紫狼の跫音1〜傍観者〜
【Date】
黒白暦326年、双月の日
【Location】
新大陸:ヴェルデ領付近〜渓谷
「——宙を断つ、我が刃の切れ味……篤と味わえッ!」
四葉が低く、そして、力強く言い放った。故に、響きはしない。しかし、覇気のこめられたそれは勇往邁進……恐れることなくその場に広がっていく。
そして、放たれた言葉が双月輝く紺青色の夜空に霧散する頃……誘われるかの様に一陣の風がその場を走る。それによって、崖上から野次馬の如く好き勝手に増殖した木々がザワザワと腕を伸ばして騒ぎ出し、木の葉が幾つか舞った。ゆらりゆらりと、それらは落ちる。落ちていく。
それとは対照的に、その側を緩やかに流れる河は、二人が醸す尋常ならざる雰囲気を感じ取り、恐る恐るその様子を己の水面に映し出して様子を伺っていた。そこに——一枚の木の葉が舞い落ちる。
未だ青々として生命力溢れるその葉が、四葉と人狼、そして、夜空を映す水面に抱かれ、その着地点を中心に波紋が広がると、そこにある世界……双月も、二人の姿も、ゆらゆらと歪んでいった。
幾重にも生じた波紋が広がりながら、水面にある虚像の世界を崩していく。やがて、緩やかな水流が波紋を飲み込むと、河の水面は再度、目の前の世界を映し出した。先程とは異なるその世界を——
河原に転がる礫が悲鳴をあげる——否、何者かの鋭い踏み込みにより、その着地点にあった小さな礫は、瞬間的に圧迫され、破裂。
聞こえたのは礫の断末魔。その叫び声が響き渡る頃には、意思を持たぬその声の主は、瞬間的に掛けられた圧に耐え切れず砂塵と化していた。
周囲に広がる断末魔に共鳴するかのように、その着地点、先程まで四葉が立っていたすぐ目の前の地面が地割れを起こした。そして——
「——カァッ!」
何か、楽しいことでも見つけたかのような、愉悦に浸る酔った声が響く。いつの間に移動したのか、人狼と名乗った大陸人がそこにいた。駆け出した筈のその姿が、およそ常人の目で追えきれぬほどに加速されたその突進力は、四葉に到達する寸前で、人狼の左足を介して杭のように大地に穿たれる。
しかし、大地は……大地は、その衝撃に反発した。地鳴りと共に受けた衝撃を容赦無く弾き返す。その反力を、人狼は左足裏で掴むように捉え、膝のバネを利用して倍加。
次いで、大腿骨を走ったその力が股関節に伝搬したところで、右骨盤側の寛骨臼に包まれた大腿骨頭をグリュンと一廻し。伸展、屈曲、外転、外旋、内転、内旋、これらの複合運動を淀みなく瞬時に行い、大地から受けた反力と己の突進力の全てを右脚にのせた。即ち——右上段の回し蹴り。
単純にして明解。故に強力。そして無比。
放たれた矢の如く鋭い蹴脚が、濃紫色の瘴気を纏うと、目の瞬きよりも早く四葉の顎先に到達する——かのように見えた。
そう、既にその場に四葉の姿はなかった。すんでのところで後方宙返りに転じていたのだ。空振った一撃が、虚空に紫月を残す。
「羅ァッ!」
対する四葉は、跳躍の頂点、身体が丁度一回転したところで、腰に装着していた菱形の飛び苦無を二本、左手指で抜き出すとともに人狼に向けて放つ。
回転による遠心力が加えられた二本の苦無は、四葉の指の間から放たれると、上方から寸分の狂い無く目標に目掛けて襲いかかる。その先で、未だ回し蹴りの動作状態にあった人狼が無防備に右側面を晒していた。
「——小ッ賢しいわッ!」
人狼が吠える。その咆哮とともに、空振り直後の筋肉の硬直を解除。迫る苦無を己の正面に捉えて、体の前で両腕を交差させるように手の甲で苦無を弾き落とした。
ザクリと、左右に弾き飛ばされた苦無が川砂利の地面に突き刺さった。人狼が面を上げ、四葉を捉える。四葉の身体はまだ空中にあった。
ニタリ——顔を歪ませて、人狼が四葉に向かって踏み込む。
四葉はまだ空中。
人狼がさらに一歩踏み込む。
まだ空中。
間に合わない——そう判断したのか、四葉は空中姿勢を保ったまま、大脇差を鞘に納刀。右手を柄に添え、尚も落下。
対する人狼は、右手を窄め手刀を成すと、馬上槍を放つ騎士の如く腕を後ろに引いてためを作る。最後の一歩、アイスナーが己の間合いに四葉を捉えた。と、同時——
〝喝!〟
四葉が着地——肺に溜まった空気を吐き出し、左腰の脇差を抜刀。迫る人狼の懐目掛けて逆袈裟気味に刃が走る。その剣閃が狙うは人狼の腕——否、四葉と人狼の狭間で、一枚の札が散る。
それは、四葉が着地の間際に放った護符だった。直前まで人狼の腕目掛け走っていた剣閃は、吸い込まれるように軌道を変えて、真一文字に護符を両断。その刹那——
〝唵!!〟
四葉の口から聖音が発せられる。邪を祓う聖なる言葉、それに呼応するかのように、封が解かれた護符の切り口から一気に光が生じた。
