霊鳥の安息地2〜喰人鬼〜
万物が黒白に囚われた。
その異様な光景に胸が締め付けられ、何度も、何度も同じ言葉が反芻された。何故、誰が、何の為に——
「一体、何が……」
「はッ! 決まってるさね。どっかの阿呆が神魔封印の要を解放させたんだろうよ」
「そんな、だって——」
〝——けて〟
戸惑いの最中に耳に届いた小さな声。つられるように街の方向へ視線を向けた。
暗闇に滲み出す華奢な輪郭線
こちらへ歩みを進めるその足取りは、ふらり、ふらり……おぼつかない。
曖昧だったその者の容姿は、意図せず向けていた照明器の灯りに触れて、早々に明らかとなった。白地のつなぎ服を纏うは、年若い娘。力無く歩む度に純白の裾が翻り闇を泳ぐ。
つなぎ服に洒落気の無い作業用の腰巻エプロン。
迎えに寄越された農婦……か? いや、それにしては様子がおかしい。そもそも、この時間帯に農作業なんか——
〝助、ケテ……〟
俯く顔がゆっくりとこちらへ向けられ、口が開かれた時、その解は示された。ぽつり、落ちた雫の軌跡を見て〝お前は何の為に此処へ来たんだ〟と舌打ち。
迷ったり、戸惑ったりしている場合じゃない。民が救いを求めているんだ。ならば、今は私が出来る事をッ
「彼女ッ、保護します!」
アビーへ告げると同時、農婦の元へ駆け寄った。崩れ落ちるすんでのところで、受け止めるように身体を抱きかかえる。
軽い……思った以上に疲弊している。何故?
ただの感染症ではないということなの? いや、この娘は隔離されていない。そうであるなら、尚更どうして……
「教えて、何があったの?」
腕の中でぐったりとする彼女に問い掛ける。しかし返答はなく、言葉にならぬ嗚咽だけが漏れた。身体は冷たく、小刻みに震えている。
一体何を伝えようとして……
いや待て、何だ、この腐臭は——
「マリス」
ふと、背後からアビーの声。
「はい?」
「——退きな」
「ゥえッ!?」
後襟を鷲掴まれ、後方へ無遠慮に引っ張られる。入れ替わるようにしてアビーが前へ出て、少女の胸元へ右腕を伸ばした。
ずぶ……ゥ——
「え?」
そう、少女の胸元をアビーの右拳がトンと一度突いたのだ。ごく自然に、何の戸惑いも無く、そうする事が当然であると、そう言うかのように。視界の中で、ゆっくり、ゆっくりと崩れ落ちる少女。つつましい胸元に突き刺さるナイフの柄本が怪しい双月の月光を受けて、少女とともに暗闇に純白の軌跡を残した。
「ゲホッ……なッ、何してんですかッ!?」
ちょちょちょッ、何しちゃってんのこの人!?
まずい。このままだと殺人の罪を幇助したって事で、憲兵隊に捕まったあげく、このおばさんと一緒に豚箱へ放り投げられて私自身が生ハム状態に……駄目駄目、そんなの絶対無理!
自分が手を下した少女には目もくれず、街の奥を睨んだまま微動だにしないアビーを尻目に、少女のもとへ駆け寄った。
——間に合うかッ?
首元に指を当て、ナイフの柄本まで線を引くように肌の上を滑らせる。ナイフは水平。刺突箇所は正中線の左。位置は第3……第4肋骨の間って、おいおいヤル気満々のもろ心臓狙いなんですけど!
けど、このナイフは彼女が祭礼用に使う銀の短剣? 殺すつもりにしても何故こんな殺傷能力の低いものを……いや、考えるのは後だ。幸い、多量の出血や部位欠損は認められない。これなら私でも何とかなる。
先ずは、治癒術式の触媒となる私特製の聖水を——
〝トゥルンッ〟
「——あ゛ッ!?」
慌てて取り出したからか、手の中で聖水が入った小瓶が暴れて、その中身が全て少女の胸元にふり注がれた。途端——
〝Ghyeィ゛ャア゛ァ————ッ!!〟
絶叫が鼓膜を叩いた。思わず怯むほどの、そう……《《人外》》の嘆声が膨れ弾ける。その声の主。農婦の少女は、聖水がかかった胸元を両の手で搔きむしり、叫び続けた。
「あ〜あ〜殺っちまったねぇ。一気にぶっかけるからショック症状を引き起こしちまった」
「だだだ、だって瓶がッ! トュルンッて! 勝手にトュルンッてふざけるからァッ……」
「トドメ刺したようなもんだよ、こりゃ」
「ふぇッ!? しょしょしょッ、しょんなぁ〜ただ、私はこの娘を蘇生しようとぉ゛ッ!」
「蘇生? 何言ってんだ」そう言うと、アビーが見てみろと言わんばかりにあご先で少女を指し示す。
〝ぁあ゛ッ! Ghuu……〟
溶ける。聖水がかかった箇所を中心に皮膚が溶けていった。少女だった何かは、既に事切れている。
「容赦無いねぇ、死霊に聖水ぶっかけるなんざ、あんた真性のサディストだよ」
「……へ?」
目の前の現象に理解が追い付かず、答えを求めるようにアビーを振り返った。
「——で、いつまで隠れているつもりだい?」
抑揚も無く、ただ怒りだけが込められた言葉。肌に突き刺さるのではと、錯覚するほど冷たいソレがアビーの口から放たれていた。
ゆらり、呼び掛けに呼応するかのように、黒白に色を奪われ、あたかも万物が息づくことを諦めてしまったのではと思わせる異質な世界で、一つの影が怪しく蠢いた。
またも、少女の影だ。
先程より二つ三つ歳上か?
