八胤大蛇1〜欲花〜
【Date・Location】
黒白の狭間
初めて、己の存在を認識した時……
初めて、この両の眼を開けた時……
眼前を覆っていたのは薄暗い膜状の殻と生温い羊水だった。そのように思い返せるのも、今となってはの話だが。そん時やぁ……そんな事を認識する余裕なんて無かった。そう、己が何処にいるのか、己が何者なのか……それすらも解らぬうちにこの身を襲った——圧倒的な飢餓。
足りない、苦しい。苦しいってなんだ? この身が何かを求めている。だが、一体何を?
どうすればいい? この苦しみから解放されるにはどうすれば……そうだ、此処から出なければならない。己を縛るこの殻から出なければ——
そう思い至る頃には、呼吸という意識すら未だ持ち合わせぬというのに、暴れる様に目の前の膜を食い破っていた。そう、求めていたのは空気——身体の内を奔り廻る血脈、其処を泳ぐ鐵の因子が酸素を求めて暴れまわり、外界へ出ろと命ずるのだ。差し込む眩い光。香る大地と鐵の匂い。
そうだ……あの時、俺は此の世に生を受けたのだ。
だが、生まれて先ず感じたのは、己を生み出した存在から受ける贔屓でも、生誕を祝う賛歌でもなく……依然、この身の内で燃え上がる果てのない飢えだった。
己ではどうする事もできぬ飢餓。何でもいい、腹を満たせるならば何でも口に入れたい。溢れる程に喰らい尽くし、飲み干したいと、そう渇望した。
何かないか……重い頭をもたげ辺りを見回すと、この瞳に映ったのは神々しく輝く卵群。色は純白、数は七。まだ割れていない。一つもだ。ふと、生じた疑問に誘われる様に後ろを振り返った。
其処にあったのは、己が這い出てきた殻の残骸。七つの卵と寸尺、形貌に違いは無い。だが、明らかな差異が其処にはあった。
ポタリ……静かに音を立てながら垂れ落ちる、赤き雫。それがつくる真紅の澱みに俺が食い破った殻だけが浸っていた。そう、俺だけが……汚れていたんだ。
血が血を呼ぶ——〝喰らえ〟
此の身を衝き動かす赤き赤き血の囁き。それが、純粋な生への渇望なのか或いは、己の我欲を満たさんとする酷く利己的で醜いモノなのか……今となっては解る訳がない。いや、そもそも……あの時の俺に、そんな事は関係が無かった。
喰らえ——と、尚も囁き続ける声に従って、己の同胞であろう七つの卵を喰らい尽くした。何も考えず、ただただこの飢えを鎮めようと……
一つ目に噛み付いた。
感じたのは橙色。征く路を照らすその光は陽光か……或いは月光のものか。そう、嗅ぎ分けるべき二つの匂い。
この俺に呼び掛けるモノは何だ? 軀の内で暴れ回るこの衝動に応じて良いのか……其の解を知らぬが故に、ゆっくりと胎動する——〝猜疑の胤〟
二つ目を呑み喰らう……感じた色は黄。肥沃な黄土と朽葉の中で、蟲が醸す芳しき匂い。
そして、産まれるもう一つの胤。永らく求めていたモノを己が手中に収めた時に、此の身を迸るのは、そう……得も言われぬ至上の悦び——即ち、〝悦楽の胤〟
急ぎ、三つ目も口にする……感じた色は緑。青々と茂る若芽の如き安らかな香り。
この選択を是とする。過ちでは無かったと。己の内で叫ぶ声に従ってさえいれば、俺は何も考えなくて良いのだと、その様に何かに従属する——〝依存の胤〟
何も疑う事は無い、四つ目だ。
感じた色は碧色。天穹から降り注ぐ光すらも遮り、総てを覆い尽くす森林の芳香。
……産まれたのは擬惧。俺の選択は真に正しき道だったのか? 徐々に陰り、失せる陽光、月光の輝き乏しく。進むべき道すら見えぬ此の森に踏み入れば戻る事は叶わぬのではと、常に逃げ道を探る——〝恐怖の胤〟
震え始めた軀を抑え、依存と恐怖の狭間で五つ目を口にした。
感じた色は青。淋々と泣く雨水が、深緑の屋根を垂れ落ち、若芽を濡らし、大地へと染み込んで、容赦無く心を穿つ香り無き臭気。
総てを無にする胤は、いつから此の心に根を張っていたのか? 我が内に生じた総ての胤を無にする程の衝動——〝驚愕の胤〟
我を失いながらも、最早、頼るべきモノを失った俺には残る卵殻を喰らうしかなく、六つ目を呑みこんだ。
感じた色は藍。大地を伝い流れた雨水が青よりも濃い藍色の深みを造り、その澱んだ香りが脳髄を直接叩く。
此の身を襲うは、己の叫びすらも搔き消す悲しみの涙雨。己の同胞に手を掛けた罪と愚かさが招いたのは、孤独。襲い来る抗えぬ悲しみを生む——〝悲嘆の胤〟
尚も、叫ぶ血の囁き。今更戻れぬと嗤いながら此の身を突き動かし、最期の一つを喰らわせる。
感じた色は紫色。光届かぬ深淵に沈みし悲しみが齎すは、傲りが燻した倦みある薫香。
俺が過ったのでは無い。此奴らが生まれ出でぬから喰われたのだ。弱きは強きに屈すべし。憎きは他者。悪しきは弱者。独りでに昂ぶるは——〝憎悪の胤〟
そして、遺された己の卵骸。
