黒白の刻2〜暁天に鳴く〜
対岸の崖の上で、ザワザワと木立が騒いだ。今から起こる争いを怖れているのか。はたまた、煽っているのか……そんな、木々が見下ろす川原で、一人の男と、一匹の人外が対峙していた。
「動物愛護の精神ってヤツを教えてやるよ」
他に何か文句は無かったのかと、つい尋ねたくなるような台詞を吐いて、九十九が鉄棒を握りしめる。
長さは、九十九の背丈よりも少し長い程度。私の記憶が正しければ、確かあの鉄棒は……天幕の支え棒だったはず。
「おい、奴はヴェルデ防諜部隊の幹部だぞ! そんな棒切れで——」
「ほれ、噛んどけ」
九十九が人狼を見据えたまま私の言葉を遮った。その姿勢のまま、徐ろに懐へ片手を突っ込み何かを取り出すと、こちらに放り投げて来る。慌てて腕を伸ばし、掌に収まった巾着袋に視線を落とすと、それは乾燥した種子のようであった。
「な、何だこれは?」
「暁鳴草の乾燥種子——痛み止めだ。肋骨、やられてんだろ? 悪いが、どうやら犬野郎を放って置けなくなっちまった。少し待っててくれや」
「あ、あぁ……しかし、一人で——」
「ま、何とかなるだろう」
そんな風に軽い感じで見込みを口にすると、右太腿脇に装着された柄の部分が筒状になっている剣鉈を抜き出して、鉄棒の先にはめ込んだ。
そして、その装着具合を確かめるように、何度か振り回す。右掌から右手甲、前腕、二の腕、背中を回して左側に移す。右側同様、腕伝いにクルクルと回して、最後に左の掌にパシリと収まった。
ゆらり……九十九が構える。左手は鉄棒の中程で優しく添え、右手は末端を握り込む。その先端に収まる剣鉈が見据えるは、妖しく濡れ光る牙を剥く妖獣。
成る程、即席の歩兵槍といったところか……
「カカッ! その見窄らしい成リ……貴様、盗賊ノ類イカ? それとも曲芸師カ? 棒回しが出来たところで、此の身打ち倒せるとでも——自惚ているのカッ!!」
駆け出す人狼。対して——
「おい、来るぞ! いつまで棒回しを続けるつもりだ!」
構えを解き、また、棒を回し続けていた。ヒュンヒュンと風切り音を立てながら体の左右、前面と軽やかに回し続ける。
「いやなぁ……少し塩梅が悪——」
〝——スポンッ〟
「あッ!?」
「は?」
空気が抜けるような間抜けな音ともに、振り回されていた鉄棒の先端から先程取り付けたはずの剣鉈が遠心力を受けて吹っ飛んでいく。その進行方向には——
「——ナッ!?」
人狼がいた。その場にいた誰もが予想していなかっただけに、当然、奴も予測出来無かったようで、目前まで迫った鉄塊に驚愕、猪突猛進していた身体を無理矢理停止させ、上体を逸らし、すんでの所でソレを回避する。
「阿呆! 何を巫山戯て——」
視線を人狼から九十九がいた場所に移す。が——
い、いない!?
「悪ぃ悪ぃ、目釘打ち込むの忘れてたわ」
左右に視線を泳がせているところに、ポツリ、聞こえた九十九の声。その場所は、奴の背後だった。
速いッ——獣人化した人狼は未だしも、この男は生身のまま、其れに渡り合えるのかッ!?
