1-0 旅の終焉 プロローグ
第一章 辺境都市『ムサシノハラ』
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貴方は再び飛び立たなくてはいけない。此処を巣立っていかなくてはいけないの。愛する仲間を見つけ出さなくてはいけないわ。
そんな人達に巡り逢えるのを信じてください。君ならきっとそんな出逢いにたどり着けるわ… 必ず… 必ずね…。
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奈落の森にあった砦の村を出発して、六ヶ月が過ぎていた。いつの間にか季節は霜月に入り、彼は最後の難関だった、奈落の縁を踏破していた。
天を翔ける氷の翼竜の背に居て尚、青年は寒さを全く感じていない。それはこちら側の西方世界が温暖なのか、彼の持つ魔力の結界によるものか、更には、もっと人に言えない、何かの理由によるものかは分からなかった。
「スポイル、凄いぞ、見渡す限りの白砂の砂漠だ…」
一見して雪原に見間違うほどの、真っ白に広がったその砂丘は、白亜質の石膏から成っている珍しい砂漠らしい。
濃い群青に近い黒髪に、氷底のような深い蒼玉色の瞳の青年は、名をギジェと言った。
細身で締まった筋肉質な体格は、180cmを超える長身だ。風になびく麻色のローブの上に、黒皮コートを羽織り、首の太めの十字架の首飾りが、一見して聖職者風にも見えた。
彼は長い氷の首を撫ぜながら、守護者である氷の翼竜に話しかける。それは死霊魔術で甦えらせた骨龍に、無理やり氷で肉付けした、彼の作品のような存在だった…。のだが、なぜか臆病な性格に生まれてしまい、残念という、名前通りの残念すぎる命名になったのは、つい最近のことだ。
無垢な存在のはずの守護者は、翼を広げれば十数メートルもある巨体で、子犬のように駄々甘えする仕草に、すぐに情も移ってしまった。
視界は、一片の霞さえ無い完全なる晴天に、見渡すかぎりの純白の砂丘が輝き、美しいハレーションを起こして見える。
奈落の縁を超えてこちら、残り物世界と呼ばれる、この世界特有の複雑怪奇な地形が続いていたので、シンプルで雄大なその景観は、どこか懐かしさを感じさせた。
更に幾刻か飛行を続けると、白砂漠のど真ん中に、まるで目印とでも言いたげな、不思議な巨石群がそびえ立っていた。高さ百メートルにもなる、細く不安定に立ち並んだそれらは、石灰岩が浸食されて出来た自然の石柱群だった。
ギジェと氷の翼竜はその頂に着地すると、見渡す限りに続く白一色の砂漠を眺めて時間を忘れてしまった。
夜には澄み切った夜空に煌めく満天の星々と、月の虹色リングを砂に映して、七色の影を伸ばす幻想的な光景に見入った。
また夜明けには紅の朝日を浴びて、明るい朱色に染まる美しさに、日中にはピュアホワイトの砂丘と晴天の青色との対比に心を奪われた。
この自分専用の高見台で、静かに雑草茶を楽しむこの瞬間に、やっとのことで奈落から開放された事実を実感できたのだ。
晩秋の霜月とは思えない、柔らかく頬を撫ぜる風と、強すぎず繊細に包み込むような暖かい日差し。あれほど厳しかった自然は、いつの間にかずいぶんと優しくなっているようだ。
そんな巨石群の頂上でくつろぐ、青年と氷の飛竜の姿を、遥か遠方から観ている気配があった。それは黒い翼で真っ青な空に浮かび、ピンク色の綺麗な唇で妖しく微笑みを浮かべていた…。
◇
ギジェが巨石群の直上で、次元倉庫と呼ぶ、空間魔法による無限収納へと、野営道具や食料の整理を整えた、二日目の午後。
「どうしようか、もう一日ここで野営するか?」
彫刻のように固まっていた氷の飛竜に話しかける。スポイルは主に向き直ると、どちらでもという感じに小首を傾げた。
何故そんなに可愛いんだ、おまえさんは…。
「えー わたしー それは困るんだけど?」
気づいた時には、彼女は目前で仁王立ちで浮いていた。
「えっ、ええ?」
突然と視界に現れた赤に近いピンクの髪の少女。
ゆるふわの長めのボブヘアーに、薄くて下着が透けるほどの赤のカクテルドレス姿で、歳は十六。七に見える。背には大きな蝙蝠の翼が羽ばたいているのが気になった。
「ご、ごめん、はじめまして、き、君は誰?」
突然すぎる人との会話に、赤面して思いっきりどもる青年。身長はかなり低く完全に子供を見下ろす視点だ。何より人と会話するのは、いったい何時以来になるのだろう?
