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黒白の刻1〜獣化式〜

【Date】

黒白の刻

【Location】

新大陸:渓谷

「があああ”あ”あぁァァ——ッ!!」

断末魔が峡谷にぶつかり、反響する。共鳴するように次第に大きくなったその音は、渓谷全体に響き渡る。波立つ河の水面が写すのは、色無き空に浮かぶ白と黒の双月と、二つの無色で塗り潰されたモノクロの世界。そして、草木も羽虫も魚も鳥も……そこにある生きとし生けるもの全てが同様に色を失っていた。


 轟いたのは悲鳴か、絶叫か……何れにせよ、声の主が咆哮の後に抱くのは——痛み。それ以外の何物でもない。故に、来るべき痛覚に耐えようと、自然と四肢に力が入り、両の目蓋は強く閉じられた。


「ヒューヒュー……」

息は絶え絶え……


「何テェ事を……何て事ヲ……」

私が発しているとは思えない、悲痛の声が繰り返し繰り返し、呪文でも唱えるかのように耳元に届く……だが、何時まで経っても痛みは襲って来ない。


 この絶叫は……私のモノでは無かったのか? 

 そんな疑問が浮かび、答えを求めて恐る恐る目蓋を開く。


「ウッ!?」

反射的に息を呑んだ。凶爪が目の前まで迫っていたのだ。しかしそれは、こちらに達する事なく、私の見開いた左眼の僅か数寸先で止まっていた。カタカタと震えるその爪先から視線を移す。大きな手、黒の制服に包まれた前腕、肘、肩、そして首を伝い、辿り着いたのは——苦悶の表情を浮かべた人狼の顔だった。


「は?」

何で、お前が苦しむ? 咄嗟に、そう《《突っ込み》》たくなった。そこに——


「なぁに勝手に人様のモンに触ろうとしてんだよ……此奴は、まだ俺のモンだ」

人狼の背後から声が聞こえた。聞き覚えのある声。何処か眠そうで、野暮ったい——なのに、良く響く。そうだ、ヴェルデの聖歌隊で低域男性声種を担当する連中のように太く、そして力強い。

 けど、洗練されていない。というよりも、何一つ着飾る事の無い、そんな彼奴あいつの声が……耳に届いたのだ。視線を声の主に移す。


 黒鉄くろがねの如く艶やかな黒髪。

 開いているのか分かりづらいほど、細い両の眼。

 無精髭を蓄えた眠そうな顔。

 手の甲から覗く黒の格子模様。


九十九ツクモ——如何どうして、此処に……」

人狼のぅ……そのぉ…………股下から覗く、其奴そいつの姿を認めて思わず口にした。その男の名を。


「よぉ。良く気張ったなぁ」

言って、ずぶり。アイスナーの尻穴に突き刺された鉄棒を抜き出す。


「はひィィ↑」

素っ頓狂なアイスナーの声が漏れる。カタカタと全身を震わせながら己の背後に視線を向けて、激痛に耐えながら、何だ此奴はと、訝しげに九十九を睨んだ。


 成る程、私の代わりにアイスナーに文字通り突っ込んでくれた訳か……ん? いやいや、そもそもアレが突っ込まれていたからアイスナーの攻撃が私に届かなかった訳で……となると、私が突っ込む必要は無くなるから、気張る必要は無くて、あ〜訳わからん。


「だあァァッ! やはり、お前と一緒にいると、調子が狂う! そもそも、何時いつ私がお前の物に——ッ」

フッと浮かんだ安堵感にも似た感覚の所為で、めちゃくちゃにこんがらがった思考回路。それは、どうやっても解けそうになくて……その原因たる九十九に感情をぶつけながら力んで叫ぶと、肋骨が痛み、折れていた事を思い出し、右脇腹を手で押さえた。