どのような軌道で其処へ至ったのかすらも分からぬ速さで移動し、人狼にすら反応する間を与えず、その背後を奪っていたのだ。そして、大きく振りかぶられた鉄棒が人狼の第十一から第十二胸椎の間……後稲妻に食い込む——筈だった。
ぶぁんと、しなる鉄棒が空気を叩き、風が鳴いた。其れはつまり、振り回された得物が何物にも当たることなく、空を切ったということだ。驚愕の表情を浮かべていた人狼の姿が陽炎のように歪み、消えていく。
「速いナ——ただの人間ニシてはッ!」
そして、次の瞬間には、やり返すかのように人狼が九十九の背後に立っていた。と、同時、音も無く、九十九が川向こうの崖に吹き飛んでいく。
見れば、人狼の太い脚が振り上げられていた。おそらく、背後に回り込むと同時に既に蹴脚の一つが放たれていたのだろう。
次々と場面の変わる戦況に何とか視線を回すのが手一杯で、何が起こったのか……どのような攻防が繰り広げられていたのかを推測した頃には、新たに二手、三手と状況が変化していた。
ガラリ、九十九が吹き飛ばされた先の崖から礫が転げ落ち、どぅぷん、と篭った音を立てながら川面へ呑み込まれていった。
「あ〜痛つっ……」
それが消える頃、のっそりと九十九が崖に背を預けながら頭を擡げ、己を蹴飛ばした相手を見やる。
「……ソウでなくては面白くナイ。私もコノ力を使うのは初めてだからナァ。もう少シ試運転ニ付き合ってもらわネバ……」
新たに手に入れた力を噛みしめるように、両の手のひらを見つめながらえせら嗤う。
「ところデ、貴様のソノ身体能力……高地人種の類か」
「あ? 便ジョー……何だって?」
「高地人種だ! べ・ル・レ・ン・ツァー! 大陸北部の高山地帯に住まう民族だ。魔法適性は低いが低酸素環境化に適応した民族で、低地における運動能力は私達の其れを軽く凌駕する——アッツぅ……全く、何で私が説明せねばならんのだ」
見当違いの回答にいきんで声を荒げると、左肋骨が悲鳴をあげた。反射的に手で抑え込む。
「あ〜山の民みたいなもんか?」
「ッ……あぁ、そうだ」
「ふーむ……まぁ大凡、似た様なものか」
そう言うと、徐ろに立ち上がり崖を蹴って此方の岸際に戻って来た。体の調子を確かめる様に肩を後に回し、鉄棒の末端を握り込んで大きく振り回し始める。一周、二周……徐々に速度をあげながら尚も回し続ける。
「また棒回しカ? 好い加減に——」
「ベルレンツァーねぇ……なら、其奴らはこんな闘い方はしたかよッ!!」
九十九が吐く息に力を込めると同時、振り回された鉄棒が一際大きく円を描いて、足下の地面を深く抉った。削られた礫混じりの土砂が中空に勢いよく弾き飛ばされ、人狼に襲い掛かる。さながら野獣を仕留める散弾銃の如く。そう、あろう事か、九十九が繰り出した攻撃は目潰しという卑劣極まりなさものだった。
「九十九! き、汚いぞ!」
おもわず非難の声をあげる。
「甘いッ! 勝者が正義と、何処ぞの国でも言うだろう!」
もっともらしい言い訳を吐きながら、休む間もなく鉄棒を振り回し土砂を飛ばし続ける。が——砂塵を突き抜けて人狼の巨躯が露出した。
駆け出す先は土砂を掘っくり返す九十九の元だ。二歩三歩、足裏の掌球が足音を消し、鋭い爪が大地を鷲掴む。迫り来る礫を意に介さず難無く九十九の眼の前へ低く、潜るように辿り着いた。
「おいおい——効果なしかよッ!?」
「……馬鹿ガ。あまり失望させるナよ」
呆然と立ち尽くす九十九の胴に、容赦無く鉤爪が振り上げられる。そして——
真っ白な火の粉が爆ぜ、宙空に煌めいた。九十九が咄嗟に突き出した鉄棒に鉤爪が接触し削れた鉄の欠片が摩擦熱によって発火したのだ。そして、一呼吸遅れて九十九の衣服の胸元が縦に裂け、其処からボッと細かい粉塵の様なモノが噴出する。
あ……え?
