細蟹の糸6〜大赦〜
【Date】
同時刻
【Location】
新大陸:名も無き川
熱風が、渇いた大地を撫でるように駆け抜ける。谷川を超えて岩肌にぶつかったその風が、くぐもった呻き声をあげながら渓谷を遡上していった。
崖上で枝を伸ばす樹木が騒騒と震えると、揺れる枝からいくつかの翼果が舞い落ち、螺旋を描く様にクルクルと回りながら、九十九の亡骸の脇に舞い落ちる。
——途端、萌芽する翼果。
種子から芽が伸びること、それ自体は不思議な事ではない。命あるものが成長するということは、種族の根源に組み込まれた理に従うこと。つまりは生存そのものに由来するモノ——本能的な欲動であるのだから。
然し、此度の現象は本来なら有り得ぬ筈であった。種子が大地に触れた途端に殻を割り、根を大地に穿ち、若芽を天に向けて伸ばすという——世界の時の流れに従わぬ現象は、この世を創造した者達からすれば、それは自らが創造した存在が牙を剥き、反逆を宣じる事に他ならぬことであるからだ。
(この事象、矢張り反魂の——)
小娘が逆手を打ち鳴らし、魔が歌を口にした矢先に生じた出来事。それは、知識として備えてはいても、実際に目の当たりにするのは神族として産み出された我が身ですら初めての事であった。そして当然ながら、此の世を創造した存在が、反逆を許容する筈が無かった。
視界一面に広がる、黒白の世界。双つの月光によって万物が二分され、自らの存在を主張する事すら叶わぬ場所。此処では、移ろいゆく時の流れすらも奪われて、あたかも動きのない絵画の中に放り込まれた様な錯覚に陥ってしまう。
故に、異常であった。
動いたのだ。黒い影が、うぞりと染み出して、実体を象っていく。
(まさか、覚醒されたというのか……)
浮かぶ懸念。いや、懸念など要しない。それが目の前で起きている事実なのだ。蠢く影が不定形の身体を引き摺りながら這い進み、聲をあげた。
〝蛩ッ 蛩ッ 蛩——〟
さながら、鳴虫の如く。
〝圭ッ 圭ッ 圭——〟
或いは蛙鳴の様に……。
その場に響く、不協和音。生まれ出たそれらの存在が産声を上げ、発声するという初めての行為に戸惑いながらも、それぞれが共鳴するように鳴き始めて……一転、その場で微動だにせず、一様に宙を仰ぎ見た。まるで、何者かに合図されたかの様に。
促される様に赤眼を上へ向けると——風に流される雲のように、宙をゆっくりと泳ぐ双月がそこにあった。互いを引き寄せ合う二つの円。音もなく、白と黒の境界が交わり始めた。刹那——
〝——mOn……O!〟
騒ぐ異形の者達。
〝UnI……dIbI……trItrI!〟
双子月が交合ろうとしている。それまで統一されることのなかった呻き声が、明らかに一つの旋律を生み出していた。仮に響く歌声が何かしらの意味を持った言語だったとしても、既存の存在には覚知し得ないものだろう。然れど、これだけは言い切れる。それはまさしく、歓喜の歌であったのだと。
(これは、そうか——終の挽歌とは……そういう事であったか)
黒白の双月が交わり、新たな胤を孕む。いわば、この世界の在り方を書き換えるための調律。異形共は、待っているのだ。それまで下等な環境に置かれていた己等が、人間共に取って代わる存在へ生まれ変わる、その時を。
覚知したが故に、理解したが故に、抵抗する意思を奪われる。最初から抗えぬ事なのだと。おそらくこれから始まるのは選別と淘汰。創造主が定めた理から解放されし存在だけが、次代に残され、生まれ変わるのだ。だのに——
〝嗚呼〈ああ〉、奏者よ——〟
(——この娘、抗うというのかッ!? 世界の意思に、己独りでッ!)