「何だ? 腹でも下ったのか?」

「違う! それに何で、突っ込むとか、気張るとか、下るとか、全部、けつネタなんだよ!!」

「けつネタって、お前……はしたねぇなぁ。そもそも、突っ込むなんて一言も喋って——」


「五月蝿ぁぁあああアア゛イィィッ!」

私と九十九に挟まれたまま、尻穴を抑えるアイスナーが泣き叫ぶ。


「——五月蝿ぇのは、御前オメェさんだぜ」

その叫び声を切り裂くように、九十九が鋭いツッコミをまたも放つ。

 確かに、と頷こうとした頃には、私の眼前でアイスナーの身体がくの字に曲がり、視界外に吹っ飛んでいく。ハッとして首を右に向けてその姿を追うと、奴の身体は水面を3度跳ねて、反対側の河岸に叩きつけられていた。それは、先程私が吹っ飛ばされた光景をあたかも巻き戻したようで……


「おー飛んだ飛んだ」

「九十九、お前……いつから?」

「そうさなぁ……泥棒猫が人様の獲物を盗っていったあたりか」

「それって、最初から——」

「——飛ぶぞ。舌を噛む、口閉じとけ」

言いながら、私の上唇を親指で押し下げる。途端——身体が浮かび上がる。

 気づけば、私の身体は九十九の両腕の中で抱きかかえられていた。私が縮地術で飛び上がるのとは異なり、強靭な身体だからこそ可能な純粋な跳躍。

 

 頬を撫でる風に誘われて、辺りを見回す。眼下に広がる世界は、やはり白と黒で二分されているモノクロの世界で。そしてソラも、やはり白と黒で二分されていた。視線を九十九に戻す。

 ……なのに、此奴だけは、この男だけは……どうしてこんなにも輝いて見えるのだろう。生まれた疑問の答えが分からなくて、何となく悔しくて……そっと、頭を胸板に寄せた。


「よっこらせ」

親父くさい言葉とともに優しく河原に着地、私を地面に降ろすと、九十九が視線を前に向けた。その先で、アイスナーがカタカタと身体を震わせながら立ち上がる。


「なん……デ、何でェ? 猿ごときガァ……ワタしに歯向かう事がデキる? 如何してェ……」

「何だぁ? 彼奴、頭でも打っちまったのかよ?」

「いや、あれは……元々だろう」

アイスナーが狂った様に独り言を繰り返す。……なんか、もう、このまま置いておいてもいいんじゃなかろうか? 私の中には、そんな気すら起きだしていた。そこに——


「よぅし……彼奴はほっといてずらかるぞ」

「——って、言っちゃったッ!?」

「そっちの方が手取り早いだろう?」

九十九が私の心の声を代弁していた。とはいえ、あまりにも率直な物言いに反射的に苦言を呈す。


「——キヒヒ、キシ……デモ、そんなの関係ナイ。そんなの関係ナイんだ。これカラ世界が変わル……んだ」

人狼がこちらを見据えた。突き刺す様な視線、なのにねっとりと纏わりつく。


「……何だ?」

寒気が走った。猛獣に狙われた小動物えさとはこの様な感覚を持つのだろうか……それ程までに研ぎ澄まされた殺気。およそ、満身創痍状態の男が発する事が出来るモノではない。

 モルジヴァーグがゆらゆらと身体を揺らすと、先程私がつけた傷口から漆黒の瘴気が噴き出す。周りの白を取り込まんと、人狼を中心に広がり辺りを染めていく——混沌が広がっていく。そして——狼は歌う様に言葉を紡いだ。


O(オー)……この眼ニ闇を裂ク輝板タペータムを〟

ギョロリ、残った左眼が妖しく光った。


F(ヴァウ)……この指に獲物ヲ捕らえル鉤爪を〟

奴の両の指先に瘴気が集まる。


「……おいおい、何の冗談だ?」

「九十九?」

いつもと違う声色に、ふと見上げて見れば——隣で立つ九十九の身体が震えていた。その顔に浮かぶは、恐怖? いや違う、これは怒りだ。だが、一体何に——


K(カフ)……この手ニ音も無く這い寄ル掌球ヲ〟

視線の先、言葉を紡ぐ人狼を瘴気が包む。その黒霧の中で、奴の掌の皮膚が裂け、血が噴き出し肉が盛り上がる。


I(イオタ)……コノ身に大地ヲ駆ける靭脚を〟

変化は続く。スラリとした体躯……それを包む制服が悲鳴をあげ、破けた。露出した肌が次々と裂け、血潮を噴き出しながら筋肉が盛り上がり、指先から上半身を覆う様に剛毛が走る。


