1-7 想いの夜更けに
第一章 辺境都市『ムサシノハラ』
宿部屋は長く続いた二階廊下の突き当りにあった。
大きなベットが窓辺にあり、整えられた清潔な白いシーツが眩しく見える。大きくはないが、洋風の凝った細工のあるチェストや、使い込まれた飴色のテーブルが、落ち着いて見える良い部屋だ。
この街ではそれなりの宿なのだろう。
「思っていたより良い部屋だね」
ライシャが背の荷物を下ろして、窓の木戸を左右に開いた。もちろん硝子は入っていない。この世界では硝子の板は貴重品だ。技術的な話ではなく、その素材の流通量そのものが少ないのだ。
窓からは泉の広場が一望でき、仕事を終えたであろう人並みが、正門から街の中心へと続いている。外周壁に突出した釣り鐘の塔が、夕の六つ鐘を鳴らしていた。
「こんな綺麗な部屋に入ったのは初めてだよ、なんか緊張するな」
妖狐の少女がくすっと笑う。
「大丈夫だよギジェ、ここには私しか居ないんだから」
いや、それもまた緊張するんだけど… ギジェでさえこういう状況が、男女にとって特別な空気感を持つことを知っている。
「そういえば、ライシャすごい荷物だけど何を買ったんだ?」
床に置かれた、はち切れそうな冒険者用の鞄を見下ろした。
「普段着とかかな… 鏡とか色々」
それは急に女を意識してしまった少女が、身なりを整えるための交々だった。可愛く見せたい乙女心の重みがそれらしい。
「とりあえずバックは収納しておいてくれる? あとは、明日にでも大型のトランクも買いたいかな」
そこでトントンと扉をノックする音が響いた。
「お食事をお持ちしましたー」
扉を開けると、質素なメイド服姿の猫人族の少女が、配膳台を押してやってくる。本物の猫耳だった。
黒くてライシャよりも若干硬そうな毛並みだ。彼女はテーブルに食事を並べると、珈琲セットだけを、離れたサイドテーブルに見栄え良く置いていった。
「どうもありがとう」
ライシャがチップに大銅貨を握らせると、素敵な笑顔で一礼してから去っていった。
「食べようか」
ギジェは少女の椅子を引いて座らせると、自分も対面の椅子に静かに着席した。
まれに見せる、こういう自然なエスコートを、奈落で育った彼がこなせるのが謎だった。
実際、義母には多少のマナーや社交ダンスの噛りまで教わってはいた。それは娯楽の少ない砦での、半ば遊びのようなものだったが。
妹の歌声にあわせて踊った記憶が懐かしい。
「けっこう美味しいね、この肉詰めが丸々入ったトマト煮もいい味よ」
「俺たち三食とも肉詰めを食べてるよな」
実際『ムサシノハラ』特産の肉詰めは、唐辛子入や、バジル入など、種類も豊富で調理方法も多彩だった。
「そうね、冷えたエールとか欲しくなるわ」
「頼んでこようか?」
「大丈夫、このあと湯浴みもいきたいから。そのあとで少し飲みましょう」
二人はテーブルに並んだ、草原ボアの香草焼きと、肉詰めのトマト煮とアスパラが多めの温野菜と、白パン2個を美味しく片付けていった。量も味も満足できる良い夕食だった。
「ボアは初めて食べたけど、牛や山羊と違って、油が多くて美味しいんだな」
彼は草原ボアの香草焼きが、特に気に入ったようだ。
「ギジェ… 肉詰めの大半がボア肉なのよ?」
「そうなのか! そうだったのか…」
何故か負けた感じで、テーブルに突っ伏す魔道士の背中が可愛かった。
二人は食事を終えると軽く珈琲を楽しんでから、部屋を出て湯浴み場へとブラブラ歩いた。
ライシャは湯浴み用に、キツネ耳隠しのためのターバンを巻いている。暖色に柔らかく染色された布地が、彼女にとても似合っていた。
宿から公園へと崖上をいくと、食べ物屋や飲み屋が並ぶ繁華街が見下ろせる。これからが一日で最も賑やかになる時間だ。
そのまま公園の路をいくと、外周壁の手前に石積みで囲われた区画が見えてきた。
「ギジェ、男湯は階段の下から入るのよ、番台で50銅貨を払うと手ぬぐいも貸してくれるから、湯浴みが終わったらこのベンチで待っててね」
「い、一緒に入ったら駄目なのか?」
魔道士がすがるような眼で訴える。
「絶対に駄目です!街中の女性を敵にする気なのかしら?」
ギジェは怯えた子犬のように、恐々と階下へと降りていった。
それを見送る妖狐の少女は「はぁっ」と小さくため息をつく。思わず母性の片鱗が目覚めてしまいそうだった… いや、多分もう目覚めてるのかも…。
何とか無事に湯浴みを済ませたギジェが、待ち合わせのベンチで涼んでいる。路に並ぶ数台のベンチには、恋人らしい何組かが寄り添って、楽しげに話をしていた。みんな湯上がりの待ち合わせらしい。