喰らう必要は無し。この内に宿る色は真紅。漂うは、草木焼き、肉を焦がし、此の世の総てを焼き尽くす業火の臭い。
此の身の内で囁くのは、血の声だ。総ては俺が思うままにあれ。逆らうならば燃やし喰らうまで。そう、我が慾の赴くままに——〝憤怒の胤〟が我慾を満たせと暴れ回る。
生まれ出でし八つの胤。
本来なら一つになる筈の無い八つの胤は、俺の軀の中で産声をあげ……〝欲〟という華を咲かせた。
猜疑、それは橙色の花弁。
悦楽、それは黄色の花弁
依存、それは緑色の花弁。
恐怖、それは翠色の花弁。
驚愕、それは碧色の花弁。
悲嘆、それは藍色の花弁。
憎悪、それは紫色の花弁。
憤怒、それは赤色の花弁。
何人も贖い切れぬ罪。
何人も抗い切れぬ力。
其れが欲。
欲こそ全て。
欲は全ての始まり。
欲、有ればこそ、己が道を歩む事が出来る。
欲、有ればこそ、己が心を保つ事が出来る。
欲、有ればこそ、感情が生まれるのだ。
欲から生まれし八つの感情は、新たな感情を生み出し、さらなる欲を駆り立てる。即ち、求めても求めても足りないモノ……それが欲であり、感情なのだ。
故に〝喰らえ〟と心が叫ぶ。八欲を宿した此の身は、総てを手に入れろと訴えるのだ。
真紅の澱みに己が軀が映り込む。手足無く、地を這う姿は血に塗れ……覗く瞳は等しく紅く。ならば、俺を呼び起こした此の血の主は、何者なのかと垂れ落ちる赤き雫の先へと這い進む。
やがて辿り着きし、小高き丘陵にて見渡せば、辺りを埋め尽くすのは、黒と白の屍体の山と真紅の大河。
我が身よりも強大な黒き大蛇に、白き羽を生やした尖兵が群がっているのだ。両陣、共に事切れ……その場に音は無く。ただ腐臭のみが漂っている戦場の跡。
欲が渦巻く。
既に亡き……己よりも強大な存在を前にして、其の力の残滓すらも呑み干してしまえと、血が騒ぎ出す。
足りないのだ。
八つの胤だけでは、此の身を襲う飢餓を満たす事は出来ぬ。そこからだ……俺の征く路に立ち塞がる万物を喰らい始めたのは。
草木、生物、大気、大地、河川……全てを喰らってやった。だが、足りねぇ。内なる部分でポッカリと風穴が空いちまった様に、満たされることはなかった。……気付いた日にゃぁ、己の身体は山河よりも大きく、そして長大となっていた。
次は、神魔の駒……〝人〟という胤に手を出した。
脅し、喰らい、時に囁き、或いは嘯き……心に欠陥でもあるのか、連中は易々と此方の思い通りに動く。これこそ正に神魔の所業ではないか。
故に、俺を従える事ができる奴などいないと思った。そう、神や悪魔でさえだ。
そんな俺に、悪魔は囁いた。
〝その力を持ってこの世に混沌をもたらせ〟と
神は戒めた。
〝望まれぬ不調和の存在で、理を乱すな〟と
「五月蝿ぇ……」
だから、神も悪魔も喰らってやった。そう、その時だ。ふと、神魔という存在となれば……此の世を造った存在とやらに付き従う神魔を喰らい、己が力とする事が出来たならば……全てが手に入るのではないかという期待が産まれたのは。
奇しくも、時は黒白が争う戦乱の世。
故に、喰らう。
神に歯向かい、悪魔を裏切り、人に知恵と鉄の刃を与えて、戦さ場を搔き乱す。そして、万物を呑み込み、喰らい殺して、何者よりも強大な力を求めた。あと少しで完全たる百となれる……そうすれば、この心の穴を埋められるだろうか?
俺の心を満たすモノが無いから、それを求める。いつも空虚なこの心を満たすモノを求めて、奪い続ける。だが、奪っても奪ってもまだ足りない……全ての力を手に入れたかった。
だが、俺の存在が疎ましくなった神魔は、此の身を大地の深淵へと封じ、魂は人の亡骸に移され……俺は、鬼へと堕とされた。
後はただ……仄暗い洞窟の奥で、肉が朽ち果てるか、己が我欲の焔に内から燃やし尽くされるかの、いずれかを待つのみとなる……筈だった。
そこに現れたのが、彼奴だ。
此方の者とは違う気色を持つ風雲児。異邦人と称されたもう一人の不調和たる存在。
奴は俺に問うた。
何を望む——と。
「……喰らっても喰らっても、まだ足りねぇ、世界だ。この世を己が手中に……それが俺の望みだ」
そうすれば、この心も満たされるだろうか? 他に如何すればいいか、解らねぇんだ……誰でもいい、教えてくれ——
その答えに、彼奴は笑った。
おおよそ、俺が今まで見てきた人という胤が、見せた事の無い満面の笑みを持って、こう言い放った。
「天蓋の内に籠り、星々の歌声——真の宙を知らずして、何が世界だ。笑わせるな阿呆」
そして、告げる…………
「共に来るか——蛇公、空シキ蛇よ。 御前のその飢え、渇き……満たせるかも解らんぞ?」
「蛇公じゃねぇッ——」
————俺は、妖の王にして、八欲を統べし鉄の大蛇。神魔に次ぐ者〝ヤクサ——……チ〟だ。




