落城する場合
ダダーーン
温度の上がった枯れ木と冷水がぶつかり衝撃音を発した。
「ジンガ、皆を船に誘導してくれ。再燃する前に急いで」
「大丈夫だ。焦るな。皆、船に向かえ。地下は滑るから押しあうな。心配ない。十分時間はある」
ジンガはさすが、落ち着いている。
「あ、それから地下道の扉の鍵をくれ」
ハンスの依頼をジンガは即答で却下した。
「だめだ、これはオレが閉める」
「いや、それはオレの仕事だ。おまえは皆を安全な場所に導く義務がある。それが大統領だ。オレがこの戦いの鍵を閉める。一歩早いか遅いかの違いだ。鍵をよこせ」
「いいんだな?」
「ああ。ピオニア、船で待っていてくれ。後から行く」
「私も後から行く」
「だめだ。おまえも元姫なら率先して子供たちを船に連れていけ」
十分に油を吸った枯れ木の火を消すには酒樽十本の水では足らない。あちこちでぷすぷす燻っていたのが、風に煽られて再度発火した。
「火の手が上がった。窓には近付くな。熱で割れて破片が飛ぶことがある。足元気をつけろ」
二列になって中央階段を二百人が順次降りていく。騎士の間、大広間と執務室があった二階、広い玄関ホールのある一階。レーニア城は敷地から左右に分かれた大仰な階段で玄関に入るので、台所や風呂のある階は地面と同じ高さだが、半地下階と呼ばれる。そして台所横に酒蔵に降りる、鉄の地下道扉がある。
今まで地下道に入ったことがあるのは、ハンスを除けばフルク、フォント、ピオニア、ジンガと船大工仲間くらいのものだ。皆はおっかなびっくり足を進めた。
酒蔵は三十人くらいは収容できる広さだが、その先は大人一人がやっと通れる、狭いジグザグ階段となり、地下へ地下へと降りていく。ダンジョンと呼ばれる地下牢があるはずだが、目をやる余裕はない。何度折り返したか、どちらが北でどちらが南かわからなくなった頃、地下水路横に行きあたる。自分たちが飲んでいた井戸水の源だ。壁からはぽたぽたと水滴が落ちている。石段がなくなりなだらかな下り坂に変わる。目を上げると、遠くに光明が見える。南岸の鉄格子戸だ。
ぎぃっと開くと目の前は海だ。広い紺碧が百八十度以上広がっている。暗い地下道を抜けてきた皆は「うぉーっ」と声を上げた。潮の香りがぐっと胸をつく。
青い海に三隻の大きな船。この船の何と頼もしいことか。
ひとりずつ、フルクが張ったロープ伝いに崖を降り、浜に待っている三隻の小型船に乗りこむ。青い札を持った百二十人が大型船、赤札五十人がメルカット型船、黄色三十人が中型船、それぞれのはしけとなって行きつ戻りつする。家族が揃うのを待ちながら、浜で砂や水の感触を楽しむ子供たちもいた。
ハンスとジンガは手分けして、逃げ遅れたものがいないか上の階から見て廻っていた。がちゃーんと大きな音がして、二階中央ステンドグラスが割れた。三階にはもう煙が立ち込めている。ハンスもマスクをしないではいられなかった。
ふたりはほとんど同時に地下道扉前で顔を合わせた。そこにはまだ三十人ほどの行列が残っている。
バリーンとあちこちで窓の割れる音がする。
「火が収まればヤツらが乗り込んでくる」
ハンスが呟く。一刻も早く全員が酒蔵内に入り、地下道扉に施錠してしまいたい。
あと四、五人というところで、人の流れを逆行する者が出た。クエヌのおかみさんだ。
「どうした?」
「チルンがいないんです。お兄ちゃんが、ケーレが連れて先に降りたんだと思ったら浜にもいなくて……」
母の声は悲痛だ。
「建物の中にはもう誰もいない」
「中庭だ! チルンは山羊のめんどうをみていたな?」
「ええ」
「ハンス、急げ」
「わかってるって」
台所の目の前にはポタジェに出る勝手口がある。ハンスはすぐ飛び出した。幸いなことに中庭には火も煙も達していない。
「チルン、チルン!」
「やあ、ハンス」
チルンは繋がれた家畜の傍に座り込んでいた。
「もうみんな船に乗ってるぞ、チルンも行こう」
「でも山羊の赤ちゃんが」
「そうか、ついこの間生まれたんだよな。名前はつけたのかい?」
「ぼくはエルって呼んでる」
「そうか」
「エル連れてっちゃだめ?」
「船には乗せられないな。お母さん山羊と一緒じゃ場所がないんだよ」
「エルだけは?」
「そしたらお母さん山羊が悲しむだろう? ほら、この紐を解いておこう。そうしたら庭の草全部食べることができるし、城の外の芝生にも出られる。草がなくなるまでに、帰ってこよう」
「ほんと?」
「ああ、ほんとだ。チルンもお母さんが心配してる。船へ行こう」
「うん、じゃ、エル、ぼく戻ってくるから元気でね」
ハンスは右腕でチルンを抱きかかえ、中庭を横切り、地下道扉へ走った。中央階段のほうから煙がどんどん流れてきている。
煙の向こうに人影が映る。
「逃げ隠れせず、さっさと降参せよ」
ルーサーの声だった。
ハンスは扉の前でチルンを抱き下ろした。
「チルン、この階段をゆっくりゆっくり降りていくんだ。そうしたらお母さんが迎えに来てくれる。暗いけど、ひとりでいけるな?」
「ハンスは? ハンスはこないの?」
「オレは昔の友達とおしゃべりしてからいくよ」
「じゃ、ぼく待ってる」
「だめだ、ふたりっきりで話したいんだ。チルンひとりで大丈夫だよな?」
「う、うん……」
「もう大きいもんな。よし、じゃあいけ、ゆっくりだぞ」
「うん」
チルンは壁に手をつき、一歩一歩降りて行った。
ハンスは鉄扉を閉めると外側から鍵をした。そして鍵自体は勝手口から中庭に投げた。




