薄明かりに疑問に感じ、周囲を見た僕の視界に映ったのは、蒼白い光を放つ一本の木であった。
信じられない事だがその木自身が発光し周囲を照らしている。こんなのを見せられたら驚くなという方がムリだと思う。しかも木の枝の先端から絶えず水が流れていて、それが下に貯まって小さな泉のようになっていた。
斧でも投げ込んだら女神さまでも出て来そうな雰囲気だ。幻想的、というか神話的と言うべきなのだろう。だけど驚きのあまり僕は上手く言葉を紡ぐ事は出来なかった。何せ光っているのは木だけじゃなくて下に貯まった泉の水も淡く発光し、その周囲の石も斑模様だけど薄らと光っている。天空キャッスル・ラピュータの中で爺さんと遭遇した地下廃坑が、石と反応した時のような光景と言えばイメージ付くだろうか?
「……………さむい」
しばらくぽやーっとその光景を眺めていたが、突然現実に引き戻された。寒いのだ。長時間水に浸っていた身体は熱を奪われ、水からは上がったものの着ている服はびしょ濡れのまま。太陽の光が無い洞窟の空気はひんやりとしており、コレが夏なら言う事無しなのだろうが、今の僕には冬にクーラーを付けた時よりも寒く感じた。
そして寒さを自覚した途端―――
「あ……」
―――僕はまるで糸が切れた人形のように力が入らなくなってしまった。
力を入れようにも入らない。むしろ力を込めようとすればするほど、穴が開いた風船のように力だけが抜け落ちていくような感覚に襲われる。そこまで感じたところで僕は力を入れる事を止めた。抜け落ちるような感覚がとても気持ち悪い。思えば今日の僕は一日走りっぱなしだった。
最後の森の中での遁走はもう気力だけで走った様な気がする。僕は何時の間にか自分の限界を突破していたのか…と思ったが、そんな事よりも今は寒くて身体中痛くておまけに岩だらけの地面だからゴツゴツして身体の痛みとは別に痛くて堪らない。せめてこの寒さだけでも何とかしないと風邪を引いてしまう。
本当はこの時の僕は低体温症に近い状態だった。もっともそのお陰で長い事水の中を流されたのにも関わらず生きていられたと言えるがその運の良さにもこの時は気が付かなかった。何とかして水から這いあがろうとした僕だったが、妙に身体が重い事に気が付いた。最初は疲労だと思っていたのだが。
(……ちょ、なんか赤いモノが見えるんですけど)
首のあたりが妙に重たいと思ったら、そこにはぐっしょり濡れた赤いボロ雑巾…ならぬ赤いワンコがかじりついていましたとさ。そう、僕を追いかけ回した挙句についに捕まえた野良犬くんは、噛みついたまま僕と一緒にここまで流されてきていたのだ。なんという執念だろうと驚くが今はそれどころではない。
僕はなんとかして犬を振り払おうとした。移動するにしても今の疲れた身体では重すぎる。だが犬はその牙をしっかりと服に食い込ませており、僕を解き放とうとはしない。ああ不味い、野良犬を放そうと格闘していて水の中に浸かりっぱなしだった事を忘れていた。寒すぎて歯の根が合わなくなってきている。
「う、うう…」
こうなりゃヤケである。僕は最後の気力を振り絞って背中に犬を背負う形で立ちあがった。膝は笑い、足は殆ど動かず、視界がダンスをしているかの様に揺れる。焦点が合っていない。揺れる身体を気力で押さえつけ、僕は水から上がるとそのまま光る木の袂へと歩いた。別に何か考えがあった訳じゃなかった。なんとなく濡れていない場所と光っている場所の方が暖かいと思った、ただそれだけ。
水を吸い込んだ衣服は身体にべっちゃりと張りつき、ただでさえ鈍くなっている動きを阻害する。そして背中に背負っている水を吸った毛玉は僕の足腰に重大な継続ダメージを与え続け、僕は身体のあげる悲鳴のようなアラームに顔をしかめた。ギシギシと骨が嫌な擦り方をしている気がしてならない。だけど僕は一歩一歩確実に木に近づいて行った。
(あと、すこし…)
もう目には光る木しか映っていない。
(あと、もうちょっと…)
一歩動くごとに体力が抜ける。
(もう、一声!)
