紫狼の跫音3〜黒白の刻〜
〝——f f f……〟
玲瓏たるその音が律動を刻み、空に響き渡る。
——ッ、これは……詠唱ッ!?
投じた苦無が弾き飛ばされた後、高く跳び上がった人狼が発した独特の韻律……それは、記憶を探るまでもなく、ヴェルデ帝国を始め大陸北部の連中が使う魔法体系——吟唱歌のものだった。
「チィッ!」
耳を澄ませ。韻律を特定しなければ! 何が来る……物質干渉型か、それとも精神作用型?
いや、何れにせよ、灰ノ国出身の私にヴェルデの魔法体系を撃ち破る対抗呪文を唱える事は出来ない……自然、直接詠唱を妨害し、術の発動を止める他にないッ
そう思い至り、駆け出そうと右足に加重。前を見据えた。自然落下する人狼の口元を捉える。
吟唱歌は、詩に含まれる一定の律動によって、その魔法の性格が決まるのだ。当然、複雑になればなるほど脅威となるが、その分詠唱に要する時間が長く、条件が厳しいものになる。熟練したものであれば相手の詠唱から術を特定し、対抗魔法を起動すると聞く。
詠唱が長い——一気に決める気か、これならば間に合うかッ!
“血血……”
突如、脳内に嗤い声が響いた。そして、周囲の動きが止まるかのように時の進みが遅くなる。いつぞや感じたこの感覚、そうだ確か——
——何故だ。
何故、私に手を貸す——赤目ッ
声の主に思わず問いかける。人狼との交戦時に生じた瘴気と聖光の奔流に覚醒されたのか、懐に収めていた懐剣『風切』が鞘から抜いてもいないのにカタカタと震えていた。
〝騒グナ……時ガ惜シイ、奴ヲ観ロ〟
言われて、ゆっくりと落ちつつある人狼から視線を下す。先程まで奴がいた場所、その空間が十字とX印を組み合わせたかの様に切り裂かれ、歪み出していた。
その歪み……二重十字が、紡がれた吟唱歌に共鳴、韻律を繰り返すように唸りだす。
“OOhooaaa——”
響くのは、悲鳴。
溢れるは、瘴気。
這出すは、亡者。
紡がれるは——絶望の調べ。
「貪り尽くせッ——」
チィッ——誘われた!
あの二重十字、省略符——詠唱省略かッ!?
こちらが詠唱妨害に出ると踏んで、あえて詠唱の長い術の序章を奏で、残りは亡者に歌わせたというのか。この距離では最早避け切れないッ——
踏み出した左足でたたらを踏み、歩みを止める。目の粗い砂利が短く鳴った。と同時、
〝来ルゾッ!〟
赤目の声が再度響く。刹那——
「——高貴なる狼!!」
Ohoounmm……
GGyaGya——
Gyhaaeeyea————
人狼の着地と共に、二重十字の裂け目から未だ彷徨える魂が亡者の姿を成して溢れ出し、こちらへ猛然と這い寄ってくる。それは、やがて統一した意志を持ったかのように重なり合い、一匹の巨大な狼を形作った。
迫る紫毛の飢狼は狭間にある空気と土砂ばかりか光さえも呑み込んでいく。その喉奥に真っ暗な虚空が見えた。何処までも続く果てなき闇が……容赦なく迫る脅威を目の前に私の額から汗が噴き出す。
赤目——如何やって凌ぐ!?
〝——血ガ足リヌ。『凪』ハ産出セナイ、恐ラク稼ゲテ一拍……其乃後ハ、己デ如何ニカ為ロッ〟
ハッ——かの怪剣も、その程度か。
〝矮小タル人ノ身デ、克言ウワ……ナラバ観セテミロ、貴様ノ覚悟ヲッ! 風ヲ詠メ——我ガ異能ハ大気ト共ニッ!!〟
その言葉と共に、両の目頭が熱くなった。そこに、その場所に、血が集まっているのだろう。風の流れを読み取れと、脳が身体の器官一つ一つに下名しているのだ。
その意に従い、目蓋の内側で左右の目玉がギョロギョロと縦横無尽に動き出していた。その瞳が映すのは巨大な飢狼の動きに非ず。それを為す亡者一体一体の個々の動き、そして、それによって生じる大気の流れだ。ゆっくりと目の前の景色が流動する。
接触まで、残り一拍と半。
距離にして、約八歩。
亡者の個々の流れに規則は無いが、進行方向は六時に真っ直ぐ——となれば、抑えるべきは一点か。
視神経を介して脳に大量の情報が流れ込む。次いで、耳鳴り……いや、生じた大気の流れが唄っているのが聴こえた。その音色に誘われるように脇差を構え、振るう。
修正……残り一拍足らず。
接触——今。
先ずは、右半歩前に一刀——斬り下ろし。
〝kyaAhaa——〟
断末魔が響く。
