萌芽する色4〜宙を断つ光〜
視線、或いは——殺気。それが突き刺さったかの様な感覚を得た。それで、「起きろ」と、誰かに起こされたかの如く一気に目が醒める。慌てて周囲に視線を投げ、気を巡らせると同時に跳ね起きるように中腰になると、近場にあった手頃なモノを手に握り、正眼に構えた。
「フゥッ……フゥ……って、あれ?」
が、急上昇した心拍によって乱れた呼吸を落ち着ける頃には、その場に、何の脅威もない事に気付いた。両肩から力が抜け、手に握った得物に視線を落とす。すると、空になった酒筒の注ぎ口を握り込み、逆さまに構えていた。
何をやっているんだ私は……
全身の力が抜け、自嘲気味に笑いが漏れる。改めて周りを見回すと、其処は天幕の中だった。どうやら飯の後に骨酒を口にして、それでその後寝てしまったようだ。
寝る前の出来事をぼんやりと思い出す。ところどころモザイクがかかった様に判然としない部分があったが、段々と寝ぼけていた意識も明瞭となってきた。
「つくも……っと——」
そして、そういえばと、一緒にいたはずの男の名前を呼ぼうとしたが、視界に入ったその当人はスヤスヤと眠り込んでいたので、吐き出した音が尻すぼみになって霧散する。
「起こしては悪いか……」
洋灯の灯りがほっそりと九十九の横顔を照らす。夜が白け始め、光が天幕を抜けてきているのか、少しばかり明るさを感じた。
今は何時だろうか?
懐中時計の類を携帯していないから、正確な時間はわからないが……体内時計が狂っていなければ、おそらく夜明け前というところか。九十九の話から察するに、あれから……追跡者から逃げおおせてから3日は過ぎた。暦の上では、風鳴処の月が24日を過ぎたから、月が変わり十世雲の月となるはずだ。空に雲海が広がり、やがて大地に雨を降らすだろう。
天候が荒れる前に海を渡り、灰ノ国に戻らなければならない。それに、ヴェルフォルガーがあのまま見逃してくれるとは思えない。峡谷沿いに捜索しているとすれば、そろそろ捉えられてもおかしくはないだろう。それに——九十九を……巻き込むわけにはいかない。
そう考えると、自ずと、これからどうすべきかという答えが導き出された。フンッと鼻息。決心すると、まずは身支度と思い至り、九十九の戦利品を少々点検する。まぁどうせ盗んだ物だから拝借しても構わんだろう……いや、そうに違いない!
そう、己に言い聞かせ、音を立てぬよう物品を改める。今、私が身につけているのは、上が濃い藍染の半着、下が……何故か両脇に切れ目が入った膝上の腰巻だ。流石に、この格好で外を堂々と出歩く事には抵抗がある。
何か、他に……む、これは——
「——よしッこれなら見てくれも良いし、動きやすい。いや、そもそもこの組み合わせが最初から正しいのではないか……」
見つけた装具を身につけると、先程まで羞恥心しか生み出さなかった召物が、しっかりと設計された防具だとわかった。
闇に溶け込むような藍染で統一され、手甲と脛当ては艶消しされている。それに、大腿部に届く薄灰色の長靴下と二の腕まで隠す長手袋が肌の露出を抑えており、破廉恥度は確実に下がっている。
それにこの伸縮性と頑丈さ、保温性と通気性という相反する性質を兼ね揃えている特質は、おそらく火紅蜘蛛の糸で結われたものだろう。一級品だ。
全体的に見れば、灰ノ国の豪族が諜報に使う女人の間士……彼らが纏う戦闘服に酷似している。そして、得物は……大脇差と飛苦無。
何でこんな物が一式揃っているのか疑問ではあるが、おそらく、昨日食した銀米と共に献上された貿易品、若しくは使用者が討ち取られた戦利品のいずれかだろう。そう思い至り、おもむろに大脇差を手に取って鞘から刀身を抜き出す。そして、その刀身を改めた。
造りは刺突に適した菖蒲造り。刃紋は直刃、地肌は、匂い濃く鮮やかな漆黒色で、其処に小糖を撒き散らしたかのように、白い斑がチラホラと交じり、さながら夜空に瞬く星々の様である。裏には詩が刻まれている。
「業物じゃないか。それに、この裏の詩は——」
刀を返して裏の柄本近くに刻まれた詩を口にする。
〝如光断是宙《コノソラヲタツ、ヒカリノゴトク》〟
「一条の陽光を気取るか……ふふ、大層な詩だ」
思わぬ宝剣に感心しながら鞘にしまい、左腰に据える。これで、準備は整った。後は……
未だ寝静まる九十九を一瞥する。
つい先刻の私も、この様であったのだろうか? ……これ程までに、何の警戒心もなく深い眠りにつけたのは、此奴のおかげかもしれない。
そうだ。今まで、いつ正体が暴かれるのか、いつ襲撃されるやもしれない、そんな警戒心を常に抱いて、ぐっすりと休まることはなかった。そう思うと、誰かに背を預けるというのは……
「存外、悪いものではないか……」
妙な感傷に浸りつつ、天幕入口の横布に手をかける。
「……短い間だったが世話になった。一宿一飯の恩義、忘れはしない。あ〜……この装具の品々は、もしも、また何処かで会う事があれば、その時に……」
正直、この思いをなんと伝えれば良いのか分からなかった。だから去り際に、聞こえていないだろうけど、その様に言い残して、天幕入り口の横布をくぐりその場を後にした。
「明るい……」
陽はまだ昇っていない。湿気を多分に含んだこの空気が肌に触れる感触は、やはり朝方のものだろう。思わず宙を見上げた。
「そうか、今宵は双月か……」
やや紫がかった紺青色に変わりつつある空の画布に、真ん丸と描かれた二つの大きな月が目に入り納得した。
この星には、一年……385日のうち1日だけ二つの月が同時に宙に昇る日が訪れる。
それは、第一月から第一六月、すなわち月魄の月から空五倍子の月のいずれにも属さぬ空白日で、その年により、双月となる日が不規則に変わるため、未だ規則性を特定出来ていない。
月光が煌々と大地を照らし、日中帯と同じ位の明るさによって、その他の星の輝きが失せる。かつて、三百二十六年前に訪れし黒白の刻も、確か双月の日で、双方の月の色が黒と白に変わったと伝え聞くが……
ジャリジャリと河原の砂利を踏みしめ、峡谷を下る。二つの光源によって、地面に影がくっきりと映っていた。一刻程歩いただろうか?
