導きの碧き星2〜異邦人〜
「ふぅ~」
白く塗られた木製の椅子にアビー神師が深く腰掛け、小さくため息を吐く。彼女の視線の先、右手指の間には、銀色に輝く細身の金属製パイプが握られていた。
美麗な装飾が施されたパイプが、ジリジリと小さな産声を上げる。その先端から細く昇る紫煙が、彼女の吐いたため息でゆらゆらと揺れて、楽しく踊っていた。
「あ、聖職者が煙草を吸うのはどうかと思いまぁす」
「ほぉぅ……いっちょまえな事をほざく様になったじゃないか、マリス」
私の苦言に対して、全く動揺を見せずにこちらに視線を落とした。思わず背筋が凍り、この場からすぐにでも立ち去りたいという衝動に駆られたけど、そうもいかなかった。
正確に言えば、今、私が自由に動かせるのは、両の目と口ぐらいなもので、手足は動かすことすらかなわない。そう、先ほど捕縛された私は、シーツで簀巻きにされて、若芽が生える香り高い緑地の上にまるで芋虫のように寝転がされているのだ。だから、身体では抵抗できないので、せめてもの抵抗に苦言を呈したのだ。
「フフ、私も日々成長しているのですよ。この事を公にされたくなかったら、私を速やかに開放することですね」
ドヤァッ……じゃなかった、見よ! このピンチをチャンスに変える神対応!! 聖職者がヘビースモーカーと知れ渡れば、こんな小さな教会なんてあっという間に閑古鳥。それにザオカイヌス正教は、アルビオン王国が信奉するアウェス教から分派した少数派だから、王国の圧力もかかってすぐさま虫の息って寸法……
「……ふむ、あたしゃ構わないが、マリス、あんたは職を失い、路頭に迷う事になる訳だ。御婦人街で売春婦にでもなるか? そうだ、この教会を浴場にしちまうのもいいかもしれないねぇ」
ちらりと視線をこちらに寄越して不敵に笑うアビー。
「あわわ……」
この女、本気だ!! そういえば、前々から思ってたけど、本当に聖職者なのかってくらいに歪んだ思想の持主だった。幸いなのは、先ほどまでいた日曜学校に来ていた子供たちは、既に親御さんに連れられ帰宅していることだ。こんな話、聞かせられたもんじゃない。
「ま、安心しな。こいつは煙草じゃない、香木さ」
「へ?」
震える私に対して、アビー神師は子供に言い聞かせるようにやさしく言い放ち、パイプに口を当て息を吹き込む。酸素を得た幼い火種が急成長し、先ほどよりも太く白い煙を天へと送った。
「あっ……」
不意に流れた風で、香木が放つ匂いが私の鼻元を掠める。
「良い香り……」
甘く香り高いその薫香に、私は一瞬で心を奪われた。
「これは、今の世を作った神話時代の英雄に送る弔いの香、それこそ、私たちが祈りを捧げるザオカイヌスの好きな香りさ」
どこか懐かし気な表情で、彼女は白煙が昇る先、青い天空を見つめた。
……神様を呼び捨てにした部分は聞き流しておこう。
「それに、ウチはアウェス教みたいになんでもかんでも禁欲的な生活を目指しているわけじゃないからねぇ」
「——万物は自然より生じ、自然に還る……在るが儘の心で、在るが儘に生きよ」
自然と私の口が開いた。
「そうだ、わかっているじゃないか。それがザオカイヌスの教え、要は要するに、人間らしく好きなように生きて、死すべき時に死ねってことさ。あんただってアウェスの修道女じゃなくてザオカイヌスの神従者になったのは、大好きな食事を楽しむためだろう?」
言って、アビー神師は足元に置いてあった編み籠から陶器製のティーポットとカップ、それに白布に包まれた何かを、自身が座るチェアとセットの丸テーブルの上に置いた。
——あ、あれはッ!!
「ぅあぁああッ——!!」
私の身体に力が漲る。神が私に力を与えているのだろうか? ここを脱出し、あれを手に入れよと心に訴えるのだ! そして、ハッと気づく、シーツに包まれている訳だからコロコロと一方に転がれば解放されるではないか!