「ふーん、あなた結構いい男なんだね」
スッキリと切れ上がった紅い瞳に、アイラッシュのような長いまつげが、気の強そうな笑顔を浮かべている。とん、と巨石の上に降り立つと、背の翼が黒い粒子となって消えていった。魔力による実体化だったらしい。
「それじゃっと…」
いわゆる小悪魔的でage嬢系美少女が、まるで似合わない腰の細剣をすらりと抜いて言う。
「私って弱い男みると、すごーく虐めたくなちゃうから、頑張ってねー」
その瞬間、彼女から闘気が湧き上がり、鋭い突きの連打がギジェを襲った。困った表情を浮かべて瞬間移動で後方に移動する。驚いて眼を丸くする少女。さらに笑顔を大きくすると、風のように滑らかに間合いを詰めて、多連撃の突き攻撃を放ってくる。超連撃のスピードファイターのようだ。
よっと横に身を捻って避けるギジェ。すきを与えずに、鋭い細剣の連打突きを追加して攻め込んでくる。広くはない石柱の天部で、右回りしながらの殺陣を繰り広げていった。スポイルは中央で伏せをしたまま、お昼寝状態だ。
その決闘剣術の美しいフォルムは、赤いドレス姿と相まって気品さえ感じさせた。
「ごめんな、あまり人と話したことないから、気に触ったなら謝るよ」
ギジェは、右に斜めにと身を翻して突きを躱し、最後は後方にバク転しながら、足刀で細剣を蹴り上げた。
「あら、いいのよ。私の我儘だからー」
彼女は蹴られた剣の勢いのまま、後ろに飛び退いて距離を取ると。
ー加速火炎弾多連ー
ピンク髪が浮き上がり、無詠唱の炎の砲弾が十発ほど頭上に並ぶ。
「スポイル!」
十の炎弾が一瞬で打ち出される。射線に飛び込み主を翼で守る氷の飛竜。連爆する爆音と熱で、世界が歪み巨石がグラグラと激しく揺れた。
「あ…」
魔法を放った直後の少女が、ギジェの腕に抱えられていた。細剣を持った右手首は、彼の手で押さえられている。
顔と顔が触れるほどの距離で、少女の勝ち気な瞳が柔らかく微笑んだ。
「いい感じね。ぐっときたー」
燃え上がった炎が四散すると、スポイルはまた中央で顔を伏せて寝てしまった。特にダメージはないらしい。
たぶん手加減していたのだろう。魔法の規模にしてはマナが少なかった。
「本気ではなかったね… それでも、こんな攻撃的な火魔法は初めてだよ」
二人はそのまま動かない。
「ちょっとむきになっちゃった」
ちらっと悪戯ぽく舌をだす。
「あなた何者? この辺りでは見ないけどー 私はシルクよ。結構、猟奇的って言われるから注意してね」
シルクと名乗った美少女は、からかうように彼の頬に手を触れる。
「た、たぶん旅人? 奈落から来たギジェです、黒魔道士やってます。よろしく」
そこでピンクのゆるふわの髪に手を添えると、そっと唇にキスをした。んっ… とシルクの身体が強ばると、そこで互いに身を寄せた…。
「って! ちょっとー!」
彼女は力任せにギジェを担ぎ上げると、スポイルに向かって投げ飛ばした。痛っ、と呻いて床に転がる魔道士の困惑顔。見た目によらず凄い豪腕だ。
「ちょちょちょっと!いきなり何キスしてるのよー 信じらんない!あんな軽い挑発に、素で乗ってくる男は初めてだよ!」
シルクは真っ赤な顔になって、肩で息をしながらうつむいている。攻められるのは苦手らしい。
「あ、えっと… すいません。なんかそういう挨拶なのかとおもって… あまり人と接したことないんだ」
「接したことないって! というか… 奈落から来たの?」
ギジェは座り姿勢から、ひょいっと片手をついての逆立ち起き上がりを披露した。
「ああ、ずっと奈落で育ったんだ。君は人生で五人目に出逢ったひとだよ」
シルクは「何ってこった」と呟いて、やっぱり床を見下ろしたままだ。
奈落と呼ばれる世界の半分を占める大穴は、標高七千メートルを超える、巨大な外輪山に閉ざされていて、その内側を知るものは誰も居ない。禁断の不可侵領域というやつだ。
「人が生きていける世界では無いはずだよね? あの山脈の向こう側は、真っ赤に燃える火炎地獄というのが定説なんだけど」
「いや、そこまで酷いと、俺は此処に居ないとおもうよ…?」
立ち上がった魔道士は、彼女の照れて年相応にみえる顔を覗き込んだ。
「それより、本当にごめん。初対面でキスとかはしないんだな?」
「あ、あたりまえでしょ!」
もう、そんなに近づかないでよ、っとギジェの顔を手で押し返す。猟奇的発言はどこにいったのだろう?