斬り裂いた魂魄の一つが霧散。その残滓すらも呑み込んで、次の亡者の手が迫る。
刀を手の内で返し——逆袈裟にソレを斬り上げた。そして、胸の前でゆるりと軌道を変えて時計回りに半孤を描き四、五体を屠る。止まらず、切先が大地へ垂直に向いた所で、真正面に一歩踏み込む。それに合わせて刃を振り上げ、正面に迫った亡者を両断する。
〝GhooaAhaa————!!〟
鼻先から目元まで真っ二つに切り裂かれた飢狼が咆哮をあげる。が、その傷を埋めるように次から次へと亡者の群れが押し寄せる。
天空を見据えた切先に月光が降り注ぎ、四方八方に幾つもの光条を生み出した。それを受けた迫る亡者は、声出す暇すら与えられず、連鎖的に消滅していく。
心臓拍動一拍分の僅かな時間を、更に刻み込むような時の狭間の中で……一進一退の攻防が続く。紫色に眩く瘴気の残滓の向こう……この目で見据えるその先に虚空が迫っていた。
「————ッ!!」
最早、己が発している気迫の叫びさえも、その虚空に呑み込まれて聴こえてはこない。迫り来る亡者の速度が上がる。いや、時間の進みが元の速さに戻りつつあった。刹那、ぬるりと剣戟の合間を縫って亡者の指先が右脇腹を掠めた。
ミシッと、身に染みるように聴こえた不快な音……この感覚、肋骨を持って行かれたか? しかし、刃を振るうこの身体を止めることは出来ない。それは己の死を意味するのだ。
「————ァァアああ゛あ゛ッ!!」
時は過ぎ、音が戻る。息継ぎもせず、僅か一拍の合間にこの腕で、握る刃を幾度振るっただろうか?
気づいた頃には、亡者が為した飢狼の姿は消え去り、土煙だけが目の前を覆っていた。爆ぜた礫が頭部を掠めたのか、垂れる血流によって右の視界が狭まっている。
およそ、人間が行動可能な速度域を超えた挙動の代償だろうか、全身の筋肉が一気に酸欠状態に陥る。
身体が怠い……
呼吸が辛い……
「ヒッ、ヒューッ……ゴフッ ゼェッゼェ……」
貪るように空気を吸い込むと何かが気管部を刺激、思わず咳込んだ。吐いた単唾に薄い赤色が混じる。見上げたその視界の先で、人狼が驚愕の表情を浮かべている。どこか嬉しそうな様子で……一歩、二歩、駆け出してきた。
「ゲホッ、餌を前にした犬畜生か……」
ならば、餌になってやろうじゃないか。食いついて来い、人狼ッ——その姿を認めて、心の中で呟いて、土煙に隠れるように額の流血を拭い、懐の護符に染み込ませ、すかさず両手で印を結んだ。
結んだ印に呼応した護符が燃焼を起こし、急激に起こった発熱が周囲の空気を歪ませた。生じるのは己の陽炎。普段であれば、その場凌ぎの悪足掻きとも言える愚策。だが——圧倒的優位な状況下において油断と慢心に塗れ、餌を前に惑わされた犬が相手であれば——
愉悦の表情を浮かべ猛然と駆ける狼の姿。
まばたき一つの間に、彼我の距離が一気に肉薄。陽炎の身体に人狼の手刀が突き刺さった。
失せる我が影に人狼の顔が破顔する。その、生じた僅かな動揺を見逃さず、奴の鼓膜に言霊を叩き込む。
〝光届かぬ闇戸の主よ、八柱の音を響かせて、此の者に安らかな微睡みを——〟
「——あぇ?」
果たして、血の匂いに釣られた人狼の身体がぐらつき、地に伏せる。身体を支えようとした腕に力が入らないのか、産まれたての小鹿のように、何度も何度も立ち上がろうとするが叶わず、四つん這いでカタカタと震えていた。
「ゼェッ……だから、“待て”と言っただろうに」
奴が勝利を確信した事で産まれた僅かな隙、そこに撃ち込んだ脳を揺さぶる音色は、たとえ言語は違えど、その音色と言葉が持つ力の意味に変わりはない。刀剣を支えに立ち上がる。そして、人狼に刃を向けた。が——
「……ぇるなァァ……」
「ふざけ……ルナ、フザケルナ、ふざけるな、巫山戯るナァァァッ!!」
眼下にある人狼が叫ぶ。そして、あろうことか己の両耳に指を突き入れ鼓膜を破った。
「なッ!?」
此奴、無理矢理言霊を——
「ガア゛アァァァ——ッ!!」
立ち上がれぬのなら這い進めばいいと言わんばかりに両手両足で大地を蹴ってきた。けれど——既に我が身は空中にあった。疲弊した身体に鞭打ち、その場から跳び上がると、眼下に両耳から血を流しながら発狂する人狼を捉えた。おそらくこれが、最初で最期の——好機ッ!
