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細蟹の糸3〜世界蛇〜

「そうか、其れは良い報せだ」

右手で貫いた肉体にそう語りかける。てのひらに最後の鼓動が大きく脈打つのを感じながら、心臓を握り潰した。返事は無い。右腕を軽く振るうと、事切れた人形はずり落ち、崩れ、大理石製の床面に黒ずんだ血溜まりがじわりと広がった。


 右腕に付着した血液は、我が身から発せられるによって固まり、程なくして塵と化して霧散する。舞い散る塵は床面の血溜まりに落ちて、溺れるように呑み込まれていった。

 それが契機となって、血溜まりから一本の血脈が伸びると、地を這う蛇の様にずるり……前に這い進む。その軌跡を目で追う——が、程なくして、蛇頭を思わせる血脈の先端がチロチロと何者かの革靴ブーツのつま先を舐めたかと思うと、靴底に染み入るように広がり、力尽きる。


 ——何者・・、だと?


 己への問い。既に答えは出ている——いや、今更か。つぶまぶたの裏で、己の未熟さに対する慚愧ざんきが渦巻いた。ほぼ同時、異なる六つの視線が一気にこちらに集中する。


 膨れ上がる圧倒的な存在感。いつまでこの様な狭所きょうしょに留め置くつもりだと云わんばかりに、行き場を失った音にならぬこえが叩き付けられた。ひりつく肌。逆立つ産毛。それだけで、その場に或る者達が凡骨な存在でないことは明らかだった。


 言わずもがな、連中のことは己が最もく知っている。かつての同胞。わが身と同じくヴェルデを率いる騎士団の隊長格。それ故に、双頭鷲の誓いはくも(ほころ)び易いものであったのかと……おまえも、甘言にそそのかされ彼らと同じ道を歩むのかと、自問する。


 ——否。我が命運は、この身果てるまでヴェルデと共に。


「此の場にて、卿等けいら……いや、裏切者は殲滅させて頂こう」

なればこそ、せめて我が手によって彼等を葬る。その決意とともに両眼を見開き、前を見据えた。


「これはこれは……」

ニタリ、暗がりに怪しく光る三日月が揺れた。


誰方どなたかと思えば——ヴァルデール・ジィナ・アーヴェン卿! 待ち兼ねましたぞ……」

目の前の男が口許を吊り上げ、刃物の切っ先の如く鋭い蛇眼ジャノメをさらに細めた。


「相変わらずだな……来意は語る必要もないだろう? なぁ〝死者の守護者(アッシェムント)〟よ」

ヴェルデの諜報機関たる代弁者フォークトの頂点に立つその男に問い掛ける。常時、全ての事象を把握或いは予測しているにも関わらず、然も何事も知らぬ様に振る舞う態度、言動、表情を浮かべるのが、この男のさがだった。

 おそらくは、追跡者こちら人狼モルジヴァーグたぶらかし、裏切者あちらの手駒にしたのもこの男の仕業だろう。


「来意……はて、人狼アイスナーの件かな?」

こちらの心を読んだかのようにそう言及すると、わざとらしく首をかしげ此方の様子を伺った。


「そう睨むな。貴方に対する劣等感に焼かれていたからなぁ……私は助言そそのかしただけだよ。アレが此方についたのは、彼自身が望んだ事。貴方にも報告させたとおり、今頃は、招かれざる客の——」

