萌ゆる花4〜反魂の調〜
「………………」
冷たい……此奴の、九十九の身体はこんなにも冷たかっただろうか?
あの日……此奴とはじめて出逢った時に感じた、あの温もりが、まるで嘘偽りだったのではないかと思う程に、呆気なく……流れていく。
共にしたのは、僅か一昼夜。
けれど、多くのモノを与えられていた……そう、自分でも知らぬ間に。それを、今更気付く自分が……情けない。
止め処なく溢れるモノが視界をぼやかして、これまでの……短いながらも、心を満たした然もない出来事が、走馬灯の様に脳裏を駆ける。
虚を突かれ、驚き。
揶揄われ、憤り。
飯を喰わされ、悦び……故も解らず涙した。
畏れや忌避、虚栄や媚び諂うといったまやかしの態度は伺えず、ただただ己の感情を悪怯れる様子も見せずに曝け出す。
その心地良い気質に、私はいつの間にか惹かれていたのだろうか?
赤目は言った。九十九が、愚かな英雄だと。総てを奪うと恐れられた、妖の王だったと。
ならば……どうして今世に在ったのだ?
ならば、どうして私に……人に、手を貸した?
この感情は何だ?
これまで感じた事のない、この喪失感は一体……
四肢に力は入らず。
言葉を発することも、物事を考える事すら億劫だ。
しんしんと……周りの音も消え失せて、この腕に抱く事切れた亡骸も、黒白の世界に呑み込まれるかのように霞んでいく気がして……
そう、何にも無い。
ここには、何も……
空っぽの身体という器があるだけで
私は、また…………独りだ……
心が、失せる。
何もかもが、消えてゆく…………
〝——ば〟
この声は……何?
〝————よつば〟
私の名を呼ぶのは……誰?
*****
「よつば。これ、四葉」
耳元で、自分の名を誰かが呼んだ。どこか間延びしたような独特の音調。けれど、優しくこちらを包み込む。
……誰の?
いや、この声色は……そうだ、間違いない——
「——覡様?」
反射的に面をあげて声の主を見上げると、果たして、予想どおりの人物がそこにいた。
「なんじゃ? 化物でも見るような目で私を見て。見てみぃ……ちゃんと足がついておろうが」
訝しむような視線を落とし、召し物の裾を少したくし上げて、右足をぶらぶらとしてみせる。神職のお淑やかな印象など一切伺わせないその仕草は、間違いない。彼女だ。
「どうして、此処に?」
だって此処は……ここは……
「何を呆けた事を……此処は社の裏手じゃろうに。お主こそ、こんな所で何をやっとるんじゃ」
「え……」
言われて、あたりを見回した。膝を抱え座り込む私の背には見慣れた社。その社の屋根がつくる日陰の向こうには青々とした竹林が広がり、朽ちた笹葉が何層にも重なっては、茶褐色の大地が竹林の奥へ伸びている。そのはっきりと示された緑と茶の境界が、私に生と死の境を連想させた。
生と死、その対比が胸の奥を突く。
ふと、何か大事なモノを失ったような感覚が広がり、焦燥感にも似た熱が胸を焼きながら喉元を通り過ぎた。
そうだ、行かなきゃ——
「——私ッ」
ざあぁ……と、風が鳴いた。生まれ出でた小さな熱と、出かかっていた言葉が掻き消される。
竹林を走る風に揺られて緑の笹葉は小躍りし、朽ちた葉は成す術もなく地の上を舞った。風が、土葉の香りとともに私の頬を撫でる。
「私は……」
失せる。まるでそれまでの事が夢、幻であったかのように消えて無くなった。故にこの時が、在りし日の自分の記憶なのか、それとも薄っすらと脳裏に残るモノ……それ自体が妄想の産物であったのか、判別がつかない。
何か……何か、大事な事を忘れている気がしていたのに、その感覚すらも消えていき、残ったのは、いつもと同じ空虚な心。そう、私は忌み子。望まれぬ存在……誰にも求められることの無い異分子という事実だけ。
