細蟹の糸1〜幻狼〜
【Date】
『黒白の刻』
【Location】
新大陸:ヴェルデ帝国領
金属を叩いた様な、か細い悲鳴が鼓膜を打った。
そっと、右の手指で挟むように右耳に下がる琥珀のイヤリングを抑えると、僅かな振動が人差し指の腹に伝わり、先の悲鳴がスッと消え失せる。琥珀に刻まれた刻印が熱を帯びていた。
これは……いや、しかし————
「如何した? 副長……幻狼」
僅かな動揺。それを読み取られたのか、前に立つ偉丈夫が此方を振り向くことなく背中越しに言い放つ。その視線は、つい先刻、フィルツェーン要塞近くの遺跡から天へ駆け昇りし光の弦に向けられていた。
その男——黒白の世界においても尚、燦然たる輝きを放つ存在。
天地万有の色が失われ、記憶から消し去られても……この御方を見る度に、遠い故郷を思い出す。
そうだ。半月ほど経てば、地平線に沈みゆく洛陽が視界一面に広がる麦畑を照らして、青く薫る夏の風がその上を舞い踊る。収穫間近の実入りの良い穂波が風に揺れ、黄金色のさざ波がきれいな模様を造るのだ。
その光景を思わせる肩程まで伸びた艶髪が、標の様に胸に突き刺さり、震えそうになる心を繋ぎ止めているような気がして……後頭部で一つに纏めた自分の髪束が、安堵するように背の上に落ち着いた。
「……隊長、人狼が没したようです」
暫くの懐古の後、琥珀が震わせた音色から導き出された答えを、前を征く背中に提示する。
「ほぅ……確か、間者を追っていた筈だが?」
つと、少し振り返り疑問を呈される。何があったのか、と。
「えぇ……まさか、彼が討たれるとは……」
性根に少々問題はあったが、たかが間者の一人に後れを取るような男でなかったはず。それこそ、我が隊の指揮官級の一人であったのだ……不意を討たれた?
——いや、それはない。長い時間を掛けて獲物を調査し、追い詰めて追い詰めて、弱り切ったところを嬲る様に殺すのが奴の狩り方。背後を取られることなど万に一つもない。となれば——
「——驕ったか」
「はい、おそらく」
「……まぁ良い。人狼も祖国の裏切者であったのだから」
踵を返す。手間が省けた、そう短く言うと遺跡へと歩みを進めた。
「何人たれ、ベルデの紋章に歯向かうことは許されぬ。双頭鷲に刃を向けること即ち、我等の牙と爪が喉笛を引き裂くということと知れ……例え、かつての同胞と言えども——」
「——怯るむことはない、悔やむことはない……」
〝彼は、我々を裏切った〟
刻む。我等を縛りし、拘束解放の言葉を。
常闇の中で息を潜めていた狼達を縛る首輪は外れ、足枷は解き放たれた。与えられし〝狼〟の名が、身体の内側で暴れ出す。
これより相対するは、かつての同胞達。神魔解放を企図した愚か者。双頭鷲に刃を向けし裏切者。
苛烈な争いとなるであろう。けれど、前を征くこの男————
双頭鷲騎士団第八部隊
『追跡者』隊長————〝戦狼〟
————計略など用いない。
我等は何者をも恐れない。
背を向け逃げまどうは裏切者達の宿命、そう——
「裏切者には、須らく死を…………其れが追跡者たる我々の使命」
「……了解」
「では、征こうか……」
戦狼が漆黒の外套を翻す。その背側の肩部に縫われた部隊章に浮かぶ〝喜悦〟の刻印が黒白の月光を拒むように返照していた。
【用語解説】
◯戦狼
ヴェルデ帝国防諜部隊「追撃者」隊長。
金髪碧眼、長身精悍な体型。整った顔をしているが、狼を思わせる三白眼が視線のあった者を怯ませる。
殲滅対象には容赦なく、淡々と任務を遂行する。
◯幻狼
追撃者副隊長。
銀髪緑眼。長髪を後ろで束ねる。女性ながらも追撃者の副隊長を担う実力者。合理主義。