しからば、コロコロ~ッとな。
「よぉしッ脱出完了!!」
目論見通りシーツから這い出ることができた私は、そのまま流れる動作でアビー神師の向いに座った。目の前に広がる光景に心が躍る。
「その情熱を、別の物に向けられないものかねぇ」
「何を仰ってるんですか! お茶の時間は何よりも大切な時間なのですよ」
二つのカップに湯気の立つ紅い液体を注ぎながら、アビー神師がくすりと笑う。次いで、テーブルの中央で白布に隠された物が露わになる。白い楕円型の陶磁器の中は黄色……いや黄金に輝くそれで満たされ、プルプルと震えている。触れれば今にも崩れてしまいそうなほどに絶妙な硬さで形作られたそれは間違いない——
「ほら、あんたの好きな女王の卵だよ」
「ほへ~」
感嘆のため息が漏れ、たまらずスプーンで一掬い。
ツプッと弾力ある表面を貫くとそこからは抵抗なく進み、スプーンが容器の底に達した時点で、底に隠れていたベリーソースがジワリと表面に染み出してくる。崩れてしまわないように慎重に口に運んだ。
口に入れば広がるのは、春雪花の芳香な甘い香り。
卵とミルクが丁寧に混ざり合わされたクィン・エイルは上品な甘さを舌に伝え、溶ける様に消えていく。
そして、香ばしい香りとともに甘酸っぱいベリーソースが後を追って来て「もう一口」と催促するように私の手を無意識に動かすのだ。海の向こうから来た菓子職人に感謝せねばなるまい。アルビオンの何でもかんでも固めて焼いた品々とはもはや別次元の料理である。
「はぁ……美味ぇ、美味ぇよぉ〜。神様ありがとう!」
「あ? 感謝する相手を間違えているんじゃないか」
「買って来ていただき、誠にありがとうごぜぇます」
紅茶で満たされたティーカップ片手に、アビー神師に頭を下げる。頭を上げたところで、紅茶を口に運んだ。白いカップの縁の向こうに、先ほどの銀のパイプが見え、ふと疑問が浮かぶ。
「何で……」
「ん?」
「何で、ザオカイヌス様は人間に味方したんですか?」
「おいおい、何度も聞かせてやっただろうに……今更かい」
「あれ? そうでしたっけ?」
「そうだよ。お前が日曜学校に来ていた時から聞かせてやっていたじゃないか。あの頃は可愛かったのになぁ、神様もいたずらが過ぎたもんだ」
遠い日を見る目でアビー神師が語る。それで、私もうっすらと小さい頃の記憶がよみがえってきた。そういえば、私は大きくなって今や教会の神従者となったが、親代わりだったこの人の見た目は全くと言っていいほど変わっていない……ずるいな。
「あー何となく思い出してきました。確か、おとぎ話だと思って毎回聞きに来てましたね」
「そうだよ。ま、大体途中で寝ちまってたがね」
「そうだ! また聞かせてくださいよ。お茶のみがてらに」
「お願いする者の言い方としては不適切な頼み方だと思うが……うちの教会の者がそれを知らないようじゃそっちの方が恥ずかしいからね、まぁいいか」
紅茶を口に運びながらアビー神師が言う。
「さて、どこから話したもんか……そうだね、あれは——」
*****
——神魔戦争
それは、人々が神と悪魔に翻弄され、終わりなき争いに身を投じ、希望という言葉など、とうの昔に忘れ去られてしまった時代。
天は轟き雷を落とし、大地は叫び灼熱の吐息を溢れさせた。大気がいたずらに息を吐けば、流れる風は嵐と化して、天は更に嘆き、大粒の雨を落とす。
理を支配する超常の存在と、それらに従属する異形の存在に畏れながら、限られた大地と資源を奪い合い、屍はただただ増えるのみで……
なれど、凍える夜から逃れ、僅かばかりの陽光を求めて彷徨い、絶望に嘆く人々の下に、彼の者は現れた。彼れこそ、彗星の輝き——そう、此の世の外より訪れし異邦人。彼は人々に問うた。
何故、神を恐れる。
何故、悪魔に惑わされる。
神と悪魔の代理戦争の駒となるな、真に闘うべき相手を見間違うな。神を討ち、悪魔を戒め、己が自由を勝ち取れと……。
その言葉に震え、立ち上がりし英雄達は、超常の者達へ闘いを挑む。
幾人もの英雄の屍の上、異邦人と英雄達は、彼等に同調せし神魔と共に数多の神を討ち取り、悪魔を裁いた。そして、散り際に異邦人は謳う。人々の願いと、神魔を縛る希望の詩を……
平和が訪れる——そう、その筈だった。
理をも操る神魔の残滓……新たな異能を得た人々は、更なる力を、富を、名声を求めて、愚かにもまた争い始める。
それから幾年……時は群雄割拠、神魔戦争を経て発見された新大陸は、理想郷と呼ばれ、各勢力が冒険者を雇い、その大地を手に入れんと、未だ争いを続けていた。
流れる血は川を作り、増える屍は山を作る。
欲に呑まれた愚者達は、やがて、異邦人が残した希望の詩を己の為だけに使う禁忌を犯した。
それが血と肉を依り代に常夜乃者を呼び寄せ、神と悪魔……そして”愚かな英雄”を目覚めさせる事となるとも知らずに……
用語解説
◯ザオカイヌス正教
アルビオン王国内で一部信仰される少数派。
シンボルは赤い十字架。政治介入を強める教皇派の方針に異を唱え対立し、始神アルケウスと共にあったザオカイヌスの教え「在るが儘に」を世に訴えている。現状、両派は対立状態にある。
○カリス教会
キングス・ポート郊外に位置するザオカイヌス正教の支部。一応布教活動が主たる目的であるが、日曜学校の開設以降、同都市居住世帯の児童預け所と化しており、財政はボチボチの模様。
◯春雪花
雪解けと共に開花時期を迎える直立茎の花。花弁は5枚でラッパ型の白色。多量の蜜があり、爽やかで甘い香りが特徴的。養蜂や香料目的で栽培される事が多い。
○アビー・ブラックウェル
カリス教会責任者で女性神師。銀髪緑眼、妙齢の女性に見えるが、言葉遣いは年寄り臭い。マリス曰く(小声で)、幼少の頃から見た目が殆ど変わりないとのことで、実年齢は40近くになっているのでは、とのこと。
○マリス・ステラ
カリス教会の新人女性神従者。孤児。金髪蒼眼、今のところ理性よりも欲で動く方。プティングが好き。よく神従者の登用試験に合格できたものだ、とはアビーの口癖。