「どうした?」
「いえ……何でも、ないです」
膝を抱える小さな童子の手。小汚い私の手。それを見ながらもう構わないで欲しいと覡に伝えるように顔をうつ向けた。
「どうせ、まぁ〜た従者どもにちょっかい出されたんじゃろう? たまには拳握ってやり返さんと、図に乗るぞぉ」
よっこらせ、と声を出しながら巫女が私の隣に座る。
「何も言わんか?」
ため息混じりに巫女がそう言った。返す言葉も無い。やり返したところで、その倍になって返ってくるのは目に見えている。なら、このままの方が良いのではないか……
「どれ……一つ、昔話でもしてやろうかのぅ」
「……」
なんの? と思うものの言葉を発するのも億劫だった。
「ま、聞くか聞かまいかはお主の自由じゃが」
それを分かっていながら巫女はそう言うと、その昔話とやらを話し始める。
「これは古い古い昔の……そう、欲深く、此の世の総てを己のものにしようと暴れた一匹の蛇の話……」
「その蛇の真名を、我等の祖先は決して声に出してはならぬと伝えてきた。彼奴の身体は山河よりも大きく、両の眼は紅く、黒光る鱗は鉄の如し……喰らえども、飲み干せども彼の者を満たすことは無く、やがて……総てを求めた妖の王は神魔にも牙を剥いた」
「多くの神と悪魔を喰らい、神魔の怒りを買ったその蛇は、彼等によってその力を封じられた。蛇の器を奪われ、いずれ朽ちゆく脆い人の身体にその御魂を移されて、深い深い場所……光と闇の狭間に封じ込められていたのだ」
「ッ——その話、聞いたことがあります。でも、妖の王は異世界の旅人と暁家の皇子が打ち倒したのでは……」
思わず面をあげて巫女を見やった。
「これ、話の腰を折るでない。そりゃ蛇の器の方の話じゃ……ここから先は、蛇の魂が宿る脱け殻の方の話、黙って聞かんか」
さっきは何も言わないのかって文句を言ったくせにと思い至り、少し口を尖らせた。
「して……蛇は、哭いた。独り哭き続けた。己の欲がもたらしたのは圧倒的な〝無〟……身体の内側で暴れる八欲が、自らを焼くのだろうか。その哭き声は灰ノ国の大地を毎夜のように揺るがした」
「そうして、数え切れぬ日々を過ごしていた蛇の元を、とある異端が訪れる。彼の者こそ、我等が英雄——異邦人と称された一人の男。彼は周囲の反対を押し切り、蛇に問うた。共に来るか、と……」
「……愚かな英雄」
一人でに私の口が動いた。
「そう、その蛇の脱け殻こそ、神魔戦争にて異邦人と共にあった英雄の一人。そして、異邦人を討った裏切者、愚かな英雄」
「蛇は……どうして、仲間を裏切ったのですか?」
不意に生まれた疑問。その答を知りたくて、巫女に問いかける。
「そんなの知るかい。本人に聞けぃ」
そんな無茶なと、突っ込もうとした時、巫女は「だが」と一拍置いて口を開いた。
「伝え聞くところによれば……愚かな英雄は神魔すらも喰らうという。奴に喰らえぬ……奪えぬモノなど無い。それが妖の王と呼ばれる所以。ならば、どうして……どうして、蛇は自ら、消え逝く定めを選んだのじゃ?」
「消え逝く? 愚かな英雄は、異邦人を打ち倒して、世界を奪おうと……」
「本当にそうか? 良く考えてみぃ……総てを奪えば、後に何が残る?」
「……あ」
そうか、何も何も残らない。総てを奪えば、そこに残るのは……己のみだ。今の私のように、独りぼっちになるだけだ。
「ならば、蛇は最期に……例え勝てたとて総てを失い、負ければ消え逝き同じく総てを失うと解りきっている一本路を選んで、何を求めたというのじゃろうなぁ……四葉よ、お主には其れが解るか?」
「いえ……」
独りぼっちの蛇。そして、同じく独りぼっちの私。今の私が欲しいモノって……何だ?