聖なる波動は酸素を得た火種のように……あるいは濁流の如く、その場に溢れ出し拡散——が、息つく間もなく、いや……ほぼ同時、一転して急速に収縮を開始。鞠玉のように球を形成した。
その最中、剣戟の合間を縫うように人狼の手刀が四葉の喉元に触れると——鞠玉が……いや、空間が爆ぜる。音もなく。
「ムゥッ!?」
「クッ!?」
そこから生じた蒼の奔流が何かを拒むように二人を弾き飛ばし、虚空に霧散した。共に後方へ吹き飛ばされた二人が、空中で姿勢を制御し、ほぼ同時に着地、相対する。
それは、道理を知らねば不可解な、物理法則を捻じ曲げる現象……しかしながら、聖を拒み、弾くものといえば——
「ほぉう……気取るか? 裏切者ェ……」
ねとつくような笑みを浮かべて、人狼が再度構える。対して——
「やはり……人狼ッ! 貴様、外法に堕ちたかッ!!」
四葉が憤る。驚愕と憤怒の感情が入り混じった怒声を人狼に容赦無くぶつけていた。
「クク……外法とは心外ダナァ? むしろ……」
そこまで言って言葉を止める。そして、おもむろに白手から右手を抜き出し、親指と中指を重ねて、頬のそばで指の腹を擦り、音を鳴らした。
「美しいと……そう感じはしないか?」
その刹那——
“……ぅうぁ……ぁぁアァッ……”
“いやぁぁあぁぃゃ……あッああぁ゛——”
“……して……ころ、シ……てぇえぇ——”
噴出する。止め処なく。四肢が纏う瘴気から、人の声のような音が漏れ出始めていた。それはやがて……菫か、菖蒲か、はたまた桔梗か。開花時期を迎え、甘い蜜を蓄え、蟲を呼び込む華の様に、人狼を中心に濃紫色の花弁を形作った。
美しかろう……芳しかろう……それが、真に生命宿る華ならば。
「下衆がッ……一体、何人の魂を喰った!?」
四葉の瞳にその華が映る。途端、ゆらゆらと花弁が揺れた……いや、蠢いていた。
その花を成す、人の腕、肢、足、脚……そして、顔、貌、面……
四葉の言う通り……一体、何人の魂がそこに押し込まれているのか? 死してなお、果てることを赦されぬ数え切れない程の思念が、風に揺られる花弁の如く、ザワザワと、我先にと、その場所から出してくれと言わんばかりに動き出す。
「カカッ……案ずるな、貴様も直ぐに——入れてやるからナァッ!!」
人狼が間合いを詰める。駆ける狼の如く、低く、鋭く。
“————ぅぅぁぁあ亜亜アアァァァ……”
その後を追う様に瘴気が走る……いや、逃れる事は出来ぬ永遠の枷によって繋ぎとめられた魂達が、逃げ出したいのにろくに言葉も発せずに、ただただ死にたいと、楽にさせてくれという、その思念によって具現化した無数の腕を虚空に伸ばしたまま、人狼に引き摺られているのだ。
「——踊れ」
鈎の様に爪を立てた右掌が四葉の右前方から襲い掛かる。一歩、二歩、タンタンと軽やかにバックステップを踏み、四葉が回避行動をとった。
「激しく」
休む間も無く第二撃。左掌が地を走る様に低く唸り声をあげて振り上げられる。先程よりも早く。しかし、四葉まであと二歩程足りない間合いの外で。
「——チィッ!」
にも関わらず、四葉が舌打ち。脇差の背に左手を添えて、人狼の攻撃の延長線上に構える。
金切声——亡者が叫んだ。
果たして……一拍おいて、四葉の握るその刃から火花が散り、震え、鋼が泣き叫んだ。そして、そこにあった大地がバカリと、人狼の五指の軌跡をなぞる様に縦に裂ける。
その下方から突き上げる様に放たれた一撃によって四葉が仰け反り、体を崩された。腕が痺れたのか、顔を歪ませながら歯を食い縛る。だが、まだ終わらない。四葉を追う人狼が左脚で踏み込み軽やかに跳ぶ。空中でゆらりと右脚を振りかぶり——
「啼け——」
袈裟切る様に蹴り下ろす。
「——叫べ!」
次いで、身体を廻し、左脚の踵で空間を割いた。
四葉が地を蹴った。半ば横っ飛び気味に左へ裂ける。途端、幾条もの瘴気の刃が大地を斬り刻んだ。逃げる四葉の後を追って次々と大地が抉れていく。
「シッ!」
駆けながら、人狼の着地を狙い四葉が苦無を放つ。
「猿めがッ! 嗤わせるナァッ!!」
地に着くと同時、憤った人狼が迫る二本の苦無を、さも小蝿でも払うかの様に弾きかえす。そして——
「貪り尽くせッ——高貴なる狼ッ!!」
人狼の左右の鉤爪が罰印を刻み、続けざま放たれた回し蹴りがソコに横一文字を加えた。そして、垂直に蹴り上げながら月面宙返りを打つと、二重十字が空間を割いて、濃紫色の瘴気が一気に膨らみ、四葉目掛けて猛然と駆け出した。
“GyaGyhaaee————”
咆哮。
放たれた一撃は飢えた狼の如く、そこに在る空気も大地も光さえも抉り、貪りながら、徐々に獣の姿を成して猛然と四葉に襲い掛かっていった。
【用語解説】
◯人狼
本名:ケヴィン・アイスナー
双頭鷲騎士団、第八部隊「追撃者」の中隊長。打撃を主体とした戦闘形態を好む他、死者の魂魄を取り込むことで、事象に介入可能な程に具現化された思念を操る。




