白詰草2〜嗤う怪剣〜
これならば、と手に感じた感触に覚えがあった。けれどソレに触れたその手が強張り、逡巡する。本当に使っても良いのか、私に使いこなせることができるのだろうか……そんな不安が頭を過ぎった。
耳元に届く喘ぐような吐息。鼻につく臭気。目の前に迫る獣の牙。もはや、獣の頭を抑える右腕は痙攣を起こし、数拍持つかどうかというところまで来ていた。
そう、迷っている暇などなかった。ぐっとソレを握り込み、遮二無二、獣の首元向けて振り抜いた。
すると、ほとんど力を入れていなかったのにも関わらず、獣の首元をなぞったソレは固い剛毛を両断し、厚い皮膚を見事に切り裂く。鋭い切れ味のためか、その切創は、酸素をたっぷりと含んだ紅い血が流れる前に、黄色い皮下脂肪と、切断された動静脈の断面がはっきりと視認できる程であった。
かと思うと、またスゥ……と元通りに傷口が閉じていく。獣の痛点も、切られたことに気づかなかったのか獣自身に痛覚を伝えることができなかったようで、狗型の獣は幸か不幸か、己の行く末を知らずに愉悦の表情を浮かべたまま、尚もこちらへ牙を向けようとした。
〝ghu?〟
正にその時、突然獣が後方へ飛び退いた。首元が気になるようで、しきりに首を左右に回し、その正体を探ろうとしていた。故に、左右に振られた首が身体を軸にしてグルんと回る。あらぬ方向に一回転すると、ゴトリと音を立てて、獣の首が大地を転がった。
〝プシッ……〟
例えるなら、炭酸ガスを含んだ果実酒の瓶。そのコルクを抜いたように小気味よい音を立てると、獣の胴体と首がつながっていた断面から、それこそ若い葡萄酒のようにルビー色の血液が噴霧する。夕日に照らされて輝くひと粒ひと粒は、宝石と見間違うほどに綺麗であった。
頭部を失った獣の身体がヒタヒタと歩みを進める。まだ、わからないのだろう……己の身体がどうなっているのかを。転がった首までたどり着くと、獣の眼が己の身体を捉え、見開かれた。そこで、最後にパタタ……と涙を流すように紅い雫を垂らして力なくその場に倒れ込む。
「フゥッ——」
襲撃者の最後の様子を見送ると、ようやく緊張から解き放たれて、呼吸を止めていた事を思い出した。深く息を吸う。喉を通る空気が口腔内を刺激して、再度、喉の渇きを認識させられた。
仰向けから上体だけ起こすと、獣の屍体から溢れる紅い液体が造った血だまりが目に入った。喉の渇きのためか、先程同様、紅い液体に葡萄酒を連想する。
何時だったか……十数年熟成させたという葡萄酒を口にしたことがあった。葡萄の当たり年に造られたモノらしく、持主が言うには「あまり長く置くと発酵臭で台無しになる」とのことで、この位が丁度いいと話していた。熱が入ったようにベラベラと説明を続けられたが、詳しい話は覚えていない。
だが、あの口にした葡萄酒——棘がなく、まろやかな舌触り、じわりと口内に染み込むように酸味と甘みを伝え、濃厚な葡萄の香りが鼻から突き抜けた体験は、忘れる事が出来なかった。故郷ではあの様な飲み物に出逢ったことがない……その味を思い出し、思わず、ゴクリと喉を鳴らした——それが、過ちだった。
〝ドクンッ〟
と、一際大きく鼓動が鳴る。
〝唖々、然ナリ然ナリ……啜レ啜レ、真紅ノ澱ヲ……〟
「しまッ——」
声が響いた。その声を聴いて、咄嗟に、左手に把持した懐剣を鞘に収めようとするが——
“求メヨ求メヨ、紅キ血潮ヲ! 渇キヲ潤シ、我欲を満タセ”
“血ダ、血ヲ寄越セッ! 血血血……”
時、既に遅し。
掌にある懐剣——いや、怪剣が咽び哭き、あるいは嗤っていた。
〝暴〟——と、一陣の風が吹く。
鋭い疾風を受けて、揺れる黒のフードに幾つもの亀裂が入り……霧散。視界が開け、隠していた己の顔が露出する。
