欲花狂瀾1〜脈動〜
【Date・Location】
黒白の狭間
「蛇公、お前はこれから何を成したい?」
異邦人が俺に問い掛ける。いつか、俺が四葉に問い掛けた様に。
——喉が、潤う。
焦燥にも似た全身の渇きを満たそうと、唾液の分泌を待たずして咽喉が鳴ると、しとどに溢れ出す何か……否、血が全身を巡るのだ。
心臓が脈打ち、五臓六腑に伸びる血脈が波打つと、細胞の一つ一つまで血が行き渡った。
「破ッ——笑わせやがる」
自ずと額に拳を叩きつける。自嘲か羞恥か……或いは自己への怒りか。鈍い音が頭蓋を震わし、思考が徐々に晴れ渡っていく。
この俺が、最初から諦めていたというのか?
忌むべき存在として真名を奪われ、たかがかつての力を失った程度で……再度、奪われる事を許容しようとしていたというのかッ!?
大きく高鳴った鼓動が早鐘を打った。
己がかつて探し求めていたものは何だったのか。
目覚めた時に奪われ、失っていたものは何だったのか。
出会った白詰草が、四葉が見せた〝涙〟の意味が、今ならば……
かちりと、何かが填まる音。
ぽっかりと胸に開いていた空しさを埋める欠片が漸く見つかったのに、かつて知り得ぬその新たな感覚に我が心は戸惑い、靄がその正体を覆い隠す。
「それで、いつまで居るつもりだ?」
「あ?」
「あ? じゃないだろう。まさか、本当にこっちに来る気か?」
呆れた声で異邦人が返す。
「——覇ッ、笑わせんな。まだまだこの手で掴まなきゃ気がすまない物が腐るほど有りやがる……知らねえモンが次々に出てくるんだよ。そうだ、ついでに教えてくれよ」
「何だ?」
見当がつかない、といった声色で返す異邦人に、大したことじゃねぇと一言加えて……この胸を覆う靄の正体を問う。お前には、これが分かるかと。
この胸に湧き上がるものは何だ?
犯したいという劣情の欲でも無く。
我が物にしたいという支配の欲でも無く。
従属の欲でも、嫉妬でも、はたまた依存の欲でもない——
「この胸を……鉄を溶かすほどに、焼けるほどに熱くなるこの感覚は、一体——」
「ふふ……ハハッ」
背中で異邦人がこちらに体重を預けて笑う。
「何が可笑しい?」
「いや、なぁに……神も悪魔をも恐れぬあの〝次ぐ者〟が、よもや今更、其れに恐れをなすとは、思いもしなくてな」
「おい、おちょくるのは止せ」
「すまんすまん。では、問おう——」
お前が抱くそれは、欲が生むものか?
——然り
お前が抱くそれは、かつて感じた事のないものか?
——然り
お前が抱くそれは、かつて見ぬ新たな色を持つものか?
——然り
それを奪われることを是とするか?
——否
それを失う事を是とするか?
——否
何よりも、それを欲したいと、切に願うか?
………………然り
「ふふ……そうか、なら教えよう。それこそが、かつての戦いの中で、俺たちが勝ち得た唯一の希望。お前が遺していった八色の欲望が生む新しい色だ」
「新しい色?」
「そう、八欲の根源は、生への渇望。生きたいと、強く願う人々の思い。あの戦いの後、人々が手に入れたもの、それは——感情だ」
「感情だと?」
感情など、俺が生まれる前から……昔からあったじゃないか。死への恐怖。生への執着。万物が有する創造主に定められし枷。創造主が生ある者を支配するための鍵。それが……感情だった筈。
「あぁ……どんな欲よりも罪深く、浅ましく、そして美しい。どんな感情よりも、心の臓を揺さぶり、欠けた心を満たし、それでも足りないもの。それを、その感覚を、我等は〝愛〟と……そう呼んだ」
「……アイ?」
俺の知らない感情……
「行ってこい……そして今度こそ全てを奪え。命も財も力も記憶も理も自由も、全てを、その手に。そして守り抜け、お前を愛するその存在を——目覚めの時だ、八胤大蛇よ」
あぁ、そうか——
奪われていた真名を告げられた途端、底知れぬ力が湧き上がる。
何故、忘れていたのか……己の存在がどういうモノだったのかを、今、ハッキリと覚知した。
「そうだ……俺は八欲を統べる八頭八尾の鉄の蛇にして、神に次ぐ者——ヤクサノオロチ」
奪われる前に全てを奪え
奪われたなら奪い返せ
命も財も力も記憶も、理も自由さえも……それこそが、八胤大蛇の二つと無い存在の根源。
「漸く戻って来たか」
またも呆れた様子で異邦人が声をかけた。けれど、そうでは無いのだと、此処に存在している自分は、かつての己とは違うという事が、今なら分かる。だから——
「いや、愚かな英雄は死んだんだ。あの日、あの場所で……」
「ほぅ——なら、お前は己を何と心得る?」
その返答を待っていたと言わんばかりに、食い気味に異邦人が問いかける。あたかも誘導されている様な、憎たらしくも懐かしいこの問答が、かつての日々を走馬燈の如く浮かび上がらせた。
そして、駆け抜けたその情景の向こうに、己が行くべき居場所をはっきりと捉えて、それを逃さぬ様に腕を伸ばす。
「どうしてかな……声が聴こえるんだ。俺を呼ぶ彼奴の声が」
鷲掴む。此処まで届いたのが不思議に思えるほど細く脆い細蟹の糸。確かな想いを受け止めて……そうだ、今度こそ離さない。
〝————九十九ッ!〟
がなりたてやがる。聞こえてるっつーの……だが、まぁ——良い色だ。
「——俺の名は〝九十九〟」
名付け親たる異邦人から返答はなかった。先ほどまで感じていた背中の温もりと重みもいつの間にか消え失せ、代わりに温い風が背中を押して、俺を立ち上がらせる。
前に進めと、異邦人に言われた気がして、振り返らずに声の向こう側に、蜘蛛糸が導くその先に歩み出す……胸に抱くこの想いを、その場に残して。
「足りねぇ一つを……どうやらあっちに、置いて来ちまったみたいだ」




