細蟹の糸2〜戦狼〜
【Location】
新大陸:魔神の巣房
掌中で爆ぜた……果実。
指先を少し折り曲げただけ。だというのに、微かに抵抗を感じた後、容易に指先が皮と外殻を突き破り髄へと達した。瞬間、心地良い絶叫と共に、行き場を無くした熱い汁液が指の間から飛散する。
皮膚を通して感じる熱。トロリとした感触。
だがそれも、僅かな時間の経過と共に冷え、固まり、ただの果肉の残滓と成り果てた。
嘗ては、浴びる様に呑み欲していたその果実を見ても、今は何も感じない。此の仮初の身体が齎らすのは、食み喰いちぎり、舌の腹で舐り、飲み干したいというモノではなかった。
——脆い。
黒い汁液に塗れた指と掌を眼前に翳して、思う。
残る残滓を握りこむように力を籠めるとプチュと、小さな破裂音とともに、拳からいくつかの滴が垂れ堕ちた。それを、舌先に受ける。
舌の上に広がる纏わりつくような甘み。
鼻の奥を突く酸味と臭気。
手指を伝う感覚。
両の眼に映る光景。
何れも、初めての感覚。
なれど、此の素体が覚えている。
人であった頃の記憶と経験、そこに混沌として産み出された己が存在が重なり、混濁する。
総てだ。そう、意識や感覚といった今しがた生じている現象のみならず、過去の知見も総てが一個体に集約される。
あぁ……漸く取り戻した。いや、還ってきた。我々は確かに黒白の狭間から還ってきたのだ。この様な充足感すらも未知の感覚。が——
不意に、苦しさを覚える。
何だ? 此の素体は何を求めている? 四肢を見遣る。異常は無い——と確認した所で、呼吸という、生命維持に必要な行動を失念していた事に気付いた。
「——クハッ!」
空気を取込み、全身を巡る血脈が喜ぶように一度、大きく脈打ったところで、思わず笑いが漏れ出る。
何と……何と脆弱な存在なのだ。
此の世の外より訪れし異端者に封ぜられ、短くも永き、永き眠りの刻を経て降臨せし此の身体は、先の果実の様に脆く、態々糧を取り込まねば立ち続ける事すら叶わぬとは……
だが、迸るこの情慾の波——
「——悪くねぇ」
皆が同一の考えに至ったのか、牡牛の如き大きな一つの影が膨れ上がる。
「殊の外、其の素体も悪く無い御様子ですな。ヴィルダー……」
と、そこまで発してから、口にした呼称が同胞の名ではなく、ヴェルデと称する集合体に属する一個体の肩書きであった事を思い出した。
我が身に宿る人の記憶が強く出たのであろう。その新しい感覚に煩わしさと胸をくすぐる愉快さを感じながら、自己の発言を訂正しようと再度口を開くと、雄牛を思わせる体躯の男は「構わねぇ」と口角を上げ破顔った。そこに——
「……良いではないですか」
背後から別の声が響く。振り返り声の主へ視線を投げた。
闇に馴染むような朧気な影。ともすれば、己の眼にしか映っていない虚像なのではと思わせる感覚。
頭頂部から足先まで総てを包み隠す黒のローブが、そのように錯覚させるのだろうか。当然、その者の表情すらも伺えないが、その声色には悦びの色が混じっていた。
「あぁ……姿が見えぬと思ったが、貴公も参じていたか」
この体に刻まれた記憶が、その影を既知の存在と認めると自然と口が開き、問い掛ける。何時からいたのだ、と。
「少々、本国に用事がありまして遅れましたが……先刻、こちらに」
その者は、遅れた事に言及しながらも、悪びれる様子もなく飄々と語ると、先に言及した私見の続きを述べ、嬉しそうに肩を揺らした。そして、魔族共有の見解だと言わんばかりにこの場にある者達をゆっくりと見回しながら、尚も続ける。
「しかしながら、慣れぬ素体では目的の一つも容易に果たせませぬな」
そう言って、ローブですっぽりと覆い隠された右腕を掲げると、鈍い金属の擦れる音ともに大きな鉗子が浮かび上がる。間を置かず、断ち切る事よりも一度挟み込んだら決して離さぬように設計されたソレが開かれると、何かが足下へ落ちた。促されるように視線を向ける。血の滴る肉片。既に原型は留めていない。