そうしてしばらく涼しい宵の風に当たっていると、湯浴み場の入り口から、ターバンの後を蝶結びに巻いたライシャが歩いてきた。
いつもと違う湯上がりの濡れ髪が、街の光を受けて艷やかに見える。片側だけでまとめた綺麗な金色の髪。その髪型が妹に似ていて、少しだけ胸が傷んだ。
「おまたせ」
ちょっと恥じらうように、上目使いで見る紅茶色の瞳に、どこか女の妖しさが潜んで見える。ライシャは立ちあがった彼の横にそっと寄り添い、濡れ髪を指に巻いて「いこっか?」と微笑んだ。
ギジェは何も言わずに笑顔を返して頷くと、いつのまにか指を絡めて、恋人の手繋ぎで歩いていた。
「ライシャ、いい匂いがするな?」
彼は金色の濡れ髪に顔を近づける。
「そう? いちおう石鹸を使ってみたの… 今日沢山買ってきたから」
ベリー系の甘い香りのあるオーリブオイルの石鹸だった。それなりに高級品だ。
「うん、果実のような甘い香りがするんだな」
「好き?」
「うん、好きな匂いだよ」
好きという言葉に慣れていなくて、少女はほんのりと頬を染める。
「そう、よかったー」
照れ隠しに繋いだ手を前後に振った。
こんな気持で男性に寄り添ったことなど一度もなかった。こんな穏やかな気持ちになることも初めてだ。
ギジェ、貴方はいつも温かくて、とても優しい…。
崖下から色々な食べ物の匂いが流れてくる。焼き肉に、油を沢山使った焼き飯に、大蒜を炒めた食欲をそそる香りの数々。
「この道を歩くと、色気より食い気になりそうね」
二人はゆっくりと宿までの路を散歩する。月の輪も鮮やかに輝く良い夜だ。
何という事はない二人の散歩道… けれど湯上がりの乙女は、ずっとこの情景を忘れない気がした。
何度でも思い出したくなる、穏やかで甘い時間だから…。
宿の受付でエールの小樽を頼んで部屋まで持ち帰った。二人はテーブルにエールを置き、つまみにエアレーの燻製肉を選ぶ。
窓辺とテーブルの二つのキャンドルが、独特の不安定さで部屋を曖昧に照らしている。
「あ、ギジェちょっと私の荷物を出して」
ライシャは満タンの鞄を器用に探ると、二個の曇り硝子のコップを抜き出した。厚めで丈夫そうなグラスだった。
「硝子のコップは珍しいな」
「エールならこういう透明感があるほうが、美味しそうに見えるでしょ? ギジェ樽ごと冷やしてよ」
彼は樽に手をかざすと、ゆっくりと冷気に包んでいく、あまり焦ると凍結させてしまうので、微妙な魔力加減が必要だ。
いい感じに霜をを吹いた樽から、グラスにエールを注いでいく。少なめだが表層が泡立って美味しそうだ。
「乾杯っ」
二人は互いにグラスを差し上げると、ぐいっと半分ほど一気に飲んだ。ライシャは少しだけ何かに想いを巡らすと、それは一瞬だけの憂いにみえた。
「ふぅ、湯上がりのビール最高ね!」
「ビール?」
「ああ、ごめん、妖狐の間ではビールって言うのよ。ギジェの氷魔法は便利よね、冷やすってこの世界だと難しいものだから」
「ライシャはお酒だと何が好み?」
「そうね、エールも好きだし、ぶどう酒も好きよ。ギジェがこないだ呑ませてくれた芋の酒も美味しかった」
「そうか、それなら良かったな… 帰りにエールとぶどう酒も多めに買っておこう」
次元倉庫に入れておけば、通常の十倍ほどの長期保存が可能なのだ。倉庫エリアの時間の流れが、表世界より遅いからだ。
「ほら、グラスが空だよ」
彼は良い笑顔でおかわりを注いでいく。ライシャがテーブルの下で、ギジェの脚をこつんと蹴った。
「ギジェって不思議よね… 何でも出来るのに、どこか危なっかしくて放って置けないのだもの」
「ははは、情けないかぎりだよ… ライシャが居ないとすぐに迷子だ」
ギジェも脚をちょいっと蹴り返す。少女が片肘をテーブルに付いた。
「貴方ならすぐに、何でも出来るようになるわ」
二杯目のエールで少し頬が赤らんでいる。長い睫毛で柔らかく微笑んだ顔には、少しだけ妖艶の色が混じっていた。
「でも、そうなったら少し寂しいかな…」
グラスに浮いた細かな雫を、すっと指先で静かに撫ぜる。
その時運命のような、気まぐれのような何かが、少女の背中を優しく押した。
「ギジェ… 貴方に逢えて私は救われたの」
言うつもりの無かった気持ちが零れてしまう。
「わたし本当はもう、死んでしまっても良いとさえ思ってた。多分、心が千切れる寸前だったの」
うつむいた視線はテーブルの上で彷徨っている。