「普通は初対面だとどうすればいいんだ?」
「えー、悪い気がしないなら、握手とかじゃないの?」
「なんだ… 普通に握手でいいのか」
そう言ってシルクに手を差し伸べる。彼女はちょっと躊躇してから、んもう!っとその手を取った。
「ここって私達一族の隠れた墓所なのよ、本殿は砂に埋まっているけどね」
「え? お墓なんだ、ごめん。あまりに綺麗な場所だったんで、知らないとはいえ… 長居してしまって」
自分が墓石の上でくつろいでいた事を知って、慌てて立ちあがる。
「ここが墓所だとは誰も気が付かないわよ、どいてくれれば大丈夫だから」
「ようするに邪魔だったんだね…」
そこでギジェは如実にイジケて涙目になった。えっとシルクは何度目かの驚愕の眼差しになる。
「邪魔というか… 人に見られてはいけないのよ」
「ああ、わかったよ。直ぐに立ち去るから… というか、この辺りに人の住む街はあるかな? あと海というのも探してるんだ」
嫌われたわけではないとわかって、少し安堵してから、最も聞きたかった質問をした。
「何も知らないんだね。ここは『星降の白砂漠』って呼ばれて、普通は誰も近寄らないわ。砂の中に人食いミミズとかも居るしね」
シルクは赤いドレスの裾を風になびかせて、砂丘の先を指さした。純白の砂漠に彼女のシルエットが映えて美しい。
「ここから日の沈む方角に真っ直ぐ進めば『輝きの海』に行き着くわ、距離は… 徒歩で十日、その氷の龍ちゃんで飛べば一日で着くかな」
スポイルは自分の話をされたのが分かったのか、ひょいっと首をもたげて少女を見ている。
「あ、海には間違っても入ったらだめよ。輝きの海は海獣の巣窟だからね。そこから海岸沿いに南に降りると、小さな三角州があって河が流れている。そこを遡れば、迷わずに辺境都市『ムサシノハラ』に辿り着くはずよ」
「おおっ、ついに海に… ううっ… そして街、初めての街だ」
ギジェがちょっと感極まって涙を浮かべると、えっと再び困惑するシルクの困り顔。
「そ、そこまで嬉しいもの?」
「子供の頃からの夢だったんだ… 人の住む街。あと海にも約束があるんだ」
「そか… まぁ、わたしも『ムサシノハラ』がホームだから、また逢ったらよろしくね」
すっかり小悪魔になりそこねた少女は、遠くを見るギジェの横顔を、少し火照った眼差しで見つめていた。
危うく変な落され方をするところだったわ…。 シルクは心でそう苦笑する。
黒魔道士… 戦を終わらせる魔法使いねぇ…。
氷の翼竜が冷気を纏って上昇していく。ギジェが騎乗から手を上げると、シルクは指でVサインを作って、そのまま砂丘へとバク転しながらダイブしていった。
シルクさん… それやると、おパンツが丸みえだからね…。
黒にレースの縁取りを、しっかり脳裏に焼き付けてしまった。
そうして、しばらくすると、土魔法らしい、巨大な砂の竜巻が立ち上がり、巨石群が砂塵に霞んで見えなくなった。
「西方の人世界では、威力の高い魔法は使われてないんじゃないの?」
あんな強力な魔力を持つ娘が、普通に居るなら考えを改めないといけないな。俺は人世界の事を何も知らないのだから…。
◇
シルクと別れてから野営を含めて一日半、ようやく縫い合わせた大地が、後方に飛び去っていった。
『星降の白砂漠』が途切れた先は、まるでおもちゃ箱のような世界だった。
あらゆる土地が模様を描き、流れるような細帯の形から、渦を巻いたり、放射状に伸びたり、石畳のように並んだかと思うと、どんどん細かくなっていったりと。千差万別の模様世界だった。
上空から見下ろしていると、針葉樹で作られた巨大迷路にも見えた。
そしてその境界に湖水が入り込んで、その複雑さは何かの意図さえ感じさせた。
「これこそが、義母が言っていた入れ替わり大地なんだ。確かに… 徒歩じゃキツイにも程がある」