なれど、それが元々何を形成っていたのかを問う必要は無かった、そのような疑問——人に生じるであろう知的好奇心というものは、我等がソレを一瞥した時には既に消え失せ、別の新たな事項に向けられていたが故に。
「其れが何者の舌かは問うまい……エヴァルト、其の者は〝原典〟の在処を——」
「——いえ」
ローブに身を隠した男……双頭鷲騎士団第十部隊「異端審問機関」を統括していた法の守護者の肩書きを持つエヴァルトが私の言葉を再び遮る。その者の内側で混沌の一柱がさも嬉しそうに笑うと、男の影がゆらりと大きく揺れた。
「この個体がこれまで調査した記録にも手掛かりは無く、本国で方々巡り、期待出来そうな者に優しく尋ねても口を開く者はおらず、やむ無く審問にかけてみましたが……」
エヴァルトは、その時の様子を思い出し、愛でるように鉗子を見つめ首を振った。
「知る者はいないか」
先程自身が潰した果実——ダンクヴァルトの肉片を見下ろしながら思案する。そうだ、この場に集ったレヴォルテ派の実力者、いずれの個体にもその記憶は刻まれていなかった時点で、この結果はある程度予想されていたものだったと。
「ええ……〝原典〟の在り処を掴むには至らず。なかなかどうして……巧妙に隠したものです」
我慢出来ずに、舌を抜いてしまいましたよ。と、口振りとは相反して、クツクツと楽しそうに唇を震わせる。この様子では、レヴォルテ派に対する審問とは名ばかりの強制且つ一方的な選別行為を行ったか……エヴァルトの前において何人も虚言は吐けぬ。となれば、残るは皇帝の血に刻まれているか? 或いは——
「おそらくは伝えられていないのでしょう。人では御しきれぬと、彼の異端者も判断したのでは?」
グルヴェイグが見解を示した。……確かにそうかも知れぬ。既に崩じたであろう宿敵の姿が脳裏に自ずと浮かび、奴ならば今日この日における我等の目覚めすらも予期して、対策を講じていても不思議では無いと思わせられた。異邦人と呼ばれたあの個体は、それ程の……異端であったのだ。
「なればこそ、人の世に潜りましょう」
再度、エヴァルトが口を開く。
「え〜私達が人間界にぃ?」
「ハッ! 何故我々が隠れなければならんのだ」
各々が反応を見せた。久方ぶりの意識の覚醒により昂ぶっているのだ。今すぐにでも好き勝手に暴れさせろと訴える。
「そも、貴様の方針に従う必要がない」
「無論、御承知のとおり、これはその様な大層なものでは御座いません。あくまで提案の一つ。何故なら——」
「——覚醒め、受肉し、黒白の狭間から転臨したとはいえ……我等は未だ仮初の姿、か」
エヴァルトの言わんとする事を代わりに示す。かつての力を取り戻すには、我等への畏怖を、恐怖を、世に広げねばならないだろう。先ずはその下地を作り上げる必要がある。
「正に、此度の解放により白き者達のいくつかも目覚めたことでしょう。それらを支持する愚かしい人間めらも、かつてのように我等に刃を向けることでしょう。たとひ、受肉したこの個体がいくら優位個体であろうとも、損耗それ自体は避けられぬ事実。であるならば——」
そして、その先の言葉を勿体ぶるようにゆっくりと両の腕を広げはじめる。それが水平に至ったところで、こちらから言葉を促すように視線を投げると、ようやく己の提案をその場に示した。
「——混沌を、拡げましょうや」
「何を今更……」
〝XI〟の、オルクスの影が揺れ、冷徹な視線が向けられる。その場の誰も、それを咎めなかった。つまりは、皆同様の考えであったのだ。秩序を廃し混沌に満ちた世界こそ、我々が求めるべきこの世の在り方なのだと。
「貴様の物言いは常々回りくどい」