街の入り口からゆっくりと此方に歩み出す。
キチキチ、キチキチ、骨が鳴る。
人ならざる者の動きに、可動域を超えた関節が悲鳴をあげていた。それもそうだ。人の首とは、あれ程までに曲がるものであったか? あれ程までに速く可動できるものであったか?
吐く息は、闇より黒く。
先程まで感じられなかった腐臭が鼻奥を突いた。
何かを探すように彷徨っていた顔と視線が、ようやっとこちらを向くと、少女には到底似つかわしくないドス黒い両の眼が見開かれた。
『gye……〝¬∨≡〟〝⊿¬∨〟〝∠⊿¬〟』
意味の分からぬ言葉とともに、形容し難いほどの〝怒り〟がぶつけられた。それを見たアビーがフン、と呆れたような溜息を一つ。
「ようやくお出ましかい」
「ちょちょッ——何なんです!? あ、ああ、あれ……あのキショいのッ!」
嫌に冷静なアビーの言葉で正気に戻った私は、転がるようにアビーの背後へ駆け寄って、問い質した。あの、目の前にいる異形の存在は何なのかと。
「私が説明するより、当事者に聞いた方が早いな」
そう言って前に歩み出て、農婦の亡骸からナイフを引き抜く。
「何言ってるか分からないよ。どうせ、喋れるんだろう? こっちの言葉で話したらどうだい」
『〝∠⊿¬〟……〝l〟、〝b〟、〝g〟〝Ge、Ge〟〝Gebal〟〝Gebal〟』
老若男女、全ての声色が混じったとでも表現すればいいだろうか。非道く不快な、金切声が響き渡った。とはいえ、未だ人語には程遠く……
「な、なんて言ってるんです?」
「腹が減ったとかかね?」
『傾聴セヨッ——聴ケ聴ケ聴ケ聴ケ!』
違う、と否定するように発せられた次の言葉は、間違いなく人間が発する言語であった。
案外、要望を受け入れてもらえるものなのだなと一瞬錯覚するが、こちらの話を聞けというその言葉に、拒否するという選択肢は与えられていなかった。耳を塞げども、脳髄に言葉を響かせるような振動を伴う聲だった。
「聴いてやるよ。喋りなッ!」
言って、ナイフを投擲。吸い込まれるように異形の胸元へ。
『カカッ!』
その異形は避けることもなく、ナイフを胸に受けた。気にせず、アビーの返答に満足そうに長い舌を伸ばして嗤う。ふと、視線を下ろした。胸元に突き刺さったナイフに焦点が合ったかと思うと——戸惑いもなく、ソレを両の手で鷲掴み、腹を裂くように一気に引き下ろした。
裂ける。いや……開いたのだ。
胸元から股上まで柔らかい皮と脂肪が張り裂けると、左右対称の十二対の肋骨がむき出しになり、わらわらと動き出す。
牙だ——そう、思った。
縦に開いた胸部と腹部。そこから剥き出しになった肋骨は、左右に開閉して、骨と骨がぶつかる度にキシキシと耳障りな音を出す。その態様は正に、得物を狙う獣の口を思わせた。
夜のような黒い瞳。
漂う腐臭。
人の子を呑み込めるほどの大きな腹顎。
人の皮を被りし異形の存在。
記憶しているどの野獣、魔獣の類とも合致しない。けれど……常世乃者の中に、その名はあった。
「——喰人鬼」
「惜しいな——よぉく見るんだ、マリス」
街の奥を睨むアビーが静かに言った。促され、目を凝らした。
揺れ動く影が、ゆらり、ゆらり、増えてゆく。一つや二つ……両の手の指を使えども数え切れず、あと何本の腕があれば足りるのか、計算する気力すら奪われるほどの大群。
ある者は四肢の一部が欠損し、また別の者は四つん這いのまま天を仰ぐ。その全てが肋骨を剥き出しにカチカチと骨を鳴らしていて……幾つかの個体は何かを咀嚼していた。
何か? いや、あれは……人の身体の一部だ。腕、手、脚、足そして……こちらの視線に気が付いた一体が、見せつける様に腹を開くと、見覚えのある男性の——そう、先程まで手綱を握っていた筈の馭者の頭部がそこにあった。
あぁそうか、コレは……
此奴等は——街を、呑み込んだのか。