ええい、動け!動くんだ!
(がんばれ頑張れ頑張れば出来る!なんでも出来る!行けばわかるさ!)
何が判るかは聞かないでほしい。この時は本当にのっぴきならない状況で脳みそが仕事を放棄していた物だから…。とにかく僕は気力で動き泉の傍を通過しようとした。でもまぁ、ここまで色々と不幸続きなら大体どうなるか予想付くかもしれない。
(あ…やばい…意識が…)
猛烈な疲労が再び襲い掛かる。
気力を支えるのは精神力だが、精神力を支えるのは体力である。
だが、その体力が限界を突破してるから……。
(もう、だめ…うわぁ~)
ぐらり…と、こうなる訳で。僕は身体が左に傾くのを止められなかった。
それだけならまだ地べたに倒れ伏すだけで済んだのだが、なんと運悪く右足が苔に取られてしまい。
《どっぼーん》
空虚な暗闇に、水の音が響いた。こんどは木の袂の泉に落ちた。今日は本当によく落ちる日だった。
もうアップアップと慌てるような体力は残されていなかった。だけど疲労が一回りしてもはや冷静な僕は一味違う。ここは水中、浮力という力で僕は一時的に重力という呪縛が軽減されている状態。
そんな訳で足はもう動かないので両手だけで水中をハイハイした。どうにでもなれと腹をくくれば人間はここまで強い。もっともそれ以前に泉といってもひざ丈までしか水が無いし、広さもちょっと大きめの子供プールレベル。慌てなければ溺れる事は無かった。
でも岸辺に顔だけだした僕は、もう動けなかった。幸い川の水とは事なり、この泉の水は不思議と温かく感じた。身体が冷え切った状態だったから通常の水温でも暖かいのかもしれない。その不思議な暖かさに当てられて僕の気力も削がれていく。眠ったら、死んでしまうかもしれない。
だけど、もう疲れたよ…。
―――そして僕は意識を落した。背中に犬を乗せたまま。
***
それからどれほどの時間が経ったかは判らない。
ほどよい暖かさに包まれた僕は眠り続けた。
疲れ切った身体は起きる事を放棄したが、この暖かさがあればどうでも良かった。
トクン、トクンという心音が、まるで親の腕に抱かれていると思わせる。
僕は知らない場所に来てしまったという事すらも考えられない程疲れ切っていた。
でも今は家に帰るという事よりも、この眠りを享受したかった。
だが…この眠りはそれ程長くは続いてはくれなかった。
やがて、周囲の暖かさが段々と霧散し無くなっていった。
無意識だったけど、僕はそれを嫌がったんだと思う。
だから僕は、その暖かいモノをこれ以上霧散させない様に身体の内に蓄えた。
無意識でやった事なのでこの時の事は良く覚えていない。
霧散しかけた暖かさがそれで戻ったと安心した途端、意識が引っ張られて僕は目覚めた。
「―――……う、ここは?」
目が覚めると僕は光る木の根元に居た。一連のあれが全部夢であればと思ったが、どうも夢に収めるにはどたばたが過ぎたみたいだ。薄暗く肌寒い世界、遠くに聞こえる滝のような音、意識を失う前に見た物と一致する。夢ではなく、これは現実であるという事だった。
「………っくしょん」
くしゃみが暗い空洞に木霊する。ああ、寒いのはまだそのままか。ふと見れば泉に肩までつかっていた。ここに来た時の凍えきった身体なら泉の水でも十分暖かかったのだが、今ではなんかぬるま湯のように感じられる。というか身体の内側がぽかぽかしている気がするあたり、泉はなにかの鉱泉の類だったのかもしれない。
何時までも浸かっているとふやけそうだ。しかたないから上がろう。ヨイショと泉から這いあがると重力で身体がふらついた。浮力が支えていた分が消えたからより重たく感じる。
「ひゃー、びしょびしょだ」