「要は要するにぃ〜、気を付けろって事?」
「ふふ、それはそれで極端ですが、結論は同一。先ずは各々眷属を増やし、力を蓄えろと言っているのですよ」
マリュティノスらの反応にグルヴェイグが補足する。
「真に顕界に再臨するその時まで、〝人〟として戯れるのも……また、一興か」
エヴァルトに向き直り、同意を示した。
「彼の者が此の世に残した、人に託した感情を利用するのです。怒り、憎しみ、恨み、妬み……今、この個体に宿り覚知したこの感覚をもって、かつてのように混沌で溢れる世界の創造を果たす……」
ローブの内側で影が嬉々として言葉を漏らした。
確かに、この昂りのまま白き者らと直接接触を図るのはまだ早計か。自我を与えられた人間達を扇動し、対立させ混沌を広げる。異端者への意趣返しという訳か……
「なれば、皆々方——」
——ぬぶぅり
不意に、その場に……魔神が孵りし正六角形の巣房の中に、異音が生じた。知覚した異変は我が身の正面。
前触れなくエヴァルトの言葉を遮ったのは、当人の身体から発せられた湿り気を帯びるくぐもった音であった。
「あえ?」
だが、エヴァルト自身、その展開を予期していなかったのであろう。徐に己の腹部へ視線を落とし、その音の発生源を認めると絞り出す様に擦り声を漏らした……何故、と。
一本の腕がエヴァルトのローブを突き抜けていた。血に塗れた黒革の手袋。右腕だ。その手中に未だ脈動する心臓を鷲掴みながら、軽々とエヴァルトの身体ごと上方に持ち上げる。
「未だ……我が理想には、至らぬと……言うの、に」
心臓の持主は数刻先の未来を理解し、嘆いた。それに応える声。
「そうか……其れは良い報せだ」
重低音が響く。刹那、エヴァルトの心臓は五指から受ける圧力に耐え切れず破裂。肉片と化していた。事切れたエヴァルトの身体が投げ捨てられ、怒りが込められた敵意と共に、声の主が明らかになる。
艶髪が光弦の光を反照し、左手が乱れた前髪をかきあげる。
双頭鷲の胸章が煌めくと、ヴェルデの制服を着込む偉丈夫の肩でNo.Ⅷの文字が猛り歓んだ。
整った貌の上、瞑られた両の眼がゆっくりと開眼し、露わになる三白眼が此方を睨む。その姿……森の王者を連想させる男。
ゾクリ、震える身体。
これも、そうだ——初めての感覚。
此の素体は、目の前の〝狼〟に脅えていると言うのか?
あぁ、ならば此れが……恐怖という感情か——身体が訴える。この男は危険だと。
面白い。面白いじゃないか——〝戦狼〟
人の身で、我が心を慄わすか……追跡者を率いし、狼の王よ。
「——此の場にて、卿等……いや、裏切者は殲滅させて頂こう」
転臨を拒んだ、恐れを知らぬ狼の爪と牙が、この身に向けられていた。
【用語解説】
◯双頭鷲騎士団
指揮官級の者達は、かつて封じられた魔を統べし者の刻印を身に刻む事で、その能力の一部を使役する事を可能としていた……が、長年に渡る血統選別と交配は、ディアラウスが自らの顕界転臨に耐え得る個体群を創造する為に仕向けていた事であった。
神魔解放を経て、今次謀略に賛同した……否、ディアラウスの囁きに共感した一部の指揮官級部隊員は、己が身体を捧げて、悪魔の一柱をその身に取り込んでいる。
以下、現在判明している転臨者。
*金糸鷲
第一部隊、統制機関『空の支配者』隊長、女性。
*角牛の化身
第二部隊、戦闘兵団『斧槍塚』隊長、男性。
*死者の守護者
第四部隊、諜報機関『代弁者』隊長、男性。
*法の番人
第十部隊、異端審問機関『双天秤』隊長、男性。
*生死の選択
第十一部隊、懲罰執行部『拷問官』隊長、男性。
*不死者
第十三部隊、司法省『灰の枝』副官、男性。
*獣を導く者
第十八部隊、征戦部隊『狩猟団』隊長、女性。
◯原典
この世の理を記したとされる何か。裏を返せば、原典に記された事実が、この世の理となる。