小娘の声に反応した異形共が一斉に此方を一瞥し、駆け出して来る。
その最中、周囲を慄わす発声。否、これは……歌だ。
蛇の亡骸を抱く小娘を中心に、先程芽吹いた若芽と同じく円状に草地が広がっていく。自らに迫る脅威を意に返さず、小娘は独りで旋律を奏で続けた。
それは、異形の者達にとっては些末な問題であった。これから喰らおうとする存在が何を為そうが、異端を蹂躙排除し、世界を在るべき姿へ戻すのが彼等に刻まれた使命であるのだから。
〝天球の音楽奏でる創世の者達よ。彼の者が迎えるのは、この様な結末ではない〟
〝無論、我々にとって死は何よりも甘く、生は須らく苦しみに溢れている〟
異形の群れは、既に渓谷を埋め尽くすほどの大群となり、小娘に迫る。
おそらくは、この場だけでなく世界各地にて同様の事象が発生しているだろう。九十九の再生も間に合う訳がない。もはや止める術など……
〝なればこそ、我が身は、この双極が支配する世界の果てにて彼の者を待ち続けよう〟
だが、力強い眼光を宿す小娘の表情に絶望や諦めといった色は伺えない。それどころか—―
〝――蛩ッ!?〟
蛇の脱殻を取り込まんとする異形の群れが、小娘が歌う旋律に触れた途端に崩れ始めた。ある者は身体から草木が芽生え、急速に成長したかと思うと過熟し朽ち落ちて、新たな芽の苗床となる。
またある者は、砂塵と化して土に還るか、数歩前に進んだところで肉が腐り始め虫が沸き、成虫となって飛び立った虫たちもすぐさま地へ落ちて……目まぐるしく急速に輪廻するそれらがもたらしたのは、千代の歳月が産み出すにも匹敵する数多の生命力であった。
「これは——ッ⁉︎」
確かな事象として可視化されるほどの生命力が暴走している。そしてその全てが、全てが九十九という一個体に集約されていく。大地に還った異形共から新たに生まれた地を這う八つ足の細蟹達が、九十九の腹に空いた風穴に群がり塞いでいく。
(此奴ッ——世界再構築の余波を蛇の亡骸に仕向けているというのか。だが——)
小娘が展開した反魂の調による円陣が徐々に侵食されていく。やはり、人間一人程度で抗えるのはこの程度か。
(世界の理に反逆して何が起こる? 何が得られる? かつて挑んだ者すらいない、その愚かな道の先に一体……何が——)
不意に我が身に起きた飢えや渇きにも似た感覚。欲しているものが何なのか解らぬのに、その答えが得られる気がして、思わず小娘に問うていた。
「今一度問う! 小娘よ、貴様この先に何を観る? 奴を再生させたとて、この世の行く末など変えられぬのが必定!」
そうだ。何も変わらぬ、変えられぬ。迫る生の終わりを前にして己が信ずる道を突き通したとしても、誰の記憶に残るでもない。
「よしんば、肉体の再生に成功したとて、貴様一人で如何にして彼奴の魂を脱殻に植え付け、繋ぎ止めるつもりだ? 小娘一人程度の畏れでは、蛇の魂魄をこの場に留める……否、黒白の狭間から引きずり出すことなど——」
「……じゃない——独りじゃないさ」
草木が宣じる。己は独りではないと。
「ほざけ——ッ」
精神論ではない。現実的な問題として足りないというのだ。たかだか人間一人の畏怖や信仰といった思念のみで神魔が力を得ることなどあり得ぬというのだ。そう、罵ろうとした矢先——
〝ah……〟
沸々と周囲に沸き始める思念。この場にいるのは小娘一人ではなかったのか……と疑念が生まれる頃、澄んだ発声が渓谷に響いた。歌っても良いのかと恐る恐る窺う様な、童女を思わすか弱い歌声が。そして、小さな鬼火が蛇の亡骸に集まり始め——
「これはまさか——先刻、蛇に解き放たれし魂魄かッ!?」
己の眼を疑う光景。最初に歌い始めた魂魄に誘われる様に、一つ、また一つと鬼火がその場に灯りはじめ、奏でられる旋律が徐々に膨れ上がる。さながら、宙の瞬きの如く。
「馬鹿な……既に解放された魂魄が、自ら彼奴の贄となる事を選んだというのか」
俄には信じられぬ状況に唖然とする我が身に、小娘が叫ぶ。
「赤目ッ——ここが分水嶺だ!」
「何だと?」
「天道に是非を委ねて去ぬか、我等と共に最後まで足掻き通すか! この大博打ッ貴様なら、さぁッ——如何する!」
「血ャ——ッ」
湧き上がる、何か。否……これは、これこそが我が欲動か。面白いッ——
「その反逆、乗らせて貰うぞッ! 我に吸わせろ——貴様の血を、反逆者の鮮血を!」
