寝惚者2〜万物我物〜
軽い音と共に水面が揺れた。澄み切った水、その水面に現れた小さな波紋は、受けた衝撃を周囲へと拡散。それと共に生じた水の跳ねる音は、絶え間なく発せられる水流の音に飲み込まれ直ぐさま霧散する。
そして、小さな波紋もまた、徐々に広まりを見せる前に、上流からの水の流れに押し流され消え去った。それが消える頃、少し上方でまた水面が揺れ、音が鳴った。
「もうそろそろか……」
川を遡上していた。と言っても、別に泳いで上っているわけではない。我が物顔で川に寝そべる岩を蹴り、それが見当たらなければ水面を蹴って上流へと向かう。
先ほど聞こえた音の発生源はそこまで遠い距離ではなかった。川岸を走れば砂利が鳴り、林を駆ければ足跡を残し、枝葉が揺れて己の存在を他者に知られるだろう。別に、普段は気にしちゃあいないが……これから仕事をするとなると話は別だ。出来れば余計な痕跡は残したくない。
「——とッ」
視界に入った異質な存在に気付き、咄嗟に進みを止め近くの岩に身体を貼り付けるようにして伏せる。距離は百歩余りか。
反応は……まぁこの場合は〝一つ〟としておこう。川岸に引っ掛かるように倒れていたソレは、予想していた獣の類とは異なり、頭と足、腕がある赤と黒の服を纏った……そう、人間だった。
「何だって、こんな所に?」
呑気に釣りに来た阿呆が足を滑らせたか、それとも川に泳ぎに来た奴が溺れたか……と一瞬考える。だが直ぐに考えを訂正した。確か、ここの上流域は水量に対して川幅が狭く激流のはず……そもそも、ここは普段人が寄り付かぬ場所であるし、どうにも登山者らしからぬ格好だ。そんな事を考えながらソレに近付いた。
背丈は平均的な男性より少し小さい程度。身に付けた衣服は上質そうな生地で、どごぞの軍属の制服のように見える。
「おーい」
「……」
反応は無い。隣に落ちていた枝を拾い上げ、倒れているソレの脇腹をツンツンとつつくも、やはり反応はない。
「そうですか……では、遠慮無く頂こう!」
パンっと乾いた音を立て合掌、ついでにウンタラカンタラと曖昧に記憶した弔いの詩を唱える。獣では無かった。肉と毛皮は手に入らない。ならば、衣服を剥ぎ取り、金品を頂こうではないか。
ああ、安心したまえ名も知らなぬ亡骸よ。ちゃんと供養してやるよ……言うなれば『万物我物』。俺に全て与えよ、然もなきゃ全て頂こうってヤツだ。
などと一人言い訳を考えながらうつ伏せに倒れていたソレを仰向けにひっくり返す。
「此奴……まだ息がある」
なんと、まだ生きていた。そして、露わになったソレ、女の表情に思わず息を飲む。
濡れたブロンドの髪。顔立ちは大陸系の気取った感じは無く、かと言って島国の野暮ったい感じも無い。そう、丁度いいとこ取りしたような愛らしい印象を受ける。唇の色はやや青紫色に変わりつつあり、目の前の生命の終わりが近い事を告げていて、それが余計に儚く、美しいと感じさせる。〝欲しい〟——ただ、単純にそう思った。
「何だかな……」
面倒事は好きでは無い。目の前の此奴は明らかに厄介者だと経験則で分かる、分かっちゃあいるが——
「本能には抗えねぇなぁ」
ポリポリと頭を掻きながら自分に言い聞かせる。そうと決まれば、後はやる事は一つしか無い。
女の右脇に膝をつき、口元に耳を寄せ、視線は胸部へ向ける。右手で顎をくいっと上げ軌道を確保し、残る左手で女の左手首を掴み脈を図る。
「微かな呼吸、脈は弱いか……」
幸い、心停止はしていないが、体温の低下が著しかった。時は一刻を争うだろう。早く温めてやらな——
〝ホシ……イ〟
突如、囁くような声が川のせせらぎに混じった。
〝ホシ、欲シイ……カラダ、ホシィ〟
「ああ、そうだったお前の事忘れてたわ」
