灰ノ国3~鬼喰人~
都市の一画に突如として響き渡った音。それは普段の、賑わいをみせる市場の活気ある喧騒ではなかった。意味ある言葉を成すことなく、ただただ鳴り響くそれは、恐怖にかられた人々の悲鳴であった。
美夜古京を横断する十の大通りの一つ、五番大横路の東端で、こちらに迫る人垣は、黒い濁流を思わせるかの様に波を打った。そして、統率されることの無い幾百の足音が、大地の嘶きとなって、重く、低く、周囲へ広がっていく。その振動が足裏を通じて身体に伝わり、都市景観と秩序、衛生面の保持のため、高度制限が設けられた各戸の瓦屋根の上を駆ける脚が、鼓動と共に速まった。
「馬鹿な……もう、二つ目の結界を破った?」
その光景に目を疑い、自然と言葉が漏れる。視界の端に巨大な妖の姿を捉えながら、あまりにも早い結界の突破に喉が鳴る。巫女と別れてから戦装束を身に纏い、寄り道せずに真っ直ぐこちらに向かってきたというのに、既に美夜古へ妖が侵入していたのだ。妖が寄り付けぬよう幾重にも重ねられた結界と楼閣を固める門兵達。過去に狂った低級怪異が近づいた事はあれども、それらが京内に侵入した……そんな話は今までに1度たりとも耳にした事はない。
横目に石畳の大通りに視線を下す。普段であれば活気溢れる市場の露店は、逃げ惑う人々に踏み倒され、何事かと自宅の小窓から様子を伺う人々がさらに加わって、馬車が複数台余裕で通れる筈の、あの大通りはこんなにも狭かったかと困惑した。そんな考えを巡らせながら人家の屋根から屋根へ飛び移り、最後の区画へ到達すると、目の前には星蝕之門から南北に伸びる堅牢な壁がそびえ立つ。
これを超えてくるか……
何がどうなっているのかは、やはり己の眼で確かめねば何も分からなかった。勢い余った速度を殺そうと脚に力を入れると屋根の瓦が割れて幾つかが吹き飛んだ。後で持ち主には総府から保障させよう、そんな事を思いながら視線を壁伝いに妖のいる方へ移すと、そこにあった光景に目を疑った。
土蜘蛛……いや、これはッ——
蟲の巨大さよりも、そこに視線が移る。
女人の怨霊を思わせる血の気の引いた面。それが笑いながら、己の周囲を囲む門兵達に牙を剥く。思わず……背筋に寒気が走った。しかし、結界を無理矢理破ったためか、身体の一部は溶解し、八本あったであろう節足は幾つか欠損していた。さらに——
「一人くらいはまともな兵士がいたようね……」
土蜘蛛の頭胸部に深々と突き刺さる一本の槍。つまり、真正面から妖に挑んだ者がいたという事だ。複数で囲み弱点を狙う対大型魔獣種の闘法とはかけ離れているが、勇敢な猛者か、それともとんだ阿呆か……既に食われたかもしれぬ槍の持ち主の姿を脳裏に浮かべながら状況を確認する。土蜘蛛を囲む門兵達は軽装兵士のみで、術士といった妖魔への有効な対抗兵力を持ち合わせておらず、槍の切っ先を向けながら何とか間合いだけを取っているような状況であり、いつ取って食われてもおかしくない。
「——う、うわぁッ!?」
案の定、恐怖に支配された悲鳴が響いたかと思うと、正面に位置取っていた門兵らが土蜘蛛の前肢で薙ぎ払われて、いとも簡単に吹き飛び、家屋の土壁に激突していた。統制が取れていなかった。指揮官はどこに、と周囲を見渡すが見当たらない。それに、星蝕之門には万が一の時のために「機巧人型」が配置されているのではなかったのか? そう思い至り星蝕之門に併設された楼閣に試験的に設けられた格納施設に視線を投げると、土蜘蛛の体高に匹敵する対大型魔獣兵器は白い膜状の物……蜘蛛糸で覆われて直ちに可動出来ぬ状態になっていた。それに肝心の操者も見当たらない。
「あれでは使えぬか……私一人では——」
逡巡の最中、凛……と、鈴の音が響いた。
ハっとして、その音の方角を見ると……逃げ惑う人々を背にしてこちらへ歩む人影が目に入った。異様な雰囲気。いや、圧倒的過ぎる存在感故に、周囲から浮かび上がっていたのだ。土蜘蛛の進行方向、美夜古の中心部からゆっくりと歩く五人の男、見れば、人の丈ほどもある大刀を携えた屈強な男が四人、細身の男を囲むように陣を組んでいた。どこかゆらりとした雰囲気、しかし隙の無い運足は足音すら鳴らしていない。その代わり——
凛……と、再度鈴の音が鳴り、全員が一斉に歩みを止めた。
いずれの者も、面を狐を思わせる面具で覆っており、表情は窺えない。四人の男の前頭部には、三枚の鉄板が組み合わされた重鍛造鉢金。肩から手の甲を覆うのは、要所に装甲が縫い付けられた具足で防護性と機動性を確保している。そして、胸部から腹部にかけて蛇腹のように積層構造を持ち逆三角形を形成する甲冑は、大陸で開発された銃砲による狙撃をも考慮したものだろう。その装備の全てが艶紫色と白色で統一され美しい流線型を持ち、従来の鎧甲冑とは一線を画していた。さながら美術品を思わせる佇まい。そして、そこに記された紋様が彼等の所属を明らかにする。
五枚の花弁のうち二枚が散る様子……華の限りある命の美しさを模写した『乱れ桔梗』。そして、黄金比を持つ『五芒星』……
「あれは……月魄院の衛士」
逃げ惑う人々、門の内側で土蜘蛛と対峙する門兵、その場にいた誰もが動きを止めた。その五人に視線を集めながら。
“ケヒヒ……キヒ?”
