灰ノ国2〜土蜘蛛〜
漆黒の下地に、深い群青色で描かれた猛々しい一匹の竜種。星喰と呼ばれたその神獣が宿るのは、鋼鉄と頑丈な巨木で組まれた両開きの巨大かつ強固な門扉……灰ノ国の総府「美夜古京」への入り口の一つ『星蝕之門』
其処に刻み込まれた、見る者を威迫する星蝕の眼が睨むのは、東方から迫り来る蛮人、悪鬼、疫、妖、魑魅魍魎……灰ノ国に牙を剥くあらゆる脅威だ。
事実、矢倉を兼ねる重層の楼閣には、門兵達が常駐し、怪異、妖を跳ね除ける呪いが幾重にも施されている。そして、京入りするには門兵による検身、検品を経て、問題無しと認められてようやく、その脇に設けられた別口から入れるという訳だ。
その門扉の前に我が身を置いて、はや四半刻……検査を待ち長い行列を成す商人、客人、京に住まう人々。そして、やっと自分の番——
「止まれィッ!」
——って、えぇ?
歩を進めようとしたところ、身も品も検める事無く、何故か喉元に槍を突きつけられていた。
「えーと、これは一体何事?」
両手を上げながら、理解できない扱いの理由を問うため、槍を向ける二人の門兵に訳を聞く。周りの者らも騒ぎに気付き、何事かとこちらに視線を寄越していた。
「どういう事だと?」
眉間に皺を寄せた門兵が、語気を強めて繰り返す。いや、繰り返されても時間を浪費するだけだから、簡潔に事由だけを説明して欲しいのだが……それを言うと、余計に場が混乱しそうなので、コクリと頷き同意を示した。
「貴様……その身なりで京入りするつもりか?」
「はぁ……まぁ、そうだが」
「何用で?」
「公務で」
「公務だとぉ〜? 言うに事欠いて、その様な解りきった虚言を吐くとはッ!」
え? 何故そうなる。
「見てみろ、貴様の格好を! どう見ても浮浪者の類だろうが!!」
そう言うなり、衛士は伝令用の馬が飲む水桶から、手桶で水を掬い、それをこちらにずいっと寄越した。仕方なくそれを覗き込むと揺れる水面に己の顔が映り込む。
ボサボサの髪、伸び放題の髭でハッキリとした人相は伺えず、身に纏う衣服も長旅でボロボロだった。微かに、体臭も放っているかもしれない……成る程、確かに公務を担う者には見えぬか。
「荷を改めさせて貰うッ! おいッ手を貸せ!」
周囲の門兵が集まり、自分からひったくる様に荷物を奪うばかりか、かつては純白に輝いていた外衣の内側に手を突っ込まれ、荷車で引いていた荷物までも乱暴に解きほどいていく。
「荷を検めるのは結構だが、あまり乱暴にすると——」
「ヒッ! ヒィヤァァァッ!!?」
果たして、門兵の一人から悲鳴が上がった。
「何だッ!」
「む、むむむ……」
「むむむ?」
荷の一つ。小壷の蓋を取った衛士が言いたい事をはっきりと言葉にできぬまま、ずりずりと後ろに下がる。
「むむむ……蟲だ!!」
ようやく発声。その途端、荷車に載せていた壺が転がり落ち、中からウゾウゾと小虫が這い出てきた。
「あ〜あ〜折角集めてきたのに……」
予想通りのその結果に落胆しながら、蟲に驚き一歩引いた門兵達に構わず、逃げ出した小虫を壺に戻す。
「これはまさか……蠱術ッ!? 貴様、呪術師の類か!!」
門兵に囲まれ、周囲の人々が悲鳴をあげる。それも当然か。蠱術の使役は大罪。図っただけでも打ち首は免れぬ禁忌の術。
前に二人、後ろに三人か?