未だ陽は昇らず、隣を流れる川のせせらぎも眠ったかの様に静かだった。故に——森が騒つく。その音がハッキリと分かった。
“Gyhaae——”
奇声。私の右手。峡谷沿いに続く、反対側の崖上から二つの影がこちらに飛び降りてくる。
「フゥッ!」
左腰の大脇差に右手を掛け、短く息を吐く。と同時、その襲撃者に向けて右足を一歩踏み出し、腰の回転と腕の振りを一体化させ抜刀、水平に薙いだ。掌に確かに感じる肉の抵抗。
——止まるなッ!
言い聞かせ、その勢いのまま自然に前に出た左足に重心を移動させる。その左足を軸に一回転。ふわりと頭上に持ち上げた大脇差の柄に左手を添え——
「シッ!」
一転、緩から急。右小指を締めて——垂直に斬り下ろした。薄暗い闇間に〝ゆ〟の字を描く様に、銀閃が走る。その間、僅か1秒に満たず……正に、紫電が闇夜に走るが如く。
シタッ、シタッと、背後にて二匹の襲撃者が地に着く足音。振り返る必要はない。手に残る確かな手応え……そして、ズルリと肉と骨がズレる音。
凄いッ……身体が動く。これならば——
気力、体力とも漲っているのが、自分でも分かった。そこに、パチパチと乾いた音が鳴る。
「ほぉう……何があったか分かりませんが、どうやら以前会った時とは別人のようですねぇ」
粘着質な声が響いた。振り返り、声の主に視線を突き刺す。
「人狼……」
やはり、追ってきていたか……
「その格好、もはや、自身の国を隠すつもりは無いと……そういうことで宜しいのですね?」
暗がりからゆっくりと歩を進めながら、ニタリ、三日月のように両の眼を歪ませて笑みを浮かべた。
「ふん、隠そうが隠さなかろうが、貴様等が裏切者と判断すれば何人たりとも粛清の爪から逃れられないのだろう?」
「おや、分かっているではありませんか。しかし、まさか降伏する……なんて、ふざけた台詞は吐かないで下さいよぉ」
クスクスと笑いを漏らしながら、白手に包まれた大きな両手で顔面を覆い、俯向くように笑いを堪える。
「そぉう……折角滾った血が、この血が——冷えちまうからナアァァッ!!!」
咆哮。人狼が仰け反りながら叫んだ。憤怒、憎悪、悦楽……様々な負の感情が濃い瘴気となって一気に吹き出していく。
「クヒヒ……アヒ、アハハッ……」
未だ収まらぬ笑いを、もはや抑えるそぶりすら見せず、低く、低く構えを取る。腰を落とし、足幅は広く、左足を前に伸脚。両の手は、第二関節を曲げ、前にゆらりと構える。腰は弓のように前に湾曲させ、さながら獲物に飛び掛る爪を立てた狼の如く。
……静寂
「名乗れよぉ……皇国の猿は、決闘の作法も知らんのかァ?」
痺れを切らしたアイスナーが、我慢出来なくなったのか声を上げる。
「強請るな……ヴェルデの犬は躾がなっていない——〝待て〟だ」
侮蔑するような視線を人狼に投げて、右手で犬を躾けるように合図を出す。
「——劣等混血種がァァッ! 調子に乗るなよッ!」
「ふん、そうやって、いつまでも吠えておけ」
「殺ス! ——双頭鷲騎士団、第八部隊追跡者の人狼が、死してなお、永遠に続く苦獄を、貴様の身体に焼付けてやろうではないかッ!」
怒号——空気が震える。人狼を中心に生じた波動が木々を揺らし、水面を波立たせ、巨石を割った。溢れるほどに殺気が込められた鋭い風刃が身体を掠め、後方に流れていく。
「……皇国隠密『八葉』が一人、四葉。覡の白刃となりて、悪鬼を討つ……」
大脇差を握る右腕を伸ばしたまま、ゆっくりと持ち上げる。その鋒にアイスナーの姿が重なった。
這い蹲ってでも——生き抜いてやるッ!
己に言い聞かせるように心の中で呟く。そして、その決心と共に、得物を握る右手首を外側に反して、右頬まで一気に引き寄せた。
「——宙を断つ、我が刃の切れ味、篤と味わえッ!」
抜き身の刀身に己の顔が映り込む。天空を睨むその刃は、双月から降り注ぐ月光を浴びて、さながら星々輝く夜空の如く瞬いていた。