土蜘蛛も何かを感じ取ったのか、視線をその一団に飛ばす。
「ふん……雑兵では、束になっても土蜘蛛一匹すら墜とせんか?」
土蜘蛛と対峙する月魄院の衛士が見下す様な物言いでそう言い放つ。事実、見下しているのだろう、怪異を京内へ入れてしまった門兵らを。
「地方での小競り合いはあれど、大規模な戦闘など京の近くでは起こり得ぬ故……兵士の練度が低いのも当然の帰結か」
「何を他人事のように……」
「失敬、他意はない」
「……ならば、征こうか」
幾つか言葉を交わした後、前方の二人がグッと踏み出した片足に体重を掛けるのが見えた。それこそ、忽然と二人の姿が消える。否……縮地術を発動したのだ。長屋二軒分程もあった距離が一気に縮まり、土蜘蛛へ肉迫。しかし、まだ抜刀する気配は無い。対して、迫る脅威を気取った土蜘蛛は、潜るように接近していた衛士に前肢を降り下ろす。そして誘い込まれたかのように、そこに辿り着いた衛士の一人に一撃が落ちた。
質量に任せた単調な攻撃。
然れど、圧倒的な体格差が産み出す力の差は歴然としていて、鞭のようにしなる前肢が容赦なく衛士を圧し潰す。轟音と共に砂塵が舞った。衛士のいた石畳の路面に蜘蛛の巣状に亀裂が走って、雄叫びのような割れた音を辺りへ撒き散らす。それ程までに強烈な一撃。常人であれば肉片と化すものだ。そう、常人であれば——
相変わらずね……
一体、どちらが化物なんだか。
「ヌゥゥッ……ァァアッ!!」
受け止めていた。太刀を収める鞘の腹を土蜘蛛の前肢の爪に打ち付けるように上方に振り出し、迎撃。力が拮抗しているのか、双方の肢がガクガクと震えている。少しでも引いた方が一撃を受ける、と両者が認識しているのだろう。どちらも引かない。
「——そのままだ」
と、そこに……土蜘蛛と拮抗する衛士の頭上をもう一人がふわりと跳躍。土蜘蛛の前肢を駆け上がった。拮抗が崩れる。異なる動きをとる二つの脅威に土蜘蛛の判断が揺らいだのだろうか。何にせよ、力比べをしていた男はその一瞬を見逃すような凡夫ではなかった。
一瞬の力の緩みを利用して自身も身を引くと、太刀と土蜘蛛の前肢に僅かな隙間が生じた。その狭間で鞘から太刀を抜き、一閃。支えを失い崩れる様に接地した土蜘蛛の前肢を沿う様に剣閃が煌めいた。
「A゛Ahhaa————ッ!!」
悲鳴。土蜘蛛の前肢を成す外骨格が竹を割る様に縦に真っ二つに裂け、内側に収められていた赤黒い筋繊維が茶緑色の体液を撒き散らしながらウネウネと蠢めく。
反撃する間を与えず、その間に前肢の付け根まで移動していたもう一人が、関節の繋ぎ目を狙い太刀を振り下ろした。あたかも包丁で長瓜でも切り落すかのようにあっさりと前肢を切断すると、腱を断裂され節足の一本を失い体勢を崩した土蜘蛛が、叫びながら地に横臥する。
僅か数秒の攻防。
その間に、たった二人だけで妖を圧倒した男……月魄院の衛士達。皇国の要人を護衛する事を任務として、各地から集められた精鋭中の精鋭。家族との絆を断ち、愛しき者を持たず、その出地さえ己の記憶から消し去って、灰ノ国を動かす要人の命を守る為に、血の一滴まで国に献げた兵だ。
しかし、何故彼等がここに?
