寝惚者1〜無二の有様〜
【Date】
黒白暦326年、第四月(風鳴処の月)22日
黒白の刻より2日前
【Location】
新大陸
「くぁ〜ッ」
思わず欠伸が出る。硬直した顔の筋肉が伸び、大きく酸素を吸い込むと、目尻から涙が滲み出た。それもそうだ。もう、かれこれ一刻程にはなるだろうか?
時刻は昼前。場所は渓谷。目の前を流れる水流に釣り糸を垂らしてみたものの、一度もうんともすんとも言わなんだ。
間も無く夏季を迎える山々は、枝に青々とした葉を付け、太陽から降り注ぐ日光を浴びて嬉しそうに踊る。その様子が、目の前を流れる谷川の水面に映っていた。背伸びをしながら周囲に目をやると、自身の背丈よりも大きな岩が川岸に幾つか転がっており、流れる水流は水底が透けるほどに透明度が高い。
一昨日の雨の影響か水量は豊富で、場所によって碧、翠と色が変わり深みを作っており、その場所が上流域である事が分かった。
そんな谷川のど真ん中に居座る一際デカイ大岩に俺は腰を据え、昼飯となる川魚を採ろうと竿を伸ばしているのだ。
〝ぐぅ〜〟と、腹が鳴る。
「おーよしよし、少し待て腹虫」
己の腹をさすりながら、視線を竿先に戻した。手にしたのは、背丈二つ分程の漆塗りの竹竿。水面に伸びる黒いラインは、馬の毛を撚り合せた馬素で、水中には昨日こさえた毛針が付いている。先日、久方振りに目が醒めてから初めて行った〝仕事〟で運良く手に入れた、ふわりと軽く、粘りのある調子のその竿は、触れた瞬間「業物に違いない」と直感した。
普段なら早々に売り払うところであったが、昔から感化されやすい性分であったため、直ぐに旨い魚が喰いたいと近くのこの山へ直行した次第であった。しかし、どうにも魚が掛からないので退屈した身体が欠伸をあげたのだろう。
「やはり手掴みかぁ?」
正直なところ、魚を食うだけなら別に竿で釣る事に拘る必要など全くない。経験上、警戒心の強い上流域の川魚は、バシャバシャと水音を立ててやれば、驚いて逃げ場の無い岩下へその身を隠す。そうなれば、後は岩下に手を突っ込み、魚の感触があればむんずと鷲掴み引っ張り出すだけだ……なんのこたぁねぇ。
竿を岩に置き、水中を覗く。水面に眠そうな顔が映って——いやいや、これは元々だ。
カッと見開こうと力を入れるが、薄っすらと瞳が覗く程度でその表情は変わらない。そう、誇張して例えるなら横一文字、棒線一本で表現できるほどに自分の目は細かった。そして、顎に薄っすらと蓄えた無精髭が尚更眠そうな印象を与えている。
「ハァ〜ちと、一休止」
そんな己の顔に眠気を誘われ、岩の上で仰向けになり眼を閉じる。陽光で程よく温められた背中に感じる岩肌が心地よく、吸い込む空気は土と青い若葉の香りに満ちてひたすらに美味く、一定のリズムを刻む川のせせらぎとチュンチュンと時折鳴く小鳥のさえずりが良い演奏となって更に眠気を誘う。少々の肉体的な苦痛には耐えようもあろうが……
「こればかりは——抗えねぇなぁ」
〝——ッ〟
「んぁ?」
眠りに落ちるかという間際、せせらぎの音に〝雑音〟が混じる。耳に残る音階は明らかに自然の音ではなく、そう、何らかの生物が発する音であった。眼を閉じたまま耳を澄ませ、気を巡らせる。
「もう少し上流か……」
先の音の発生源に当たりをつけ、起き上がる。こんな山奥に来るのは、良い竿を手に入れたから旨い魚が喰いたいと考える阿呆か、何か特別に事情のある奴くらいだろう。森には凶暴な獣の他に、奇怪な化物——常夜乃者が跋扈しているから、何ら対応策を持たぬ連中は知らぬ間に命を落とすだろう。
「全く、少しは住みやすくなるかと思ったが……」
言いながら竿をその場に放置して、脱ぎっぱなしだった土方が好む衣嚢の多い麻地の上着に手を伸ばし羽織る。そして、上着同様、虫除け効果のある藍の染料で濃く染められた洋袴の裾を編み上げ靴の内に差し込んだ。
呼吸を止め、視線を周囲に巡らせる。
先取発見、この世で生きる為の心得の一つ。弱肉強食の世界では、先に捉えられた方が獲物となる。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか……」
言いながら口元が緩むのを感じていた。数えれば三日振りの〝仕事〟となるか? 後腰に下げた獲物——刃渡三尺に届く大腰鉈の柄を右手で握る。ちろり、舌先で唇を濡らして、逸る気持ちを抑え込んだ。
血が湧く。
心が躍る。
相手が人であれ、常夜乃者であれ、何であれ——
〝奪われる前に全てを奪う〟
〝奪われたならば奪い返せ〟
命も、財も、秩序も、自由も……それが俺の、奪う者としての、二つと無い生き方だ。