白詰草3〜追撃者〜
「——ッ!?」
音も無く目の前に現れたその男に驚愕し、意図せず喉が塞がった。長身痩躯で、ひょろりと長い手足が気味悪くひ弱そうな印象を与えていたが、ヴェルデの制服を着込むその姿に隙は伺えない。
何より、こちらが必死に走ってきたというのに一体どうやって追ってきたのか、目の前の男は息一つ切らしていないではないか。その事実に動揺しつつも、泳ぐ視線で男の階級章と部隊章に注目する。
階級は中隊長級。肩に縫われた青地の部隊章には、金糸で編み込まれたVの字に「喜び」を表す8番目の刻印——「Ⅷ」が重ねられていた。
No.Ⅷ……君主へ逆らう裏切者を排除する防諜部隊「追跡者」の隊員、それも——〝指揮官級〟
奴らは、ベルデ帝国の暗部として「反乱分子」とみなした人物の逮捕、尋問を所掌しており、独断での処罰権を有している。しかし——
何故、此奴が新大陸にいる!?
追跡者の幹部は、本国お抱えの要員ではなかったのか?
「あぁ、何て事を……可哀想に」
動揺するこちらを意に介さず、男が態とらしく大きな素振りで天を仰ぎ、純白の手袋で包まれた右手で、赤茶色の前髪をかき上げる。そして、つかつかと歩みを進め地に伏せる獣に視線を落とした。
隙間風が走るような音が微かに届く。よく見れば、始めに屠った筈の一匹……腹部から臓物が飛び出している獣は未だ生きているようで、か細い呼吸音を発していた。
「おぉ、未だ息が……今すぐに助け——」
水音——男が歩みを進めた事で黒のグリーブが獣の血だまりに浸かり、はねた血液がベタリとそれを汚す。
「き………汚なぁあ゛いッ!!」
「ッ!?」
突如、男が叫んだ。周囲の空気が震え、その振動がビリビリと身体に伝わる。堪らず瞬きをすると、次の瞬間には狗の頭が踏みつけられ、まるで瓜の実を叩き潰したように中身を四方に撒き散らしていた。
「何を人の足につけてくれているんですか、この駄犬はぁッ!」
人が変わったように鬼の形相を浮かべて、男が何度も何度も踏みつけると、もはや原型を推測する事が困難な程にすり潰される。その様相は、まさに狂気の塊……思わず背筋が凍った。
「……と、少々取り乱しましたか」
一頻り亡骸に制裁を加えた後、男は先程までの様子が嘘のように落ち着きを取り戻した。そして、鋭い視線をこちらに向ける。それで、呆気にとられていた私も意識を目の前の脅威に集中させる。
「ヴ、ヴェルフォルガーの幹部が何故ここにッ!?」
「ほぉぅ……我々の事を御存知でしたか、ますます確信に至りましたよ」
「何をッ……」
ぐっと、残る力を下肢に込めてなんとか膝立ちになった。とはいえ、手元にある獲物は、あの〝風切〟しかなく、仕方なく鞘に封じ込めたまま切っ先を男に向ける。
「まぁまぁ慌てないで下さい。さて、何処から話しましょうか……」
勿体振るように、白手袋に包まれた右手を顎に当て考え込む素振りを見せる。そして、幾許かの間を置いて、人差し指を立てると言葉を続けた。
「そう、私が貴方に目をつけたのは、貴方が親衛隊に入隊した時の事……栄えある同胞達の誕生に私も喜びを感じておりましたが、どうした事か……臭うのですよ、私の嫌いな灰汁の臭いがね」
態とらしく鼻を摘み顔をしかめると、蔑むような視線でこちらを見下した。
「何を言って——」
「貴方……間者ですね?」
「何を戯言を……」
「あぁ、余計な言い訳は無用ですよ。もう分かっていますから」
虫を追い散らすように、シッシッと手を振りこちらの返答を妨げ続ける。
「確かに、その容姿は私達でも至高と謳われる見た目……ですが、私の鼻は誤魔化せません。貴方、混血ですよねぇ? 燃え尽きた灰の、灰汁の強い野蛮な血がプンプン匂ってくるのですよ。それに、その懐剣……明らかに島国独自の武器でしょう?」
言いながら、男が風切を指差す。血で塗れたような赤い眼がこちらを射抜いた。
「その赤眼……貴様、人狼か」
「ほぉ、良くお調べになっている」
こちらの指摘を、男は嬉しそうに肯定した。
最悪の状況だ。新大陸におけるヴェルデの占領地から逃走を図った時、異様に早い追手の反応、よく調教された獣の動員にまさかと思ってはいたが……やはり追跡者か。
しかも、よりによってこの男、一度、獲物を見定めれば、執拗に追いかけ嬲り殺すと恐れられている〝人狼〟に、潜入した時点で既に目をつけられているとは……なんたる樣だッ。
己の不甲斐なさが、頭に来る……が、ここで足止めを食らう訳にはいかない。何としても、果たさなければならぬ。あの人から託された、我が使命をッ!