一瞬、訳が分からなくなった。いや、目の前の光景を理解したく無いと脳が拒否したのかもしれない。それでも、残酷に世界は刻を進めていく。ゆっくりと後方に倒れ行く九十九の身体。
振り上げた鉤爪をそのまま宙に掲げながら雄叫びをあげる人狼。耳に響くのは、九十九の絶叫か、それとも人狼の歓喜の叫びか……
防ぎきれなかったのだ。九十九は、人狼の一撃を。鉤爪から発せられる瘴気の第二爪を……
「九十九ぉお————ッ!」
思わず叫んだ。名前を……一時とは言え、背中を預けた男の名を。鎮痛作用のある種子の効果の限界を超え、肋骨が痛む。けれどものっそりと駆け出した脚は止まらず、九十九の元へと進んで行く。
やがて辿り着いたその場所で、ぐったりと仰向けに倒れこむ一人の男。其処へ倒れこむ様に手をついた。
「おい、起きろよ……」
両の手で身体を揺さぶる。ゆっくりと……
「起きろよぉ……九十九ぉッ!」
強く、強く身体を揺すぶった。そんな事に意味は無いと分かって——
「かぁ〜イテテ……」
のっそり、九十九の身体が動いた。
「……は?」
「お?」
「おまッ! え? 大事無いのか?」
「おぉ、そんなに驚く事でも——って、あぁ——ッ!?」
九十九が突如大声をあげた。慌てた様に胸元を漁り始める。
そうだ! 胸元から噴出したのは、黒白の世界故に色は分からなくとも血潮だったのでは無かったのか。私も慌てて其方に視線を落とすと——
「——お、俺の、ふ、袋がぁぁあああ……こんな、こんな事って……」
「おい、何を言ってるんだ? 傷は無いのか?」
イマイチ、九十九が何を言っているのか分からず、そう問いかけると、ボロボロになった袋をむんずと此方に寄越してきて、ゆっくりと立ち上がる。
どうやら傷は無い様だ……。いや待て、ならば先ほどのアイスナーの叫びは何だったのだろうか?
そう思い至り、慌てて人狼へ視線を投げる。すぐ其処で対峙する人狼は、先程宙高く掲げていた両の掌で顔面を抑えながら、クックッと息を漏らしていた。嗤っているのか、ならば一体何に?
「あぁぁ……」
何だ? 人狼から漏れ出た音を聞き取ろうと、耳を澄ますと——
「眼ガ、眼がぁぁあああ……」
「——は?」
笑いではない。これは呻き声だ。
「四葉、少し激しくなる……離れてろ」
「あ、あぁ……」
人狼の呻き声を耳にしたものの判然とせず、未だ混乱する私へそう告げると、鉄棒を握り締め、ゆらりと構え直す。それだけで、ヒヤリと周囲の温度が下がった様な気がした。憤っているのだ。ならば、何故——
「——俺の懐にあった特製激辛香辛料の袋……オメェの毛皮ごときじゃあ償いきれない罪と知れッ!」
その解は示された。九十九から噴出する怒気がピシャリと空気を叩き、風が遊ぶのを止めて、慌ただしかった木々すらも黙り込んだ。ただ一つの存在を除いては。
「……ぁぁあああッ! 眼がッ! 眼が見えなぁああッィィ!?」
人狼が泣き叫ぶ。九十九の懐から飛散した血潮ではなく、様々な刺激物で作られた香辛料だった。それを眼球の粘膜と、鼻腔から一気に体内に取り込んだことで、人の数倍もの感覚を持つ狼の能力を持つが故に、激しく苦しみのたうち回っていたのだ。
「目潰しなんて生易しい仕打ちじゃ済まさねぇ……」
「いや、まぁ……結局、彼奴の目なり鼻なり潰してるけどな」
私には、憤る九十九にそう突っ込むこと以外に、できることは無かったのである。
【用語解説】
◯高地人種
標高の高い土地に暮らす民族。低酸素の環境化で生活しており、高い身体能力を有する。肌は日に焼けて浅黒い。
◯暁鳴草
夜明け前に赤い花を咲かし、花が落ちる頃に、果実部分が弾け種子を飛ばす。種子には鎮痛作用がある。