「そうか……なら、教えよう」
そう言って、巫女は私を優しく、けれどもしっかりと両の腕で抱き締めて、語り聞かせるように言葉を紡いだ。
力だけでは手に入れられぬモノがある。
独りだけでは手に入れられぬモノがある。
お前は、もう一人じゃない。一人じゃないんだ。
困ったら頼れ。
私が四葉を求めるから。
泣きたいなら泣けばいい。
ムカつくなら蹴飛ばしてやれ。
下らないことに悩み、しょうもない事で笑う。
あれがしたい。これが欲しい。そう思う事は、何も恐れるようなモノじゃ無い。
そう、其れこそが、愚かな英雄が此の世に残していった八欲が産み出す本当の感情——心だ。
「……心」
トクンと、胸が熱を持った。今までに感じたことの無い、熱い何かが……先程とは違う優しい温もりが、身体を内側から包み込む。
そうだ……思い出した。
これは、在りし日の幼き私の記憶。
どうして忘れていたのだろう。
こんなにも、簡単な事を……
私は……独りじゃないんだ。
そう思い至ると同時、こみ上げる感情の渦が堰を切ったように溢れ出した。溢れるモノで視界はぼやけ、息継ぐ間も無く叫んでは呼吸が乱れた。
覡を強く抱き締め返す。彼女は優しく私の背をさすってくれた。ただ、それだけで……ぽっかりと空いていた隙間が呆気なく埋まり、満ち足りて行く。
「もし……もし、お前がこの先、同じように独り空しく哭くような者と出逢ったならば、同じように与えてやれば良い。お前は一人では無いと……教えてやれ」
覡が言わんとしていることの意味を、今なら解る。この時の彼女には、見えていたのだろうか……私が迎える未来を。
いや、そんな事はもはや関係あるまい。何れにせよ、私には為さねばならぬ事がある。今こそ、その時なのだ。
「お、いくのか?」
立ち上がる私を見上げて、覡が言った。
「はい、まだ……やらねばならぬ事が残っておりました」
「四葉、お主……」
何かを観たのか、珍しく驚いた表情を見せて、巫女が口を開いた——
「覇ッ! 何という奇怪な未来よ!」
腹を抱えて覡が笑い声をあげる。
「突然、どうしたのですか?」
「四葉や、ちょいとこれを見ろ」
何です、と口を開きかけたところで、覡が足元の地面に指で言葉を記す。
〝彼乃御霊何処乎〟
〝八胤大蛇〟
「えと、カノミタマ——」
「シーッ! これッ声に出すなッ!」
口元に指を当て慌てたように此方を戒める。
「こいつは魔歌の枕詞と、決して、口にしてはならぬ者の名じゃ」
「ッ!? これが、あの……でも、どうして——」
「そうさなぁ……」
勿体ぶるように口を開くと、言わずともいずれ解るだろうと答えて、覡は地面の文字を踏み消した。
「行って来い、そして喚き散らして来ればいい。己が想いをぶつけてやれ。そして、全部終わったら……また、此処に戻って来い」
覡はそう言って、全てを悟ったように此方を見据えて微笑んだ。
「はいッ……必ずや!」
そう答えて、童女は駆けた。生と死が混在する竹林の向こうへと。行くべき場所は唯一つ。そして、必ず帰る。その時は一人……可笑しな奴を連れて——
*****
不意に視界が開けた。瞬きの狭間に、かつての日々に思いを馳せて、止まっていた心が胎動する。やけに広い。そう、良く視える。
神々と悪魔に己の意思を奪われ操られる人型の如く、黒白に色を奪われ、その存在を……己が個性を失った世界がそこにはあった。そして、異形の存在が私を喰らわんと、目前に迫っている。
先刻まで、心を失っていた私。
この黒白の世界と等しく色を失っていたのだ。けれど、今は違う。私は何故此処に在る。私が為すべき……いや、為したいことは何だ?
使命を果たす事か? いや……ただ、使命を果たすのみが、生きる標ではないのだと、教えてくれた奴がいる。独りでは無いと、教えてくれた女がいる。
あの日、泣いていた幼き童女はもういない。我が名は〝四葉〟——この名と共に、生きる目的と術を与えられた、灰ノ国を守る白刃なり。故に、私は此処にいるのだ。
〝咲き誇れッ————白詰草よ〟
彼奴は言った。
己が感情を押し殺すなと……ならば、四葉が抱く、花弁の色は——何色だ?
