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萌芽する色3〜知らぬ色〜

 ツツっと、白い指先がこちらの左腕を踊った。それは、己の手で躊躇無く握り込めば、ポキリと折れてしまいそうなほどに繊細で……そして可憐だった。

 それなのに、真珠の表面の様に艶やかな爪が時折、こちらの肉に容赦なく喰いこみ、赤い爪痕を残す。


 既に、陽は落ち、辺りは深い闇に呑み込まれていた。夜眼ヨメを持たぬ者達はぐっすりと寝静まりかえっている。

 時折、暗い森の中をウゾリと蠢くものは、おそらく……こちらの世界の住人ではない。

 唯一、闇の中で地上を照らす、天空の星々の光さえも厚い雲に覆われており、雲海を突き抜けて薄っすらと覗く月明りだけが、その大地を怪しく照らしているのだ。


 だが、其処だけは……ゆらゆらと揺れる洋灯オイルランプ灯火ともしびに照らされて、淡い光に包まれている。

 火床からとったスス、乾燥したはじかみの粉を塗った小石が天幕の八方に積まれており、それが簡易的な魔除けとなっていて、知能を持たぬ見境のない低級魔獣程度であれば、その魔除けと焚火の熱で十分に追い払うことができた。

 スッと、其処に……天幕に映る女人の人影が、もう一つの、俺の影に重なる様に寄りそった。


「はぁ……」

吐息が漏れる。女の声が鳴いた。ともすれば、求愛を求める小鳥の様な囀りが深い闇の中でひっそりと……名を呼ばれ、寄り添う女を一瞥した。


 腰巻から覗く、朱色に染まった太腿

 腕にしなだれ掛かる柔らかい肉体からだ

 ぽってりと瑞々しく誘う美味そうな唇

 香る、牝の匂い……


 ふと、思う。普段であれば……歓迎したい状況ではあるが——


「——ううウゥゥゥオイッ!!!!」


 “オゥイイィィ……ィィン……”——耳鳴りだ。思わず、耳穴を人差し指で塞いだ。


「聞いてるのかぁッ!? 九十九ぉ〜」

「あーはいはい、聞いてる聞いてる」

その問いかけに投げやりに回答し、声の主に視線を向ける。一体、どうしてこうなったのか?


「ほりぇ! お前もにょめ!」

目の前の女……四葉が、琥珀色に輝く液体に満たされた御猪口おちょこ代わりの青竹を掲げ、こちらにしなだれ掛かる。呂律の回らない舌。紅く染まった頬。漂う酒精アルコールの匂い。


 完全に酔っ払ってやがるな。

 いや、こうなればもはや……酒乱か。


「はぁ……」

額に手を当てると、思わずため息が出た。こんなにも隙だらけなのに、全くそそらない女も珍しいもんだと、一人、ある意味感心する。


 あの後……四葉がひとしきり泣き終えた後、取っておいたとびきりの酒に岩鱒の骨身を浸し、骨酒を造って飲ませてやったところ「美味いッ!」と叫び、こちらの制止を聞かずゴクゴクと水のように流し込んでいた。今考えれば、あの時もう少し強く止めさせればよかったと後悔するばかりであるが……ずしり、重みが増した。

 

「おい、あんまりって……寝ちまったか」

再度、四葉に視線を戻すと、すぴーすぴーと鼻息を立てており既に此処に意識は無い。ようやく訪れた静寂にホッと一息、青竹の椀に残った酒をちびりとあおる。

 口に広がる香ばしい香りと、岩鱒の骨身から染み出た甘露な出汁に舌鼓を打つと、先程の光景が思い起こされた。


「三百と……二十六年か」

長いか短いか、己の感覚ではなんとも良く分からなかったが、彼奴あいつが守ろうとしたモノは、確かに……確かに、此処に残っていやがった。

 ぽつりと独り言をつぶやいて、己の膝元に顔をうずめる四葉に視線を落とした。頬にかかるブロンドの髪を指で退けてやる。顕わらになった四葉の表情は、どこか安らいでいるように見えて……


 ——何だ? この感覚は……


「……ま、人間どもは相変わらず殺りあっているようだが」

ふっと生まれた奇妙な感覚を誤魔化す様に皮肉めいた口調で、再度、届くはずもないのに声を出す。


 それに……腑に落ちない点もある。

 いつからだ……いつから、人はまた神魔を祀り、崇拝するようになった? 神魔戦争の再来を、一体、誰が望んでいる? いや、そもそも…………


「本当に……本当に神魔戦争は終結したのか?」

思考を巡らせれば巡らせるほど、様々な疑問……違和感ともいえるソレが噴出してくる。

 そういえば……さっきも同じような感覚を覚えたな。そうだ。それは、四葉が涙を流した時だ。

 

 ——何故、涙を流す?

 

 四葉の言動が、どこか……己を押し殺しているように見えたから、本心を吐き出させてやったまではよかったものの、突如流れ出した涙の……感情いろの意味が、俺には解らなかった(・・・・・・)

 俺がこれまで見てきた涙は、絶望に打ちひしがれて、あらがう術もなく……いや、抗う気勢すら持たぬ弱き連中が、戦うことをあきら無様ぶざまに助けをい流す——絶望の涙。

 あるいは、その結果が訪れることが分かっていたくせに、自ら未来を変えようとせず、やがて直面する運命に、ただただ嘆いて流す——悲嘆の涙。そのいずれかだった。


 ならば、四葉が流した涙は、一体、何の涙だというのだ。そして、あの時……四葉が涙を流した時、俺が感じた……あの感覚は、一体なんだ?

 

「解らねぇ……解らねぇなぁ」

もし、もしも、まだ……俺の声が届くなら……


「なぁ、教えてくれないか——異邦人……」

在りし日の戦友の姿を脳裏に浮かべながら、ゆっくりと、ゆっくりと瞼が閉じられていった。



※※※※※



 シタリ、シタリ……

 天幕テントを見下ろす位置にある崖際、節操なく成長した草木の根が大地を突き破り、何かを激しく求める人の腕の如く峡谷の上方に伸びるその場所で、何者かの足音が鳴る。


 その独特の足取りは、人のソレではない。

 黒い毛並によって彼の者の姿は闇夜に溶け込み、濡れる鋭い犬歯と正面を見据える紅い両眼だけが浮き出る様に目立っている。

 左右二対の脚が相互に生み出すそのリズムは、四足動物……特に狗型の獣のモノだった。パキリ、と枯れ枝を踏みしめるとともに、その歩みが止まる。


 “Grrr……”

 喉の奥から唸り声が響く。そして、その瞳にボヤリと闇間に浮かぶ天幕の灯りを捉えると——スンッスンッと、鼻を鳴らした。

 

「——スンッ……ハッハッハァッ!!」

途端、呼吸が激しくなる。取り込んだ空気から何かを捉えたのか、嬉しそうに尻尾を振ると——


“Guu……Ohaaann——”

遠吠え。高く鳴ったその咆哮は、乾燥し、冷え切った夜空に良く響いた。

 そして、何百、何千という木々の合間を、あたかも意思を持った生物のように猛然と駆け抜け、伝えるべき主へと“音”を伝えた——

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