初の夫婦喧嘩をする場合
次の日、夕食後のお茶を飲みながらくつろいでいるとハンスがぼそりと云った。
「明日からパラシーボに行ってくれ。王大后様のところで子供産むんだ」
「突然何を云い出すの、ハンス? 私はこの森であなたの帰りを待つつもりよ」
「だめだ」
「チュールもジョーシーも妊娠してるの。でもこの森で冬を過ごすのよ。どうして私だけが姫様面してパラスのやっかいになれるの?」
「どうしてもだ」
「あなた、船をとりに一週間留守にするだけなんでしょう? それとも違うの? 北の国から戻らないつもり?」
「船が難破しても意地でも戻ってくる。だがおまえはパラスのところにいくんだ」
「今日のハンスどうかしてる。全くわけわからない。北の王女さまの迎え入れで、あのお城は今忙しいに違いないわ。そんな時にやっかいかけたくありません。まだまだ臨月でもないのに、私、納得いかないことはできません」
「オレの云うことが聞けないのか。勝手にしろ!」
急造の丸太小屋のドアをバタンと閉めてハンスは出ていった。ひどくイラついて怒っているのはわかったが、何故急に他国の王城に居候しろなどと云い出したのか想像がつかない。ピオニアはうっすらと大きくなったお腹を撫でながら独り言をいった。
「ハンスにはハンスの考えがあるのはわかってるつもり。でも大抵のことは理解できるし、わからないと云えば説明もしてくれた。話してくれて納得いかないことなんて今までなかった。でも今度はなぜか何も云ってくれない。難産になりそうだと先生に云われたのかしら? そんなことないわよねぇ、私の赤ちゃん。あなたはこんなにいい子だもの。お腹の中でトクトクいってる。私の鼓動なのかあなたの心臓が動き出しているのかはわからない。でも、私の中に確かにあなたがいる。私は毎日感じてる。どんどん大きくなってる。私は母親になろうとしている。この子を守るためなら何でもできる気がする。だから、ハンスが少々怒ろうが私は恐くないわよ。私はもう姫様じゃない。木こりの嫁が森で子供を産んで何が悪いのかしら?」
食後の後片付けを済ませてベッドを整えてもいっこうにハンスは戻ってこない。こんなことさしてあるわけではないので、ピオニアはそっと小屋を出てみた。
あたりはもう真っ暗になっている。広場の焚き火が男たちの盛り場なはずだ。
ピオニアは足元に気をつけながら、でも灯りは持たずにそっと木の間を縫うように広場に向かった。
「おや、ハンス、姫様のお迎えだぜ」
「姫様? 誰のことだ。そんな女知らないぜ」
遠目に見ても夫が酔っ払っているのがわかる。酔ったハンス、ラドローが酔ったところなど想像もつかなかったが、クエヌの肩に手をかけて笑い興じているのは確かに自分の夫だった。
傍にいたラーメが立ちあがってピオニアに近づいてきた。
「姫様、ハンスのめんどうは僕たちがみますから、安心して先に休んでください。大事な身体なんですから」
「ハンスがそう思ってくれると嬉しいのだけれど」
「ラーメ、そんな女でよかったら、子供ごとくれてやるよ。どっかに連れてってくれ。酒がまずくなる」
ハンスは火のそばでわめいている。
クエヌが薪の燃えさしを一本拾い上げてピオニアに渡した。
「おまえら、オレと飲むよりその女の方がいいのか。姫様、姫様っていい加減にしてくれよ。オレは姫様なんか大嫌いだ」
「姫様、ハンス相当酔ってますから気にすることないですよ」
クエヌが耳打ちした。
「でもあれがハンスの本心なのかもしれないわ」
ピオニアは淋しく呟くと、ラーメに伴われて丸太小屋へ向かったが、うちには帰らず、アンナの家へ行くことにした。