うーむ、確かに壺、蟲とくれば蠱術に行き着くか……致し方無い。ここは一つ、土下座でもして——
渾身の土下座をかます寸前、肌を何かが叩いた。物ではない。霊圧が五感で感じられる程に乱れ、その波動が届いたのだろう。つまり——
「おっと……運が良いのか悪いのか」
「動くなッ!」
「構わんが、俺の相手をしてる場合では無いようだぞ……門兵殿?」
「貴様、何を言って——」
刹那、馬の悲鳴が後方から響いた。
「なッ!」
皆の視線が後ろに移動する。誘われるようにそちらを見れば、行商人の馬の脚が地中にどんどん引き摺り込まれていき、皮が、肉が、溶けるよう呑み込まれていった。列を成す人々から悲鳴が次々と上がり蜘蛛の子を散らすように四方八方に逃げ惑う。
「Pii——!!」
警笛の音が空にいた。
「あ、妖だッ!」
誰かが叫んだ。その怪異の正体を。土砂が走った。いや、妖が走っているのだ。礫を撒き散らしながらまるで海面を泳ぐ魚の様に土中を自由に走り回り、星蝕之門へ猛然と向かい始める。
マズイな……餓えている。
しかし、どうして? 本来なら寄り付けぬ筈……
「火矢だ! 火矢を放てッ——構えィィッ!」
楼閣の矢倉から声が聞こえ、思わず振り返った。その光景に目を疑う。門兵が一斉に弓を引き絞り、走る補助員が油の染み込んだ矢尻に、次々と火を付けていた。
「なっ! 止め——」
「放てッ!!」
こちらの制止を気に留めもせず、上官の掛け声と共に門兵の弓から土中を走る怪異目掛けて一斉に火矢が放たれる。
勢い良く放たれた火矢は、その黒い煤を放ちながら目標へ真っ直ぐに飛翔。しかし当たらず。土蜘蛛の進行を阻む様に土中に突き刺さった。行き先を阻まれた妖は、蛇行しながら尚も進行する。
「第二射——放てぇィィッ!」
しかし、急激な方向転換により速度が低下していた。そこに、さらなる火矢が放たれると、甲高い叫び声が轟いた。妖が身体に火矢を撃ち込まれ、悲痛の叫びをあげたのだ。
「やったか!?」
その様相に門兵達が賑やかになる。緊張が解け、皆々安堵の表情を浮かべていた。刹那——地表が爆ぜ、土煙が立ち昇った。楼閣よりも高く。
「ッ!?」
爆ぜる空気が、鼓膜を叩いた。その一瞬、馬鹿になった聴神経は、目の前で響いた筈の轟音すらも捉えられず、余計な眩暈のみを鈍く残した。そして、それと共に、妖が地表に姿を現す。
八本の節足。
その全てが成人を複数人繋げてやっとという程に長大で、強靭。
堅牢な節足に比べて柔らかそうな腹は、異様に膨れて土色の産毛に包まれており、頭部には女の髪の様に艶がかった長い黒毛。
その間からこちらを見据える八個の複眼。そして、それを宿すは——女人の人面
ぞわり……皆、息を呑んだ。何故?
いや、訳など明白。本来であればあり得ぬからだ。そう、これは……土蜘蛛と呼ばれる蟲の妖、人里近くに降りる事は稀である。そして、それが人面を有するということは——
「この個体、人を喰らったか」
道理でこの京に迫る訳だ。人の肝の味を覚えた妖は、狂った様に人を襲う。畜生や蟲程度では腹が満たされぬのだろう。こうなれば、もはや唯の妖に非ず。
「と、常世乃者……」
ポツリと門兵が発した。その言葉に答える様に、土蜘蛛の女人面……それを崩した異様な醜顔が——
“……ケタケタ……”
——嗤った。
“ケタ…………ケタケタ……ケタケタケタ………”
嗤う。嗤う。何が可笑しいのか、何に悦ぶのか……ぐりゅり、不自然に首を回し、尚も嗤う。その場にいる誰も彼も身体を動かせない。カタカタと身体を震わせるのみで逃げようとすらしなかった。動けば狙われる、そんな風に本能が身体に訴えるのだ。
「致し方無い……ここは——」
専門家に任せよう……そう、門兵に提案しようとした矢先、何かが脇を通り過ぎる。
「カヒュッ!?」
背後から漏れ出る様に聞こえた声。振り返ると、そこには蜘蛛糸に絡め取られた門兵の姿。土蜘蛛の腹部末端から射出された糸で、口元までも覆われてまともに呼吸すら出来ぬのか、驚愕の表情を浮かべて門兵は蜘蛛糸の先に視線を移す。その先に、大きな顎が待ち構えていた。
「ムワガァァぁぁああ——」
引き摺られる。言葉にならぬ叫び、その場にいる誰もが動けなかった。何故火矢を撃ち込んだのに効いていないのか? そんな疑問を恐怖と共に顔に浮かべている。
「チッ……だから、止めろと言ったのにッ!」
仲間が引き摺られて行く光景を、呆然と立ち尽くしながら見届ける門兵から槍を引っ手繰るように奪い、駆ける。
「あっ!? 貴様何を——」
「喰われたくなければ、黙って民衆を避難させろッ!」
一喝、それで我に返ったのか、門兵達は慌てた様に民衆を避難させ始める。蟲に火を用いるのは間違いでは無い。しかし、土蜘蛛は土に生きる妖。即ち、万物を燃やし灰と土を作る火の気は、中途な火力であれば奴を活性化させてしまう。ならば——
「フッ!」
短い発生と共に槍を振りおろす。引き摺られていた門兵の身体に纏う糸を断ち切り、口元を覆う蜘蛛糸を取り除くと、その門兵は貪る様に酸素を吸い込んだ。
「立てるか?」
コクコクと縦に頷く。
「ならば一人で走れッ! 次は無いぞ!」
ヘコヘコと立ち上がり、楼閣前の陣営に向けて逃げ出した。それを見送る背後で、
“いぃぃやぁああああ゛あ゛————!!”