言いながら背後に感じたその存在を後ろ目に捉える。ウゾウゾと川から這い出した水の塊が徐々に形を造り始めていた。先程感じた存在の片割れ、妖魔の一種。未練を残した人の魂が水に宿り、己の身体を求めて水辺を彷徨い、音も無く人に近づき半個体状の身体で獲物を捕らえると、川底へ引き込む亡者。確か名を——〝ゾル〟
〝……セ、寄越セ、ソノ身体、ホシ、ホシィ〟
人の背丈ほどに膨張したゾル、生前の者の顔だろうか、その表面には人面が見て取れた。
「そいつは残念だ」
言いながら後腰に携えた大腰鉈の柄を握る。キンと、甲高い音がその場に響いた。
「お前にこの身体は勿体なさすぎる。それに、此奴はもう〝俺の物〟だ」
鞘に収まったままの腰鉈の柄から手を離し、女を抱きかかえる。
〝嫌ダァッ! 寄越セ! ソノ身体ヲォヨコ——〟
ゾルの人面、その口が大きく裂け、俺たちを飲み込もうと押しかかるが——
〝アイェッ!?〟
「あぁ~いきなり動くから」
あとわずかで獲物を捉えることが出来る、そんな、ほんの数センチの距離まで迫ったゾルの体の一部が、みるみる霧散していく。
大腰鉈の抜き際に放った一閃はゾルの核となる拠代を砕いていた。力を失ったゾルは形を留める事ができず、ただの水へと戻っていく。
「アリガトウ、コレデカエレル」
そんな言葉を残して——とは言ってねぇか。真似してみたものの、なんか違うなと反省。手元にある女を一瞥する。抱いて納得した。何故、ゾルが現れたかを……そもそも、妖魔の一種であるゾルは、こんな真昼間に現れる存在ではない。
「とんでもねぇ瘴気だ……」
女から発せられる瘴気、自ら発している訳ではないため気づくのが遅れたが、間接的にこれほど臭うとなると、間違いなく呑気に釣りに来た人間ではない。おそらく、この瘴気がゾルを呼び寄せたのだ……まぁあんな雑魚のことより、今はまず——
「野営地に戻るか」
*****
意識がまどろむ。身体が暖かい。そうだ……まるで誰かに抱かれているような、そんな感じだ。目を開けようとしたが瞼が重い。
生と死の狭間を彷徨うとはこの様な感覚なのだろうか……いや、であればこんなにも、こんなにも安らぎを感じる事は無いのではないか。
とろけるような心地良さを感じながらも、現状を把握しようと覚醒しつつある頭を働かせると、徐々に記憶が蘇ってくる。
そうだ、私は——私は、ヴェルデ本国から派遣された新大陸未踏地への先遣隊にその身を置いていた。本来であれば、本国において君主の身辺を警護するのが親衛隊の役務であるが、今次遠征隊派遣に際し、親衛隊から幾人か希望者を募るという話があったのだ。
好機——そう思った。
私がヴェルデに潜入した目的、それは私の本来仕える灰ノ国から賜った密命……新大陸におけるヴェルデの活動実態と目的の把握。そして、それが脅威であれば、対象を破壊するということ。
灰ノ国の覡……代々、我らが国を導いてきた、星の報せを詠む異能の持ち主だ。その覡が神託を得て見た未来——〝西の地より訪れし異端者は、彼乃地にて禁忌を犯す、其の歪は眠りし者らを呼び起こし、大災禍が再びこの世を覆うだろう〟
大災禍の再来……それが意味する所はただ一つ。百年以上前、人々が神、悪魔といった超常の者達へ戦いを挑んだ神魔戦争の再来だ。
故に、それを阻止するため、外見がヴェルデの民と然程変わりない私が送り込まれたのだ。しかし、本国に潜入し、一通りの調査を終えたものの確たる情報は得られることができず、ならばこの目で直接確認するしかないと、遠征隊に希望。新大陸に直接乗り込み、そして……アレを見た——
【用語解説】
◯ゾル
水辺彷徨う者。本来なら顕界へ影響を及ぼす事の出来ない複数の水霊が、外的要因により活性化、混合し、魂魄の宿った遺物を中心として半個体状の妖魔を形作る。