「何故、この新大陸に……」
心の中で自分自身に喝を入れ、人狼に目的を気取られぬ様、慎重に言葉を選ぶ。
「知れたこと。今や新大陸の獲得は世界各国の本懐の一つ。我がヴェルデ帝国を始め……神授王権を語るアルビオン王国、五竜を従える華雅、極寒の地から睨みをきかす軍事国家ウラルク、太陽の国ソル・レギオニス、占領地解放を謳う犯罪者共の集まりヴェスパ自由都市連合、そして愚かにも新大陸の保護者を気取る灰ノ国……。各国がこぞって軍を挙兵し、傭兵を雇い、毎日の様に争っているではありませんか?」
「……そうではないッ! 何を企んでいるんだッ! あんな、あのような大規模な紋章術式を新大陸に構築して、あれではまるで——」
「あぁ……やはり、アレを見ただけでなく、その意味に気づいてしまったのですね?」
人狼の声が一音階ほど低くなった気がした。そして、私の脳裏に、新大陸のヴェルデ領で目撃した光景が蘇る。大理石で造られた正六角形の巨大な地下室。中心部から広がる床一面に描かれた刻印と紋章。おそらくは——
「いいでしょう、どうせ目撃者である貴方を生かしておくことは出来ません。月並ですが冥土の土産に教えて差し上げます」
人狼が腕を大きく広げて天を仰いだ。
「24の刻印で囲むは神魔封印の要——今こそぉッ! それを解放する時ィ……」
その場で回るようにステップを踏む。
「ハハァッ! 目を覚ませぇ超常の者達よ! 畏れ泣き喚けッ愚かなる異人共よ! クク、眠れる旅人は涙するかもしれませんねぇ……命を賭して封印した最も強大な存在が呼び起こされるのですから」
口角を上げ笑みを浮かべるその顔に戦慄する。
「やはり……神魔解放ッ!?」
予想はしていた。しかしッ——
「愚かなッ……忘れたのか? 二年前の悲劇を! 新大陸の奪い合いで常夜の者たちを目覚めさせ、人類は穏やかな夜を奪われた! これ以上過ちを犯せば神魔戦争の再来となる! それを分かって——」
「神魔戦争ですか……ハハッ大いに結構! 何を恐れるのです? 神や悪魔など、また使役して従えればいいだけのこと。彼等が過去に我々を駒として使ったのであれば、今度は我々が奴等を使えば良いではないですか? それに前の戦争から時は大きく流れ、今や我々とて無力なままの存在ではありません……あなたの懐剣だってその一部ではないですか」
「これはッ……つッ……」
〝使いこなせない〟という言葉が出かかり、すんでの所で舌打ちに変えた。そんな言葉、自ら己の弱点を晒すようなものだ。それに、奴が一気に攻めて来ないのは、恐らく風切の能力を図りかねているのだろう。私としては、少しでも時間を伸ばしたい。この間に〝術〟を終えなければ。
「……貴様、何をしている?」
だが、その様子に異変を感じたのか、人狼の視線がこちらに鋭く突き刺さる……『貴方』が『貴様』に変わっていた。
まずいッ——気取られた!?
ぞわりと体表が感じるほどに周囲の空気が冷える。
「——彼は 我々を 裏切った」
そして、人狼はその言葉を紡いだ。
【用語解説】
◯追撃者
ヴェルデ帝国の防諜部隊。深淵の森にて頂点に在ったと云われる孤狼の力を宿す刻印Ⅷを部隊章としている。部隊活動は滅多にとらず、あくまで部隊員其々の個の力によって、帝国の脅威となる存在を捕捉、確保あるいは殲滅する事を任務としている。
そのため、隊員一人一人が人並外れた能力を保持しており、拘束開放の言葉によって、普段押さえつけられたその力を一時的に使役することができる。
◯人狼
男性。長身痩躯。頭髪は赤茶色。尋常ではないほどの執着心を持ち、対象を痛ぶる事に喜びを感じる快楽主義者。
しかしながら、問題のある精神を把握されていてもなお、追撃者の中隊長についている程の実力者でもある。