「奴は討たれた」

「ほう……にわかかには信じ難い事だ。人狼には我等の——」

と、そこまで口を開きながら遠くを観るように視線をずらす。何かを悟ったのか、代弁者は「あぁ、成る程」と小さく発して、ほくそ笑んだ。


「短い間とはいえ、飼主あなたを欺けたのだ。満足したのではないかな?」

「糞、知った事か……それに、用向きは人狼ではない。貴様等の謀略だ」

「おや、ようやくお気付きになられましたか……とはいえ貴方も例外無く、此度のはかりごとには御賛同頂けるものかと思っていましたが」

「減らず口は辞めろ。貴様と言葉遊びをするつもりはない」

「単なる挨拶でしたが……ふふ、ならば今宵は〝戦狼ヴェアヴォルフ〟と、御呼びした方がよろしいか?」

巫山戯た態度を一転、冷徹な視線を此方に向ける。


「アッシュムント……何故、祖国ヴェルデに背を向けた」

「何故?」

ッ——と短い嘲笑。アッシェムントが周囲を見渡しあおる。


「諸君、聴いたか? 狼の戯論たわごとをッ!」

嘲笑が肌をくすぐる。呼応した五つの薄ら笑いが正六角形の区画に余韻を残した。


「——追跡者ともあろう者が、裏切者に其の訳を尋ねるとは……堕ちたものよ。なぁ、戦狼ヴェアヴォルフ

アッシェムントが呆れたように、蔑みの眼差しを此方に向けて尚も続けた。その奥に視線を向けると、長い絹糸のような髪がふわりと膨らみ、こちらに微笑む。


「……統制機関『空の支配者(オーディリークス)』の長たる、貴女グルヴェイグまでもか」

代弁者以外に揺れる五つの影を見渡し、悟る。騎士団の頂点達が謀っていたとなれば……道理で、追跡者われわれにも今まで動向が察知出来ない訳だ、と。


「お久し振りですね、戦狼ヴェアヴォルフ

「ああ、この様な形での再会とは嘆かわしいものだ」

「そうね……もう少し、お話ししていたいところだけど——」

と、その言葉の先を他人に預けるように勿体ぶる。そう、数える間もない僅かな時間。だが、確かに感じる刹那の違和感。己の記憶と視覚、聴覚、あらゆる感覚を頼りに探る。


 ——上か。

 

 見上げる必要はない。飛ぶ様に後ろに退けると、間髪容れずに轟音が鼓膜を叩き、視界を揺らす様に落雷が鼻先をかすめる。


 ——否、落雷などではない。巨大な戦斧槍が振り落とされたのだ。辛うじて視界に捉えた剣閃が地を叩くと、それこそ雷が落ちた様に接地点を中心に空間が破裂し、窪地が生じていた。


「——嘆かわしい?」

爆音に割り入る野太い声。


「いやぁ、この身体(オレ)にとっちゃあむしろ……僥倖ぎょうこうだがな。なにせ、こうして御前さんとり合う大義名分ができた訳だ」

雄牛の様な影が一層膨れ上がった。


角牛の化身(ヴィルダー)……」

着地と同時に、その視線が交わる。


「その身に、刻印を授かりし時、貴殿は感じなかったか?」

次いで、グルヴェイグの右隣に佇む男……顔面を包帯で覆い隠した人物が此方に問いかける。特徴的な容貌に見覚えがあった——『灰の枝(アスクテイン)』副官の不死者アタナージウス。その背後では、成人五人程が容易に収まるであろう黒い棺が奇怪にも軽々と浮遊している。


「何を——」

「——知らないとは言わせねぇ」

ピシャリ、言葉を抑えつける発声。拷問官ウアティールを率いるオルクスの冷徹な視線がギラついた。

 彼の背後で、マリュティノスがクスクスと笑い声を抑えながら、玩具を与えられた童子の様に面白そうに此方を覗いて……再度また、アッシェムントが口を開く。


「貴様の刻印は〝(ヘェト)〟即ち、喜悦の源。強者が集う深淵の森——其のいただきにて、日夜争いに明け暮れ、たたかいへの歓びに身体を打ち震えさせた孤狼の証!」

アッシェムントの煽りに、右手甲に刻まれた証がズクリと、うずいた。久方振りの感覚に浮かぶ懸念。


 ——血を吸わせすぎたか?


 右手が吸った血量自体は微々たるものだった。だとすれば、その濃度が問題であったというのだろうか。いや、あり得ない話だと心の中で否定する。双天秤の指揮官とはいえ、たかが一人程度で……

 逡巡の最中、先程(ほふ)ったエヴァルトの死体があった場所におのずと視線が向かう。


 ——ッ!?