小娘が我が身を掴み、己が左手首を傷つける。溢れ出る鮮血が我が刃を濡らして——刹那、吹き荒れる暴風が小娘に迫る異形を押し返す。
即ち、血の契約
力による隷属ではなく、呪いによる束縛でもなく。
真に我が力を託すに相応しい者とのみ契る権能譲渡の約諾なり。
日緋色金の怪刀が燃え上がる。
刀身に宿す我が赤眼を中心に、燃ゆるかつての大鷲が顕現。緋翼を翻しては風が湧き躍り、歌い出す。
「阿訶美苔利命ッ——時を、稼げやァッ゛!!」
「存分に歌えや、四葉ッ! 暫しの刻、この我が稼いでやろうぞ!!」
*****
頭上に顕現した大鷲が、咆哮を上げながら上空に舞い上がる。大翼が空間と摩擦して熱を生み一面に熱波が降り注ぐと、陽炎が世界を揺らした。
迫る異形が髄も残さず燃やし尽くされ、降り積もる鈍色の灰からまた新たな生命が産まれ、死滅し、輪廻する。然れど、響くのは悲鳴にあらず。
「共に歌おう、死せる者達よ。我等が歌を、世界の理を否定する愚か者たちの無様な足掻きを、見せつけようではないか!」
微かに鳴り響いていた霊魂達のか弱い歌声は、呼びかけに呼応するように膨れ上がり、異なる四つの旋律が一つの歌を紡ぎ出す。
——風が、歌を世界の果てへ……空シキ空へ運んでいく。
無伴奏四重奏合唱曲——〝死せる彼の者へ再生の審判を〟
〝傍観せよ、自らの美貌を謳う神々よ。楽園に住まう者達よ。
彼の者は、秩序を乱す罪を犯した。名ばかりの楽園へ足を踏み入れることを拒んだのだ。さすれば汝らも踏み入ることなかれ。この、我等が勝ち得た領域に——〟
〝聞けや、冥府の監視者よ。死界の使い共よ。
我が身を巡るこの熱き血潮が、其の者をつなぎ止める。死界の長が使いを寄越そうとも、この世界が分け隔てられようとも、この繋がりだけは何者にも断ち切ること能わず〟
〝そうだ。たとい貴様らが示す唯一の救いがあろうとも、我等は醜くこの大地に獅噛み続けよう——〟
己の腕に抱く、九十九の肉体に仄かな熱を感じ始めた。
それと共に、膨れ上がる異形の視線。確かな敵意が向けられていた。
「破ッ——」
何かを気どったのか、赤目が嗤う。
「喜べ、四葉! その蛇公、どうやら世界再編の妨げたり得ると覚知されたらしい!」
可能性があるということか。九十九を起こせば、神魔による世界再編を阻む事が出来ると……細蟹糸の如く細く、脆い一縷の望みが、まだ残されているということなのか——
〝餌を待つ家畜の如く、白き翼を生やす天の使いに、我等は跪くのか〟
〝快楽を与えられた虫けらの如く、黒き影を連れた魔の手先に、我等は従うのか〟
否、我等は在るが儘に——
〝我等は知っている。神魔を恐れ慄こうとも、母なる大地が崩れ去るということを〟
それまで個々に動いていた異形が一転、何者かの意思が介在しているかの如く、ある一点……人狼の成れの果て、首なき身体を中心に融合し始めた。
それらを引き摺りながら、身体が焼かれようとも、切り刻まれようとも、たちまち再生して熱波暴風を意に介さず、ゆっくりとこちらに歩み出す。
「この異圧ッ!? 急げ四葉ッ——その化生、混沌の一柱が絡繰る存在。最早、止まらぬぞ!」
赤目が叫んだ。一際大きな暴風が異形に向かうが、歩む両足から無数の腕が伸びて地面を這うように押し進み、凶腕がこちらに伸びる。だが、怯みはしない——
〝神魔は知っているか? 永遠に朽ち果てぬ赤き鐡の契約が、双極に新たな感情を生み出すことを——〟
〝眼見開き、耳穴向けて、阿呆面晒せッ〟
〝この歌は宣誓である——〟
腹が膨れるほどに美味いものを食いたい。
王族が口にする様な甘露を飽きるほどに頬張りたい。
東の海原から日が昇り、西の彼方へ沈むのを眺めながら、一日中ぐぅたらしていたい。
一国の姫君が纏うような煌びやかで、美しい衣に袖を通し、茶の湯を楽しみたい。
あぁ、私にはまだこんなにもやりたい事が残っているんだ。
九十九、お前はどうだ?
何が欲しい?
どんな世界を見てみたい?
お前が残した欲望の胤から芽生える花を見たことがあるか?
どの様な色をして、芳しい香りを醸すのか知りたくないか?
あぁ、そうだ……私がお前を信じる。
私がお前という存在を許容する……いや、私がお前を求めているんだ。共に征こうッ——
だから戻って来いッ お前の居場所は此処にある!
「いい加減に、目ぇ醒ませよぉおッ!! 九十九————ッ!!」