そんな模様の合間には、数多くの遺跡が見えたが、森や湖水の中に埋もれて、地上からでは、とても行けるような場所ではなかった。
それは昔々のこと、まだ世界に神が居た時代、二つの次元世界が衝突して、互いの一部が入れ替わりを起こした。
それは何故か、複雑で多様な模様となり、その直後、神の世界の終焉の大災害が、大地を蹂躙していったらしい。世界の大半が、その時一度滅んでいるのだ。
その入れ替わりの時に、偶然に文明の少ない部位が集まったのが、残り物世界と呼ばれる、こちら側の世界だった。
そうして騎乗する氷翼から背を伸ばせば、複雑怪奇な大地の先に、輝く水面のラインが見えてくる。それはどんどんと大きさを増すと、やがて視界の半分を占める、広大な水たまりになっていた。
「凄い… すごすぎる」
まだ高い太陽の光を受けて、うねる波が光を返して輝いている。海辺は美しいマリンブルーの珊瑚の海で、空と海の境界が同じ青色に溶けて、あやふやになっていた。
ギジェはスポイルに命令して、その南国の渚に降り立った。
南は長く続く白い砂浜に、北側は緩い弧を描く入江になっている。入江の周りは少し高さのある崖で、その崩れたあたりが岩場になって波飛沫をあげていた。
「不思議な匂いがするな、生臭いような、塩辛いような」
初めての磯の香りには、命の魔力が感じられた。
少し入江の方に歩いていくと、その崖上にあった森が、実は岬の上に完全に乗り上げている、木製の難破船だとわかった。マストも帆もとっくに無く、全体を草と苔と木が覆っていて、まったく違和感を感じなかったらしい。
大きな木造船を見るのも初めてだったが、それが陸に乗っているのが不思議な光景だ。いやそれとも本当は、こういうものなのだろうか? 実際に動いている船というものに興味が湧いた。
ギジェは足元に寄せては、帰っていく波が面白くて、ずっと眺めていた。一度も同じ波はなく、何回に一回は大きく寄せて足元を濡らした。
魔道士はただ渚に立って、水平線に沈む夕日を眺めていた。朱色の太陽は波間に身を映して、大気と海洋を一つに燃え上がらせる。こんな劇的な日の入りは初めてだった。唐突に色んな想いが溢れてくる。
生まれてからずっと、旅をしている気がしていた。あのマグマの海以来、西に進むことはいつも自分の中にあった。
砦での優しい日々さえも、過ぎてしまえば一時の幻のようだ。大切な家族や、大好きなアーリィでさえ、まどろみの中で見た、夢の出来事のように感じてしまう… そして悪夢にうなされて目覚めれば、再び西方に向かうしかなかったのだと…。
- ギジェ、わたしの代わりに海を見つけてね -
「違う、みんなそこに居たんだ。側にいてくれた、こんな俺を愛してくれたんだ! 俺は約束を果たしに、この西の果までやってきたんだから」
この海岸こそどん詰まり。先には輝く海しか見えず、大陸はここで本当に終わっている。そう… ここが終着点のひとつだった。
凄いよ… 見ているかい? これが海だよ…。
ギジェは次元倉庫から、愛しい彼女の遺髪を静かに引き出した。
口元に近づけて唇を触れさせる。僅かに懐かし妹の匂いがした。
そして濡れた浜辺にそれを降ろすと、そっと寄せる波間で手放した。
「ここが約束の海だよ」
引き波が彼女の髪を運んでいく。それは青い濃淡に呑まれて、やがて珊瑚の海底に隠れて見えなくなった。
一筋の涙が頬を伝い、そして浜辺にぽつりと落ちた…。
ギジェが奈落に捨てられて、どれだけの時間が過ぎたのか… いまやっと、彼の長すぎた旅が終わろうとしていた。そしてそれは新しい始まりにもなった。
これは、神を失った黄昏の時代に出逢った彼らの… 何故か残念で、少し乱暴で、けれどとても愛らしい、六賢者の大切な物語…。