白詰草1〜逃亡者〜
「ハァッ……ハッ……」
人の息遣い。大地を駆ける足音。疾走するその者によって、鬱蒼とした森に根をはる木々がかき分けられ、揺れる枝葉がザワザワとそこにさらに音を重ねた。
とはいえ、その音を発している本人には、己の心臓の鼓動しか聞こえていなかった。耳元でドクドクと、徐々に拍数を上げ続けるソレは、自身が極度の緊張状態にあることと、動き続ける全身の筋肉がさらなる酸素を求めていることを伝えていた。
“止まれ、動くな、休んでしまえ”
そんな言葉が脳裏をよぎる。そうだ……音は無い、姿も見えぬ。けれど、追ってきている。確信とも言えるその感覚に誘われるように、チラリと右手に把持した得物を見やった。
所詮はナマクラか……
片刃の刀剣。尺は片腕程。何の飾り気もなく、無骨な見た目は明らかに官給品。使い慣れた片刃だったから自ら選んだモノだったが、やはり、性能もある意味期待した通りで、それ以下でも、以上でもなかった。
現に、ここに来るまでに何度か交えた刃は、既に所々刃こぼれしており、あと何度か打ち付ければただの鉄の棒になってしまうのではないかと、疑ってしまうほどだ。
ふと、投げ捨ててしまおうかと思う。刀剣として意味を成さぬなら、捨ててしまえばいいのではないか。そうすれば、今よりも少しはマシに早く走ることが出来るのではないか。そう、自分に問いかける。
既に右腕の上腕二頭筋、三頭筋は悲鳴を上げ、乳酸の溜まった前腕の伸・屈筋は声を上げることすら出来ない程に疲弊し、よく剣を掴んでいられるなと自分自身感心していた。それに、駆ける脚はまるで鉛のように重く、一度止まってしまえば再度駆け出せるのか疑問だった。
だから、こんな状態で剣を大事に持っていたところで、まともに剣技を繰り出す自信など微塵もなかった。「捨ててしまえば今より楽になれる」そんな甘い考えが次々と頭に浮かぶ、が——
逡巡の最中、己の鼓動に混じり、微かに届いた不快な音……人の生存本能を刺激し”逃げろ”と身体に直接訴えるような人外が発する音が背中に突き刺さった。
ゴクリ、喉が鳴る——が、飲み込む唾液すら吸い込む空気ですっかり乾ききっていたことを再認識させられ、一層喉が渇いた。背筋を走る寒気を感じながら左右に頭を振る。
冷静になれ。
今、ここで自分を守ることが出来るのは己自身のみ。甘い考えは捨てなければ……そう、自らに言い聞かせ前を見据える。
視線の右側、木々の合間から微かに紅い光が差し込んでいた。日が地平線に沈もうとしている。このまま時が経てば、やがて夜が訪れるだろう……そう、現世の我々とは住む世界を異にする——常夜乃者
彼らが支配する〝夜〟が来る。ここで討たれようが討たれまいが、このまま森の中に留まれば肉は当然、五臓六腑、骨の髄、果ては魂まで奪われる。せめて、街道付近まで移動しなければならない。
心の中でそのように決心し、逃げる行き先を明りの差し込む右前方へ転換する。そして、森を抜けた。広がる視界。暗がりから急に出たためか、西日が眼に突き刺さる。思わず顔をしかめた。
「——ッ!?」
そして、白くぼやけながらも目の前に広がった光景に目を見張る。慌てて脚を止め、数歩たたらを踏んだ。角を立たせるように、編上靴のエッジを地面に抉りこませ、身体の重心を落とし、なんとか勢いを殺す。地面に転がっていた小石が、編上靴に触れて前方へ吹き飛ばされると、すぐ目の前で——消えた。
否、消えたのではない。数歩先の深い谷に飲み込まれたのだ。カッカッと数回、岩壁にぶつかる音。しかし、いつまでたっても地面に落下した音は聞こえて来ない。それ程までに深い谷ということか。耳を澄ませば、勢い良く流れる水の音が谷の岩壁にぶつかり、反響して大きな叫び声をあげている。
何故、気付かなかったッ!