水も滴る良い男とは言うが、現実に水が滴ると鬱陶しいことこの上ない。僕はパーカーを脱ぎ捨て下のジーパンも脱ぐとTシャツ姿のままで脱いだ服を絞ってみた。水をタップり吸い取った衣類から滝のように水が滴る。一通り絞ってから適当な高さにあった光る木の枝に乗せ乾かす事にした。
不思議な事にこの木の周りは地下だというのに暖かかったからだ。おかしな事もあるもんだと思ったが、ここでふと先程まで自分が使っていた泉に目が行く。光る木の枝の先端から流れ落ちる滴が溜まって出来た泉は、木と同じくぼやぁと光っている。
「………あっ」
そして、その光に照らされて泉に沈む赤い物体が目に入った。言わずもがな僕の服に食いついていたあの野良犬だ。何時の間にか襟元から牙を放していたらしい。水中でぶくぶくと口からあぶくを出しているあたり野良犬はまだ生きているようだ。
助けてやろうかと手を差し伸べようとしたが、止まる。力なく泉の底に沈んでいる野良犬は僕に襲い掛かってきた野良犬だ。ペットでもないし、僕に助ける必要も義理も理由も無い。第一目を覚ましたらまた襲われるかもしれないと思うと助ける気になれなかった。
徐々に野良犬の口からでる泡の量が減っていく。目を覚ましていないからこのまま放置すれば溺死するだろう。僕が手を下す訳じゃない。ここまで来たのも偶然なのだ。だけど、無防備に沈む姿を見て、そのままだと死んでしまうと思った瞬間。
「よっと――うわ、意外と重い」
止まった筈の手は再び伸びて、泉に沈む野良犬の口を水面に持ちあげていた。野良犬が目を覚ませば襲われるとか思わないでもなかった。だけど、僕は別に動物愛護の精神がある訳じゃないけれど、苦しんでいる動物をそのまま放置出来るような寒い心の持ち主でありたくなかったのだ。
襲われて死にかかった。いやむしろ死んだのかもしれないと思わせるような目にあいながらも、僕はちょっと脳天気だった。日本人という人種がそうさせたのかもしれない。ともあれ、掬いあげた命を放置する訳にもいかず、野良犬の近くに座った。もっとも自ら掬いあげた段階で勝手に飲んだ水を吐き出していたのでやる事はなかったのだが。
それでも動物を助けられたという何というか優越感のようなモノを感じつつ、僕は再び周囲を見渡した。相変わらずこの光る木の周り以外は真っ暗で、遠くから滝のような水が流れ落ちる音が聞こえる以外に何の変化も無い。普通なら空が見える筈の上も石の天蓋だからか一分の光さえもなかった。
これでどこかに隙間でもあって光りが差し込んでいたら救いがあったのにね。見知らぬ場所に突然やって来た挙句、遭難して誰も助けに来ないような地下空洞に落っこちて…死ぬのかな?そう考えたら背筋がうんと寒くなった。
ああ、ダメだダメだ。ネガティブな事を考えたら余計に落ち込んでしまう。変な事を考える前に現状に対処しないといけないのだからと、僕はネガティブな考えを打ち切った。精神的な寒さを感じた事で身体に鳥肌が出た僕は何と無く隣に眠っている野良犬を抱き上げていた。
少し湿っていたが動物特有の暖かさは健在で肌寒い洞窟の中では随分と暖かい。特に今みたく不安を感じているとより寒いので、おもわず手元のやわっこい暖かなモノを更に抱き寄せた。うん、こりゃいいぞ。適度な重さとヤワっこさがやや重ためのヌイグルミみたいだ。
良く判らない状況に不安は大挙して押し寄せてくる。だけどこの暖かさを感じている今は何と無く落ち着いていられるような気がした。まあ犬の方は迷惑しているらしく、目は覚ましていないが身動ぎをしていた。ごめんね。
こうして僕とワンコの暗い地下からの脱出が始まった。