土蜘蛛が叫ぶ。いや、生前の女の声か? 何れにせよ……そう、不快な声だ。
怒り狂っているのだろう。己の獲物を横取りされたことに。そして、バカリと三日月型に裂けた顎から鋏角を剥き出しに粘液を垂らして、八本の節足をワラワラと動かしながら猛進、突っ込んでくる。
——速いッ!
糸は衛士の槍で断ち切れる程度だった。それにこの動き……徘徊性の三爪類とみて相違無い。外骨格の中で一番脆いのは、やはり腹部。しかし、一人で背後を取るのは甚だ無理な話だ。となれば……
槍を構える。決して得意な得物では無い。
故に、好機は……この身を喰らおうと奴が鋏角を開いた時、その一瞬だ——
「来いッ! この身喰らいたければ、好きなだけ貪るがいいッ!」
吼える。土蜘蛛を挑発する様に。向かって右手、巨木でも倒れてきたのかと錯覚する程、太い前肢が振り払われる。その先端、針山の如く枝分かれした爪に槍の先端を合わせ——接触。
「——ッ⁉︎」
重いッ……なんてもんじゃないッ!
槍に沿わせて力を受け流そうと合わせにいった途端、ガクリと膝が折れ、槍の柄がありえぬ程に弧を描き歪んだ。
「——ッ!!」
押し潰されそうになる。その刹那、クン、と手首を返して、なんとか一撃を逸らした。振り下ろされた前肢がすぐ脇の地面に突き刺さり、大きく抉られる。痺れる腕を見やり安堵した。一瞬でもタイミングが遅ければ、槍は折れ、腕がもげていたかも知れない。
「あ、あれをいなすかッ!?」
「よし、俺たちも加勢して——」
“ぁ゛ぁ゛ぁあああアァァァ————ッ”
沸き立つ門兵達を怯ませるつん裂く様な悲鳴。それだけで皆の動きが止まる。土蜘蛛は地面を這うような低い姿勢に移行して、裂けた口元から巨大な鋏角を剥き出しに突きつけてきた。迫る凶刃はもはや目前、避けられぬ距離。しかし構わない。
くぱぁッ——と、鋏角が左右に開く。それを認識した時には、既にその鋏の内にいた。おそらく、瞬きの合間にこの身は半分に食いちぎられるだろう。故に跳ぶ。
槍の末端、石突側で地面を叩くと体がフッと浮かび上がる。太腿を引きつけるように身体を丸めると、その直後、硬い鋏角がガチンと音をたてながら閉じられた。獲物を逃した人面が悔しそうに顔を歪め、そこにある八つの瞳と視線が交わる。鏡面の如く滑らかな緑眼に、槍を振りかぶる我が身が映り込んでいた。
そうか、お前は——
「麗人よ、己が夢へ還れ……」
訳を悟る。だから、語り掛けた。槍を穿ちながら……
“ゔぁあぁああぁぁ゛ア゛——”
土蜘蛛自身の突進力も加わって、放たれた一撃は人面の眉間……土蜘蛛の頭胸部上方を易々と貫き、槍の先端は口腔内へと達した。悶絶する土蜘蛛が暴れ、緑色の体液が周囲に飛散する。
「おおっ!!」
「あの浮浪者、やりおるッ!」
いつの間にか観戦者と化していた門兵や行商人が青龍楼閣の手前で感嘆の声を上げた。
ちなみに、浮浪者ではな——
「いっ——とぉおお!?」
観戦者に突っ込もうとした途端、土蜘蛛が更に暴れ、空中に投げ出される。二、三度身体を空中で回転させると、ようやく姿勢が安定、自由落下の最中に、一撃見舞った土蜘蛛に視線を移した。
「なッ!」
言葉を失った。何を求めるのか、再度、狂った様に楼閣へ猛進。次々と飛来する矢をその身に受けながら、壁をよじ登り始める。
青白い雷光が爆ぜる様に幾つも走り、土蜘蛛の身体を焼き始める。不快な臭いが辺りに充満。美夜古京に施された結界が作動したのだ。しかし——
「おいおい……冗談だろう?」
着地して、体勢を直す頃には、結界に焼かれながらも既に城郭の縁を超え、京の内部へ侵入を果たしていた。先程の歓声が一転、悲鳴へと変わる。
「あぁ〜拙い、拙い、拙い、拙いぞッ!」
「美夜古京に妖の侵入を許したとなれば——」
「中務省と兵部省へ至急伝達、急げ——」
門兵達が慌て始める。それもそうだ。彼らが護る星蝕之門が破られたという話はこれまでに聞いた事がない。とはいえ、仕掛けた種が狙い通り働けば、土蜘蛛は間も無く果てるだろう。
「といっても……放っておくわけにもいかんか」
慌てふためく衛士を横目に、先程荒らされた自分の荷物をまとめて、足早に土蜘蛛を追った。
【用語解説】
◯星喰
暁月家がかつて従えた巨大な竜種。星を呑み込むほど大きいと云われたことから、この名が付けられた。
◯土蜘蛛
灰ノ国の山間部に生息する妖の一種。本来は人の大きさほどで、土中に潜り野生の獣等を襲う生態。