「来たれ——阿訶美苔利命よ」
かつての記憶と九十九の言葉に思いを馳せて、迫る異形から身を守るべく、私は赤目の真名を口にした。途端——
〝ぅぁ——オぁッ——〟
咽び泣くような風声が、鼓膜を叩いた。いや、これは絶叫とも言える、いつかと同じ……人外の叫び。其れが大気を震わせている。
追憶と潜思の狭間で口にしたのは、時に人を導くこともあれば、裁きを下すかの如く暴風を人の世に巻き起こした神獣と畏れられし怪鳥の真名。
翻す鵬翼は蒼空を焼く緋色の翼。天上から大地を見下ろす両の眼はその翼よりも紅く輝いたと言われる。
その呼び掛けに呼応するかのように、目の前の空間が弾けた。瞬時に熱せられた大気が膨張し破裂すると、生まれ出でた風が音より早く空間を駆け抜けた。
目前まで迫っていた襲いくる異形——元は人狼であった化物の食指は、その爆発により生まれた、目に見えぬ風の障壁に遮ぎられたばかりか、礫を巻き込んだ風刃の前にことごとく切り刻まれ視線の向こうへ吹き飛んだ。
そして、我が右の掌には、其処にあるのが当然と言わんばかりに怪剣〝風切〟が収まっていた。
〝噢鳴ッ——噢鳴ッ——〟
尚も鳴く。
震える日緋色金の刃が大気と摩擦し熱を生み、或いは切り刻んでその熱を刀身に呑み込む。其れこそが、風の理。流れる風を意のままに操る術……人が知り得ぬ神域の御技だ。其れが、今なら解る。
「この異能……成る程、神獣と謳われる所以か」
呟き、風切へ視線を落とすと——ギョロリ……赤眼がこちらを射抜いた。
「——亞ぁ、久方振りの此の感覚。疼く、疼くなぁ……然し小娘ェ、何故、我が諱を知っている?」
風切に封じられた赤目が呻いた。久方振りに真名を呼ばれた事に赤目自身驚いているのだろうか? 嬉々とした声色に、驚きの色が滲む。
「いや……貴様の真名ならば、風切を持たされた時に教えられたさ」
「ならば——」
「……決して〝呼ぶな〟との言いつけと共にな。現に、お前……この身体を喰らおうとしているだろう」
耳鳴り——先日とは比べようもない程に〝血を、もっと血を〟と叫び続ける心の声とともに、風切を握る右腕が、今にもこの喉を掻き切ろうと震えだす。少しでも気を緩めればこの首が飛ぶか……
「血ッ血ッ——然るべしッ!! 人如きが我が異能を扱うなど……烏滸がましいにも程があるッ! 我を従えるに相応しい力量を持つか否か探るのは是非も無き事、然れど……何があった?」
赤眼が不思議そうにこちらを覗いた。おそらく、赤目自身初めてのことだったのだろう。成形こそ懐剣のままとはいえ、真名の下に神族としての己が力を発してなお正気を保つ人間とまみえた経験が。
「何も、ただ……思い出しただけさ」
赤目の問いに短く答えた。そうだ……私は何も変わった訳ではない。在るがままに、そう自分に強く言い聞かせただけ。
「思い出す? カカッ! ならば余程のことを己の内に封じていたか……して、何を為す?」
「——力貸せ、赤目よ」
「吽……如何するつもりだ?」
「黒白が創造主とやらの戒めを解くと言うならば、今、この時こそ……禁忌を犯す時」
つい、と顎先で地面を指した。
先刻巻き起こった暴風。九十九とアイスナーの熾烈な衝突が生む業火に燃え、狂爪に抉られた大地。
ありとあらゆる生命は刈り取られ、目に見えぬ蟲たちさえも姿を消した場所。そこに、生ける存在などある筈もなかった。そう、本来であれば。
だが、その場所に——芽を伸ばし萌ゆる名も無き一つの草の芽があった。あるはずのない、その存在が確かに其処に生まれていた。
「まさか、貴様ッ——」
赤目が叫んだ。察したのだろう、私がこれから奏でようとする禁忌の調を。
「——蛇の亡骸に〝反魂の調〟を供するつもりかッ!」
蛇よ……愚かな英雄よ。
お前が、何を求めて永い時を過ごし、そして、闘い続けたのか……私には、解らない。
けれど、あの時、私が感じた……この心が満ち足りるという感覚を。
心に空いた隙間を埋め尽くす程に、溢れて来るあの感動を——お前に与えさせてくれッ!
己の手の甲を向かい合わせ、逆手を打ち鳴らす……一度、二度。乾いた音が響き渡る。
「——カノミタマイズコヤ」
幼き時に覡から伝え聞いた魔歌を奏でるための言ノ葉を紡ぐ。途端——
冷える空気
響く産声
蠢く影
死せる者の魂を呼び起こすための、創造主の理を否定するその旋律の胎動に、周囲の影から常夜乃者が這い出してくるのが見えた。
【用語解説】
◯八胤大蛇
妖の王の真名。その魂魄の内に八つの感情を宿す。即ち、猜疑、悦楽、依存、恐怖、驚愕、悲嘆、憎悪、そして憤怒。
◯反魂の調
亡き者の還る魂を肉体に留める為の魔歌。理論としては存在していても、世界の理がそれを許す筈が無く、かつて試みた者達は一様に異形の者達に呑み込まれたと伝えられる。