「妖狐というだけで忌み嫌われて、しまいには顔に大怪我まで負って、きっと私はこの世界に嫌われているんだ、このキツネ耳は呪いなんだと思ったわ」
ギジェは優しい表情のまま少女を見ていた。
「でも貴方はそんな憂いを一瞬で消してしまったの。私の凍えきった世界は、貴方のくれたもので暖かく満たされたわ」
「うん」
「今はギジェの側に居れるのがとても楽しいわ… でも」
互いの素足が気持ちより先に触れ合った。
「でも… いつか、それを失うのが凄く怖い」
黙って聞いていたギジェは、椅子を引いて立ちあがると、少女に向かって手を伸ばす。
「おいでよ」
彼女の細い手を握り自分の胸に引き上げた。微かな石鹸の残り香がどこか切なく感じてしまう。彼はその華奢な身体を胸に収めると、壊れないように大事に抱きしめた。
「ライシャ… 君が好きだよ」
鼓動がトクんと音を立てた。
「君から離れるなんて考えられない… ただ、もう少し時間が欲しいんだ」
ギジェの言葉に涙が溢れる。
「……」
「妹がいたんだ… 名前はアーリィ。ずっと一緒に育った大事な子だった。俺を拾ってくれた家族は、誰一人血は繋がっていない。でも、ほんとうに暖かい場所で俺を守ってくれた」
「うん」
「そんな平穏の中で彼女と恋に落ちた。それもきっと必然だったのかもだけど… そして歪んでいたのかもしれないけれど、アーリィが奈落の毒素で死ぬまでの間、ずっと二人きりで愛しあった。心から彼女を愛していたんだ」
「…ん」
「彼女が死ぬ間際に言ったんだ、俺は仲間を探さなくてはいけない、愛する人達と巡り逢わなくてはいけないって…」
「…うん」
「すごく遠くまで旅をしたんだよ。孤独すぎてあの氷の飛竜まで造ってしまったぐらいに…」
そこでライシャの金髪を抱くように優しく触れる。
「でもやっと、やっと君に逢えた… 逢えたんだよ… 気持ちはとっくに君のものだから…」
少女は回した細腕で、彼をいっぱいに抱きしめる。胸が熱くて息が苦しい。
「でも彼女を失ってまだ一年… 気持ちでは半年しか経っていない。君を俺の全部で愛せるほど、たぶん割り切れていないんだ…」
少女は嗚咽をこらえながら、必死に言葉にする。
「それでも嬉しい… わたしはギジェの側に居ていいんだね?」
妖狐の少女は眼に涙を一杯にためたまま笑顔になった。
「君が居てくれないと、俺はいっつも迷子だよ?」
とたんにすっと抱き合ったままの二人が、体重を失って浮かび上がる。
「貴方の側でずっと待ってるから」
まるで羽毛のように舞い上がり、お互いが起こす風の流れで、ひらひらと髪や服が浮いている。蝋燭の火で揺れる影が、天井で踊るように揺れている。
「悪戯するなよ」
ギジェが苦笑しながら、互いを抱くように丸まった。
「だって… もうっ」
照れ隠しなのか、しばらくそうやって天井あたりを浮いていたが、ゆっくり高度を降ろすと、ベットの上に無事着地する。
白いシーツの上に横たわって互いを見た。ライシャが両手で胸にしがみつくと、きゅっとそこに顔を埋めた。
「それに、君は分かってないよ。あのとき俺の手を握ってくれた。離さないでずっと引いてくれた… それがどれだけ心強かったか、どれほど俺が救われたのか」
ギジェは柔らかな金髪を優しく撫でた。
「上手く言葉にできなくて、もどかしいけれど…」
「そうなの? わたしは貴方を救えたの?」
「ああ、あれからずっと君の暖かい手が好きだ。いつでも触れていたくなる」
少女はへへっと照れたように笑顔を浮かべる。
「んっもう、好きなだけ触るといいよ… 耳でも尻尾でも… だけど我慢できなくなったら責任は取ってよね」
「そうだね、もう少しこうしていたい。そしてもふもふは引き続き触りたい」
その瞬間、ライシャの柔らかい唇が自分に重なった。彼の黒髪を抱えるように、離さないような必死さで…。
お互いを確かめるように、何度も交互に求めあう。
んっ… んんっ
繋がれれる手と指と乱れる金色の髪が、シーツの上で重なっている。
絡んだ互いの舌と吐息が、交互に零れて音を立てた。初めての、熱くて深くて少しお酒の香りのある口付けだった。
「キ、キス… ぐらいは良いよね?」
火照った顔で伏目がちに、妖しい表情の少女が言った。
「そうだね、ライシャ」
ギジェは彼女の熱に浮かされ、久しぶりに情愛が沸きあがってくる。それを抑えるように、ライシャの背を後抱きにした。
腕の中の小柄な妖狐が振り向いて再びキスをする。
今はそれだけで幸せだった。この甘い熱さを抱きしめていたかった。
話す勇気のない秘密がお互いにまだ残っているから…。