敵が本気になった場合
レーニア落城、です。
翌朝、メルカットからやってきたのは油壺を載せた荷馬車二台と、王様用野営テント一式やら家財道具一式かと思わせる荷物を積んだ馬車を従えた、馬上のルーサーだった。
彼にとっては、作戦成功し次第ピオニアを助け出し、目を覚まさせるのが目的だ。
メルカット兵は昨日とは比べ物にならない勤勉さで、合わせて六本の橋を架け、どんどん枝を持ち寄った。夜のうちに落としておいた、濠の中の枝を拾う者もいる。
「やっとしかるべき、多勢に無勢の様相を呈してきた」
ハンスは胸騒ぎを感じながら屋上に上がった。もしものときは左腕の包帯を解いて弓を持たねばと思ったが、そんな余裕はなかった。
メルカット軍はレーニアからの矢をものともせず、短時間で城の周りを焚き木だらけにし、持ちやすい革袋に油を入れ、次から次へとかけ回った。何人かはレーニアの弓矢を受け負傷しても、全体の人数が多くて目立たない。弓矢隊も的が絞れず、あれよあれよといううちに「燻製」の準備ができてしまった。
「消火活動に集中しよう」
ハンスは気をとり直してフォントに声をかけた。
「はい」
メルカットの火矢が打ちこまれる。油の力を借りて木々はばっと燃え上がった。
離れたところでみているルーサーは子供のように手を叩いて喜んだ。
しかしレーニア側も慣れたものだ、屋上からざあっと大量の水を落とし、消し止めてしまった。水蒸気が一面に立ち昇る。
ルーサーの目には、一旦見えなくなったレーニア城が、陽炎の中に揺らめいて見えた。湯気が拡散するにつれ、城の威容が頼もしく立ち現れる。まるで、「びくともしない」と主張するかのように。
「何だ、あれは」ルーサーには突然何が起こったのかよくわからなかった。
「火はどうした、もう一度つけないか!」
と叫ぶ。デルスは
「これでよいのでございます。敵は消火の度に水を多量に使います。籠城は水が切れたところでおしまいというのが定石でして」
「いや、確かにそうであったな。また火を点ける時には呼んでくれ」
そう云ってルーサーは王様用テントに身を隠した。
午後になってすぐにまた水撒きをしなくてはならなかった。バケツリレーでまた水を汲む。
フォントとジンガとハンスは顔を見合わせた。
「この調子だと、明日からは飲料水を撒かなきゃならなくなる」
「飲み水は外に撒くより船に積みたい」
「そうだな、潮時だろう。ルーサーを呼びよせておいて手を緩めることはないだろうから……」
心配げなハンスにふたりは笑った。
「明日出航だね。レーニアは海の民、ハンスも慣れてよ」
「ああ、努力する。手紙の返事は来てないままだよな?」
「残念ながら、ランサロードも北の国も沈黙だ。まあ、郵便を届ける方法がないのかもしれんが」
「とりあえず、サリクトラ沖を廻ってランサロードへ向かってくれ。投錨してハイディに上陸許可を求める。色よい返事でなければ北へ行く。国境すぐの港につけてくれたら、オレがオルディカに交渉するから」
「わかった。フォント、フルクと相談して水積んでくれ。それからハンスは姫さま貸してくれ、家族が分かれないよう、船の人数割りを考えたいから」
夕食後大広間でジンガは、明日城を離れ船旅に出ることを告げた。大型船、メルカット型船、中型船三隻に分かれるので、青、赤、黄色のカードを配り、船に持ち込んでいいものを指定する。そして明日の火攻めは激しいだろうからマスクを携帯するように念を押した。
メルカットの次の攻撃は空が白み始めると同時に始まった。
「敵が油を撒いている!」
相手はもうのん気な兵士たちではなかった。国王に見守られ、メルカット国を背負った戦闘集団に変わっていた。
ハンスはベッドの隣で飛び起きたピオニアの手を掴んだ。
「ちょっと待て」
「どうしたの? 行かなきゃ」
むくりと起き出してピオニアの肩に腕を廻し引き寄せた。昨夜もう包帯などしている状態じゃないと言い張り自由にしてもらった左腕だ。痛みもある、筋肉も落ちたのか心許ない。好きな女を抱きよせるためだけに使うのなら、どれだけ幸せだろう?
「愛している。オレは何があってもおまえを、愛している」
「ここ二、三日、ずっとそんな調子ね」
ピオニアは笑いを含んでハンスを見上げたが、その瞳は余りに真剣で悲しげだ。
「ハンス……」
キスが降りてきた。時間に抵抗するかのように長く、長く。
「何があってもあなたを愛しています。どこにいてもあなたを待っています」
ピオニアが囁くと、ハンスは頬に手を当て、親指で睫毛に触れた。
「オレの姫さんの瞳……。よし、いくか」
ハンスはにこっと笑うといつもの明るい表情に戻った。
ふたりはそろって屋上に駆け上がった。
矢をつがえながらハンスは、用意された木切れがいつもより少ない気がした。一階の窓にも届いていない。
――焦っているのか?
だが思う間もなく敵陣にデルスの姿を見つけ、迎撃に忙しくなった。太腿に包帯を巻いてはいるものの、しっかり足を踏ん張って屋上まで矢を届かせてくる。
「決して怪我をするな。南岸に船がくるまでの辛抱だ。逃げる時間を稼ぐだけだ。いいな」
ハンスは皆に叫びながらデルスを狙った。が、やはり普通の弓では届かない。強弓を手にしたが、命中させることはできなかった。
油撒きは終わってしまったようだ。メルカット兵は濠の向こう側、矢の射程圏外に戻っていく。そして一列に並ぶと火矢を一斉に打ちこんだ。
しゅわっと火が広がる。白煙が上がったが、やはり規模が小さい。ハンスは不審に思いながらもフォントの水撒き号令を止めなかった。
ざばーんと、いつもよりハデに水は撒かれた。これが最後だとの思いがレーニア側にある。
「よし、地下に降りよう。そのうちに船も着く」
「だめだ、ジンガ。フォント、もう一度水撒きだ。井戸からも庭からもごっちゃでいい、水を汲め。皆、マスクをしてくれ。ヤツら、陣の中に乾いた木を用意してやがる。それも相当な量だ。油も沁み込ませ済みだろう。くそ、ルーサーにしてやられた」
ハンスが捲し立てる間にもメルカット兵たちは王様の家財道具と見せかけていたテントからどんどん枯れ木を運び出した。濡れた燃えさしの上にどんどん積み重ねている。
「今火を点けられたら、皆ダンジョンで酸欠になる。二百人があの狭い石段を降りるんだ、岸壁に出られるまでの時間が要る。時間が要るんだよ!」
ハンスの叫びに皆は黙ってバケツを運んだ。屋上の酒樽に水が満ちない内に、メルカット軍は枯れ木を配し終わり、デルスが高笑いを響かせながら火矢を打ってきた。
ずわっと屋上の空気が揺らめいた。同時にパキパキパキと、乾いた音をたてて黒煙が立ち昇ってくる。炎は二階までを覆い尽くしている。
「フォント、城内の者に窓を決して開けないように伝えて。水は内側のキルトにかけるんだ。これを徹底しないと炎が城内に入り込んで退路を断たれる。頼んだぞ」
ハンスの言葉がフォントからバケツリレー隊を通して各部屋の消化担当者に行き渡った。
「OKでしょう、そしてこれで水も一杯です」
フォントの言葉に
「よし、水撒けぇーっ」
とハンスが大号令をかけた。