S(シン)……この口に獲物を屠る慈悲無き鋭牙を〟

骨が軟骨を潰しながら不自然に動く様な、不快な音を交えながら、人狼の顔が変形していく。口から突き出すのは、大きな犬歯……人の身では扱いきれぬ鋭利な牙。



〝森ヲ統べシ強者の証ヲぉ——ここニィ刻ム!〟



 爆発する。黒の波動が吹きすさび、生じた突風が礫を巻き込んで、こちらに襲いかかった。

 思わず目蓋を閉じる。が、礫のぶつかる感触は感じられなかった。そっと目を開けると——


「やはり——獣化式セリアナイズ・レコード……」

私を覆うように庇いながら、九十九が呟いた。その驚きは、人狼の肉体が変化していることでは無くて、何か別のモノに向けられていた。そう、その紡がれた言葉自体に——


「セ、獣化セリアナイズだと!? 馬鹿な……そんな事があり得るわけが——」

「前、見てみろ……狼さんのお出ましだ」


〝uwuww……WHOoooooo————!!〟

咆哮が爆ぜる。生存本能に突き刺さるように、相手を威嚇する音……人のモノではない、その叫びが轟く。その咆哮で、辺りを包んでいた瘴気が霧散し、化物の姿が露わになる。シタリ、シタリ……四足獣の掌球が接地音を消す様に、静かな足音。


〝ハァッ……ハァッハッハッ……〟

下品な呼吸音。止め処なく溢れる涎でねとつくような粘音が混じっている。


「馬鹿な……言葉どおりに人狼モルジヴァーグになったとでも言うのかッ!?」

露わになった人狼の両の手には巨大な爪。こちらを睨む左の瞳はギラギラと輝いており、最早、狼のソレと化した顔面からは鋭利な牙が濡れ光る。幻視ではない……人狼が、目の前に確かに存在しているのだ。


「素晴ラシキカナ——この力ァッ! 全テヲ圧倒スルゥッ!」

吠える。左眼は潰れているが、それ以外の傷は既に塞がり、鼓膜も修復されたのか、発する人語は獣化前よりも聴きやすい。


「主ヨ! 今、此処ニ誓オウ! 我ガ身ハ、貴方ト共ニ戦イ続ケルトォォッ!! 世界ガ! 混沌カオスデ満タサレル、ソノ時マデ!!」

空を……そこにある黒月を仰ぎ見て、人狼は尻尾を振った。呼吸に混じり溢れる吐息すら黒い瘴気と化していた。


「おい……」

そこに、九十九が割り入った。


「何ダ小僧……今更命乞シテモ——」

「その力、何処で……いや、誰に教えられた?」

人狼に問いかける。先程と同じく、どこか怒りが含まれた声色で。


「カカッ! 何故貴様ナンゾニ答エル必要ガアル?」

「何でも糞もねぇよ。どうやら、犬畜生になって人間の言葉を忘れちまったらしいな?」

「只ノ人ノ身デ、我ラヲ愚弄スルトハ……良イダロウ。御前ラヲ、コノ身体ノ糧ニシテヤロウ」

「はんッ、ヴェルデとやらの犬は躾がなって——」

「あ——それ、私がもう言った」

「……ンン゛ッ! 仕方ねぇ、動物愛護の精神ってヤツを教えてやるよ」


 動物愛護の精神——何だそれは?


 数拍の後、九十九が言い放った言葉に私は心の中で突っ込んでいた。

【用語解説】

獣化式セリアナイズレコード

 特定の韻律によって、細胞に刻まれた太古の存在の因子を呼び覚まし、細胞レベルで肉体変化を起こすもの。

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