夕日が注ぐ光を、キラキラと反射させながら揺らめくブロンドの髪、白い肌に埋まるこの碧い瞳は、大陸西方生まれの特徴であった。驚きに顔が歪むのが分かった。掌に収まる怪剣に視線を落とす。
風を起こした怪剣、日緋色金で鍛えられたその刃渡は一寸に届かず、鋒両刃造の白く輝く刀身の地肌は杢目のように渦巻き、刃文は波打つ涛乱刃。その美しい紋様が次々と形を変える。鍔は無く、柄が使い手の掌に合わせて不思議と形を変えると謳われる怪刀、名を——〝風切〟と言った。
先の時代、異世界からの来訪者とともに、人々が神と悪魔に闘いを挑んだ戦史の中に、その名はあった。東の果て、小さな島国にて、風を使役した赤眼の大鷲……赤目。
一度羽ばたけば、翼端から生じる旋風は嵐を呼び、鎌鼬を踊り狂わせた。時と場により、天風とも夜嵐とも呼ばれた彼の者。神と恐れられたその大鷲を討ち取った英雄は、己が懐剣で大鷲の赤目をくり抜き、風切羽を切り取って、自らの魂を依代にその懐剣に封じたという。
国を出る時、受け賜った守刀であったが、その使用に際して、言い伝えられていた詩があったのを思い出す。先祖、曰く——
風切に血を吸わせるな。
その強欲さに身体奪われ、己が魄を貪られるぞ。
風切の赤目を見るな。
その美しさに心魅せられ、己が魂を奪われるぞ。
警戒していたつもりだった。なのに、今まさに言い伝えられていた通りの状況になっているではないか。鞘と本体を握る両腕はカタカタと震え言う事を聞かず、刀身にある木目調の波紋は徐々に猛禽の眼を形造っていく。
「グゥッ……クソッ、黙れ!」
脳内に直接、風切に封じられた赤目の声が響き、視界が歪んだ。それを抑えようと自身に訴えるが、内に潜むソレは御構い無しに叫び続ける。目を閉じて、頭を振った。
〝足ラヌ……血ガ足ラヌ、血ガ足ラヌ!! 更ナル贄ヲ、贄ヲ捧ゲヨ!!〟
〝抗ウナ娘ェ、我ヲ受入ヨ、欲スルハ甘露ナ雫、甘美ナ香リ、啜レ——〟
「黙れぇェッ! 黙れ黙れ黙れ——ッ!」
叫び、指が傷付いても構わないと、目を閉じたまま己の感覚のみで、一気に刀身を鞘に収める。〝キンッ〟と甲高い、縁金と鞘がぶつかる音。
「ハァッハッハ……」
反響する金属音が徐々に消えていくと、その場に己の呼吸音だけが響いていた。そして、いつの間にか、赤目の声は消えていた。ゆっくりと、瞼を開ける。
赤、朱、紅、緋——眼前に広がる真っ赤な世界。そこに、己の顔が写り込んでいた。今まさに、欲していた血を手中に収める事が出来る、それを想像して愉悦に浸るその顔が……
思わず息を飲む。吸い込んだ息が鼻を抜けると、喉奥に、鉄の匂いと、獣の生臭さが広がった。そこで、ようやく現状を認識する。いつの間に移動したというのか? 動いたつもりなど、微塵もなかった。
いや、動く体力などもはや……なのに、先程まで倒れていた位置から獣の屍まで、いつの間にか移動し、それこそ獣の様に四つん這いの姿勢でその血だまりに顔を近づけ、嬉しそうに舌を伸ばしていたのだ。
「うッ!? ゲェェうェッ!」
吐き気が喉をえづき、耐えきれず嗚咽した。既に、胃の中に吐くものはない。口内に広がる酸味は胃液が逆流していることを知らせた。そこに——
「——おやぁ、これはこれは……ただの衛士かと思えば道理で、そういうことでしたか」
聴いたものをイラつかせるような、粘着質な声が聞こえた。ハッと顔を上げ、その声の主を視界に捉える。
「——ッ!?」
見上げた視界に、薄ら笑いを浮かべる男を捉え、私は戦慄した。
【用語解説】
◯風切
灰ノ国という国が誕生するより以前から、その地にあった赤眼の大鷲が封じられている懐剣。かの大鷲は神獣とされていたが、人の血を啜り過ぎた故に、自我を持つに至り、己の役割を忘れて思うがままに嵐を巻き起こして、人々に恐れられた。