彼等の任務はあくまで要人の警護。任務へ影響が無ければ、眼の前で人が傷つけられようとも、殺められようとも、眉一つ動かさぬと、聞き及んでいたのに……いや、まさか————
不意に浮かんだその推論の確証を得ようと、先程確認した五人の中で、一人だけ異質な存在感を放っていた“細身の男”へ視線を向けた。衛士同様、胸元に「乱れ桔梗」の意匠が施された純白の装衣を身に纏っている。つまり、月魄院の所属である事を示しており、その中で衛士の護衛対象となる人物と言えば……官位は第五位、月魄院を統べる月頭にして、数多の鬼を封じ『鬼喰人』と呼ばれ都の民からも畏怖される存在——
「八十羅綴……世無」
他の祈祷師を動かさずに、月魄院の頭自ら、美夜古へ侵入した妖を討伐しに来たとでも言うのだろうか? 一体どうし——ッ!?
“Ahaa——イヤァァッ!……ケヒヒッ、アHa——!!”
泣き声、笑い声……横臥した土蜘蛛が残る節足を蠢かしながら、人の発するソレと同じ様に咆哮する。そのあり得ぬ光景に息を呑んだ。
なんだアレは……あれではまるで——
「——奇怪しいと……そうは思わんか? 覡の従者よ」
「ッ!?」
いつの間に……
不意に背後から聞こえた、ヒヤリと皮膚に突き刺さる様な冷徹な声。その声の主に当たりをつけ、先程まで“細身の男”がいた地点を見れば、そこにいるのは二人の衛士だけ……つまり、背後にいるのはあの男しかいない。土蜘蛛へ視線を移したあの一瞬で、音も気配もなくこちらの背後を取ったということか。その一方で、次の瞬間にはこの存在感を放っている……
「……奇怪しい、と申しますと?」
背後を振り返ることも出来ぬまま、なんとか声を絞り出す。脂汗が額、鼻筋からジワリと浸み出していた。
「いや、何……こうも易々と結界を破られるとは思わなんだ。それに……常世乃者は夜の支配者。人を狩るならば、より賢く狡猾に行う筈だ。この様な無策な方法は採らぬ。そうであろう?」
「……」
「見よ、あの姿。そして、あの声……醜いのぉ」
一体、背後の“鬼喰人”が何を言いたいのか判然とせぬまま、その声に導かれる様に土蜘蛛へ視線を戻す。屋根上から見下ろす土蜘蛛の背には、門兵から射抜かれたであろう矢が針山のように突き刺さり、関節部から捥げた節足の継ぎ目から体液を垂れ流す。最早、月魄院の衛士に刈り取られるのを待つばかり。あれでは、目的の一つも——
……?
不意に、チクリと何かが胸を刺した。いや、違和感だ。
人差し指を縫い針で刺した時の如く、心に開いた小さな穴は、その正体を探ろうと弄れば弄るほど、徐々に広がっていく。
何を見逃したのだろうか? 何度も思考を巡らせても、ハッキリとした答えは浮かんでこない。
けれども、この止め処なく溢れる焦燥感が「探せ」と容赦なく心を揺さぶり続ける。土蜘蛛を追う視線が、頭胸部に突き刺さる槍の柄に止まった。外骨格に穿たれた穴。その奥、口腔内にまで達する槍の先端が、上空から差し込む日光を時折反射させて、鈍い光を放っている。
「——ッ!?」
その光が私に答えを知らせた。背後の鬼喰人に気を回す余裕も無く、直ぐさまその場から“行くべき場所”へ足を向け、屋根を飛び降り、駆ける。
目的の一つも?
何を馬鹿な事を……そもそも、土蜘蛛が結界を破ってまでこの“美夜古”を目指した理由を、我々は知らないのだ。人を喰らう事が目的だと、勝手に推察していたが、鬼喰人の言う通り知性の無い低級魔獣であればまだしも、常世乃者と成り果てた土蜘蛛がたかが数人の人を喰らう為に、己が存在を賭してまで強力な結界を突破しようと考えるだろうか? いや、そもそも、この土蜘蛛は、未だ一人も喰らっていないのだ。生まれた違和感は、逡巡の最中に確信へと至り、残された僅かな時間の中で、私がすべき事を伝えた。故に、腰に据えた短刀に手をかけ、其処に飛び込んだ。
【用語解説】
〇機巧人型
灰ノ国の一人の天才的な人形師がヴェルデ帝国が保有する魔装機兵に触発されて造り上げた搭乗型の人型兵器。彼が造った原作は数えるほどしかなく、本人は既に他界しているため、暁月家では、それを元に制作された模造品の試験運用を近年始めたばかり。
〇月魄院
総府の機関の一つ。灰ノ国の他国に対する純粋な軍事的機関としては兵部省があるが、月魄院は怪異に対する対抗手段と要人警護のための機関として運用されている。機関の象徴は乱れ桔梗と五芒星。
〇月頭
月魄院を統べる役職。現在は八十羅綴世無がその地位に就いている。その能力は歴代月頭と比較しても飛びぬけており、灰ノ国の最高戦力とも云われる。数多の鬼を封じ『鬼喰人』と呼ばれ、都の民からも畏怖される存在。