意味のない事だが、己の未熟さを今更ながら呪う。水の音を聞き取れなかったこと、眩しくなると経験則で分かっていたのに、慣らさずに飛び込んだこと。たった、それだけ……その小さなミスが、自身を窮地に陥れる。
「チィッ!」
地平線に落ちる間際、一層明るく輝く夕日が、舌打ちするこの身を紅く照らした。地面に映る細い影。頭から腰元を覆う黒のローブが輪郭を曖昧にしているが、もともと華奢な体躯を更に弱々しく映し出す。
そして、得物を再び握り込み露出した手元……雪のように白い肌は、夕日を受けてか、あるいは皮下を流れる血流がそうさせるのか、桃色に染まっていった。視線を左右に走らせる。
……逃げ場はない。
何よりも、もう脚がほとんど言うことを聞かない状態だった。今日の朝までは、パリッと仕立て上げられていたはずの黒と赤を基調とした端正な制服も、一目見ればすっかり泥で汚れ、金属プレートと鞣した牛革を組み合わせた脛、肩、胸当ては、既にくすみ、傷つき、輝きを失っていた。
〝咆哮〟
ビクリと体を震わせ、前を見据える。
追っ手がすぐそこまで迫っていた。風に揺れる木々が、人外の叫びに怯え、ざわざわと騒ぎ出す。そのざわめきに教えられるように、慌てて、右手にあった片刃の剣……サーベルを握り直し、正眼に構える。
カチャリ、と軽い音を立てながら鈍く光るサーベルの刀身に、自身が着込む制服の胸章が写りこんだ。
荘厳な装飾が施された金盾に双頭の黒鷲、鋭い鉤爪に握るは未だ脈動するかのように紅い血を滴らせる心蔵。
西の大地に根を下ろす、君主制国家「ヴェルデ帝国」その君主へ忠誠を誓う紋章だ。こんなもの……と、思考を巡らせた時だった。二つの影が、木々の合間を抜け襲いかかってくる。
——速いッ
縦横無尽に駆け回り、距離を詰める襲撃者に必死に焦点を合わせる。大地を駆ける四本の健脚、己の身体と同じ程に長い尻尾が左右に揺れ、余計に動きを捉えづらくしていた。
やはり————狗型の獣かッ
黒い毛並み、体長は人の子より大きい程だが、口からはみ出る大きな犬歯……いや、牙と呼べるそれが唾液で濡れ光り、獰猛な獣だと主張する。道理で、と思う。
逃げるにあたって、欺瞞、罠、反撃とありとあらゆる術を駆使したが、一向に追っ手が消える気配はなく、執拗にこちらを追ってきていた。そこまで考えて、ハッと一つの憶測が浮かぶ。
何故、今の今まで〝一定の距離〟を保っていた?
欲に忠実な獣であれば、なおさらだ。追いつこうと思えば、とっくの昔に追いつけていたはず……まさかッ!?
ギャギャッ——明確な答えが浮かび上がるかという間際、二匹の獣は、合図を取るように小さく喉を鳴らすと、逃走者を挟み込むように左右に回り込み、大地を蹴り、挟撃した。
「くッ……ぉラァッ!!」
叫びとともに腕に力を込める。それは、およそ剣技と呼べるものではなかった。
身体を真横にひねり込み、もはやサーベルを握ることしかできなくなった腕を目測で、獣が飛びかかろうとしている方向へ出鱈目に無理やり振り回す。遠心力を得たサーベルが横一文字に薙ぐように半弧を描いた。
〝gyi——〟
一匹の悲鳴とともに手のひらに伝わる肉を裂く感触。血潮が宙に舞う。
やッ——!?
確かな手応えに喜びの声を上げかけた時、急に視界がゆれた。身体を支える両の脚が急激な動作に反応できず、ひざ関節からぐらりとバランスを失って地面に転がることとなったのだ。
「ぐぅッ!?」
その勢いを殺すことができず、二三地面を転がると、掌からサーベルが離れ、カラカラと軽い金属音を鳴らして持ち主と同様に地を転がった。
まずいッ……先の攻撃で屠れたのは一匹のみだ。慌てて立ち上がろうとするが腕に力は入らず。数歩先にある筈のサーベルが、ずっと遠い所にあるかのように感じて……
シタリ、シタリ……足音が鳴る。
視線を向ける。同胞を屠られ冷静になったのか、残る獣は、倒れた者の様子を見定めるかのように、ぐるりと周りを歩いた。視線が交わる……獣は、ニヤリと笑う様に牙を剥いた。気取ったのだろう。狙う獲物が、既に己を傷つける術を持たぬことに。
〝奇声〟
それは、喜びに打ち震えた獣の歓喜の叫び。粘度の高い涎を地面に垂らしながら、猛然と、獲物に覆い被さるように、こちらに飛びかかった。
「く、このッ!」
こちらの喉元に噛み付かんとする獣の首元に、何とか右腕を差し込み、噛み付かれるのをすんでのところで防いだ。とはいえ、このままではいずれ噛み付かれ、貪られるのは明らか。
こんなところでッ……
必死に何か武器となるものはなかったかと、左手で懐をまさぐると、指先に硬い感触が伝わる。
ッ……こいつは———
考えている余裕はない、これしかないのだと己に言い聞かせ、私は、手にしたソレを獣の首元目掛けて遮二無二振り抜いた。