 しかし、血溜まりはおろか、奴の死体が忽然と消えていた。幻覚——否、この手には確かな手応えがあった筈。


「そう、驚かないで下さいよ」

生じた僅かな動揺。その刹那、耳元で囁く声。


「——エヴァルトッ」

振り向き様に、右手甲で声の主を打ち払う。が——


「おお、怖い——正に、枷の外れた獣ですねぇ」

横薙ぎの一撃は虚しく空を切る。ふわり、中身の無い黒いローブだけが悠然と舞い上がり、未だ姿の見えぬ者の声だけが耳に届いた。

 あり得ぬ事であった。奴の魂が肉体から離れる前に、この右手が心臓もろとも喰らい尽くした筈だというのに。


 いや、待て——


 己が貫き打ち砕いたのは、本当にエヴァルトの魂だったのか——浮かんだ疑問への回答は、鼻腔を刺激した奴の残香がありありと示していた。

 

「……貴様等、何者だ?」

どろり、薫る強大な力の臭い。かつて嗅いだ経験のないほど濃密な臭気が鼻奥を突いた。だからこそ、これだけはハッキリと覚知した。目の前にいる者達は既に、人成らざる存在・・・・・・・なのだと。


「ハハッ——流石に鼻が効く」

嬉しそうに嗤うアッシェムントの影が膨れ上がる。


「初めまして、我が名は世界蛇スフェアオルム——貴様の内に眠る孤狼とは旧知の間柄でね」

目の前のアッシェムント——否、今しがた戦史に名を残す魔神の名を口にした存在が当然の様に言い放つ。


「それが、今や枷を付けられた飼い犬となり、群れているとは……なんとも嘆かわしいことよ」

「だとして、何だと云うのだ」

右手がまたも疼いた。目の前の存在に反応しているというのだろうか。宿した懸念を悟られぬ様に反論する。


「我が身は既に、祖国に捧げた。其処に己が感情など——」

「破ッ! かたるなぁッ——ならば問おう!」


 大理石を踏み鳴らす軍靴の足音。

 それと共に、奴が一歩、此方へ踏み出した。


〝貴様の其の忠誠心は、故郷への想いからか?〟


 宿した懸念にくさび打つ様に、ひたり、蛇が舌舐めずる様に此方に問いかける。鼓膜を震わせたその音の波が、脳裏に容赦なく情景を叩き込んだ。

 その場から立退く暇すら無く、意図せずに眼前に浮かぶ景色。懐かしき故郷の街道。


「これはッ!?」

ぐにゃり、歪む視界。現実と夢が交錯するかの様な現象は……幻想歌と呼ばれる類の精神干渉型の魔術。されど——


「馬鹿なッ……詠唱も、なく——」

膝が崩れる。


「詠唱? ……あぁ、貴様等が行う我等の真似事の事か」

朧げな視界の中で蛇がチロリ、舌舐めずる。


「その様な経過は不要だよ、要は契機きっかけさえあれば良い訳だ」

言って、こちらに近付き右手を踏みつける。


「先刻の……心臓かッ」

エヴァルトの心臓ではなかったのだ。態とこちらに契機の胤となる核に触れさせた……こいつ等の狙いは、最初はなから——


「——覚醒したまえ、孤狼アンガールヴ宿敵・・は、此処にいるぞ——」

【用語解説】

世界蛇スフェアオルム

 双頭鷲騎士団第四部隊隊長、アッシェムントの身体に転臨した魔神。本来の姿は世界を覆うほど長大な大蛇とも伝えられており、人の世に疑心を与えたとされる。

 

◯ヴァルデール・ジィナ・アーヴェン

 戦狼の本名。指揮官級の者は、名がもたらすものは急所たりえると考えられており、着任時に名前を捨てるため、旧知の者でない限り其々の名前を知る事はない。


孤狼アンガールヴ

 戦狼の中に眠る魔神の名称。闘争を好み、誰彼構わず戦いを挑んで、打ち倒してきた森の王者たる存在。

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