「狗!——鼻が効き過ぎるというのも、困りものだなぁッ!!」
人狼の頭上、そこで脇差の柄を両手で握り込み振りかぶる。驚愕、困惑、恐怖、それらの感情が入り混じった表情を浮かべて奴がこちらを見上げていた。そこに、渾身の一撃を振り下ろす。
音も無く、宙を映した刃が堕ちた。
大地を叩き割らんと、真っ直ぐに走った一条の銀閃は、陽光の如く辺りを眩ませた。故に、その宙を仰いだ人狼の左眼は——光を、失った。
プシッ、と血潮が噴き出す。陽光が走った場所……仰け反った人狼の額と左眼、左頬は縦にパックリと切り開かれ、紅い肉を露出。左胸で輝いていたヴェルデの紋章も二分され——
「ヒャァアアッ!?」
悲鳴が尻上がりに響く。その場から退けようと下肢に力を込めるのが見えた。逃さない。畳み掛ける様に、ふわりと接地した大脇差の切っ先を、双月の光が大地へ写す人狼の影に突き刺して……
〝影よ、主を縛れ。我、四方を抑えし楔を授けん。一時の自由をお前に与えよう〟
詩をその影に囁いた。途端、先に投じていた4本の苦無を支点に陣が走り、奴の影が消える。そう、影の主動かねば、影は動けぬ。逆もまた然り。
「あ……かッ!?」
ピタリ、人狼の身体が固定される。その現象が理解できぬと、声を出そうにも言葉すら紡げず、吐息とともに霧散した。とはいえ、この術も長くは持たない。突き刺した脇差を抜き出し刃を反転。左手甲をその背に添えて、人狼の正中線に沿って振り上げる。
釣鐘、明星、水月と舐めるように切先が走った。そして、狙うべき一点……喉元を捉えピタリと止める。
「——貴様の喰った魂諸共、消え失せろッ!」
左手甲を支えに喉元目掛けて、脇差握る右腕を突き出した。そう、間違いなく避けられない時宜で発せられた一撃。
「——ケフッ!?」
吐息が漏れた。
人狼の? いや、違う……ならば、誰の? 景色が吹っ飛ぶ。奴の姿が左眼の視界から血で塞がった右眼側に消えていく。
何故?
その疑問が生まれる頃には河原、峡谷と目紛しく景色が移り変わっていった。そして——
〝——ビキッ〟
と、左脇腹に刺されたような痛みが走る。その時点でようやく——
これは……私の——
吹き飛ばされていた。
左側から何者かに受けた一撃が、今度こそ肋骨を折る。そして、産まれた思考をかき消すように、天地がひっくり返り、身体に衝撃が走った。
大地に叩きつけられても尚もその勢いは止まること無く、水切り石の様に河の水面を二、三度、叩きつけられるように転がった。
「——ガハッ!?」
背中を叩きつけられる。崖から崩れ落ちたのか、不自然にも河の中ほどに寝そべる巨石に身体を打ち付けられていた。
「アッハハ!! 破ァーッハッハッ! 素ゥばら……ズゥ晴ぁらァシいィィィィッ!!」
満身創痍の人狼が高々と吠える。まだ光を捉える右眼で見上げるは、双月宿る紺青色の夜空。
「一体、何が……?」
未だ混濁する意識、痛む身体を無理矢理起こし、奴の視線の先を追う——生じたのは、戸惑い。
痛みで視界が霞んでいるのだろう。そうでなければ説明が出来ない。色が失せている。紺青色の筈の夜空は灰色一色で、煌々と輝く双月も……白と黒で——
「……馬鹿な」
思わず口にしていた。つい先程まで金色に輝き大地を照らしていた双月が、相反する様に純白と漆黒に塗り替えられていたのだ。慌てて、周りを見回す。
そうだ……河原に広がる砂利は何色だっただろう?
森を造る草木の色は何色だっただろう?
峡谷を流れる水面は何色だっただろう?
その全てが色を失っていた。視界に広がるのは白と黒の二色と、その濃淡で色分けされた世界。恐る恐る自分の手を見る。指先からずわりと色が失せていった。腕、衣服、上体から下肢に至り、そして、己の影すらも消えていく。人狼の自由を奪っていた影たちもとうの昔に消え失せていた。
「ジ・アグロぉ・ミナァスッ!! 時はぁッ来たれ゛りッ! 」
人狼が歌う様に叫んだ。耳が機能を失ったためか、所々発音が崩れる。いや、それよりも——
「そんな、これが——あの?」
人狼が発した言葉——ジ・アクロ・ミナス。それが意味するのは単なる暦の名称ではない。かつて訪れし黒白の刻——
純白故に色は無く。漆黒故に色は無い。
白が司るは絶対なる秩序。
黒が司るは縛りなき混沌。
混ざろうとも、常に互いを貪り尽くさんと濃淡を競い合う。
白か黒か、永遠に混じり合うことは無い二色。
「……二つの、無色が、この世から色を奪う。訪れるは……」
「「審判の刻」」
私と人狼の声が重なった。
「……間に合わなかったのか? 既に、神魔が解放されたというのか?」
「かカッ! ソォだ……サるめッ、これこソガ混沌の力よッ!!」
噴出する。どす黒い瘴気が、先程よりも濃く。人狼の傷口から止め処なく溢れ、奴の身体を覆っていく。そして、まっすぐにこちらに駆けてくるのが見えた。
「ぁぁあああ゛あ゛ッ————」
そして、断末魔が色無き空に響き渡った。




