フルクがもたらした束の間の休息
翌日は朝から雨だった。ピオニアは城内にフルクの姿がないのを気にした。
「まだ戻ってないみたいなの。何かあったんじゃ……」
ハンスは
「敵陣でお昼寝してるんじゃないのか?」
と取り合わない。
「恋敵だから冷たいの?」
「いや、心配ないから心配しないだけ。頼りになるってわかってるから」
「それが冷たいっていうの」
「違うよ。アイツはオレがするだろうことをしている。疑われないなら油が使用可能かどうか見極めたいだろうし、指揮官の怪我の状態も知りたい。何かやってるよ」
城外の敵は、濠に落ちた丸木橋を引き上げ、枝を抱えた兵士がぱらりぱらりと姿を現すようになった。だが雨の中だ、油なしで火が点くものでもない。のん気なものだ。
それを見てハンスも、「今日一日は腕を休ませてもらえそうだ」と安堵していた。
フォントが云うには地下の井戸の水位が戻ったらしい。これも朗報だ。
昼過ぎてフルクがダンジョン経由で戻ってきた。潮の匂いをぷんぷんさせている。執務室で顔を合わせたピオニアは
「漁にでも出てたの?」
と訊いた。
「まあそんなもんかな。お土産があるんだが、鉄格子のとこに置いてきたんで、三人くらいで取りに行ってほしい」
テームたちが地下へ降りていく間にフルクは、仕入れてきたニュースを報告した。
「重曹作戦は、まあうまくいったんだ。朝みたら油の表面がピーナッツバターみたいになってて、ヤツらはそれをこそぎ落とそうとしてた。油として使えそうなのは合わせて甕一個分かな。それで伝令が出て、もっと油持ってくるらしい。指揮官は足引き摺ってるが、元気だよ」
「雨だからって敵は何してるんだ? いくらなんでも静かすぎだろう?」
ジンガが訊いた。
「ああ、城の周りは手があいた者だけ枝運び。みんな林の中にいる」
「何をして?」
ハンスが焦った声を出した。
「橋を作ってる。丸木橋をもっと。レーニアの弓矢隊は人数が限られている。メルカットが一斉に濠を渡れば矢にあたる確率も低い」
「その通りだな。怪我しても頭は働いてるってわけだ」
「心配するな」ジンガが云った。
「朝方船大工仲間で東の湾に行ってきた。大型船、メルカット型船、中型船、どれも万全だ。保存食を積みこみ始めた。直前に飲料水を載せる」
そこへテームたちが顔を出した。
「さすがフルクだよね、皆の欲しいもんわかってる。ありがと、夕食楽しみにしろって料理当番さんから伝言」
「おお、海の味だからな。ほんとは岩牡蠣でもと思ったんだが外してる時間がねぇ。ニナ貝ならつまんで集めるだけだし、皆に行き渡るだろ?」
「貝を食べるのか?」
「ハンスはお初か? ちっちゃな巻貝だよ。潮の味ってオレたちの元気の素だからな」
ハンスはただ微笑んでピオニアに目配せした。
「な、頼りになるだろう?」
とでも云いたそうに。
午後は見張りの者以外、皆、ゆったり過ごした。
ハンスは雨の音を聞きながらピオニアを横抱きにしていた。
「離したくない」
ピオニアがアンナの手伝いに行くと云っても譲らず、右腕を緩めなかった。新婚夫婦らしくお互いを確かめあうと、ハンスは睡眠不足のせいか、深い寝息をたてて眠ってしまった。
夕食時ももう終わり頃になってハンスは目が覚めた。ぼうっとしたまま食堂に足を向ける。食堂と呼んでいるのは台所の隣の旧配膳室で、半地下になっている。自分たちが寝室にしているピオニアの弟の病室も同じ階だから、城の真東から真西に廊下をぶらぶら歩くだけだ。
食事の列の最後の家族が席に着くところだった。
「ハンス、起きたのね。私も一緒に食べるから待ってて」
給仕をしていたピオニアが笑顔を向けた。
「綺麗な女だな」
と全く他人のような感想がハンスの胸の中に湧いた。おたまを手にしてジュードにおかわりの汁をよそっている。そんな何の変哲もない、日常的な動作が眩しかった。
「やっぱりこの女が好きだな」
今度は心の奥から言葉が浮かび上がる。剣も持てば矢も放つ。鍬も振るえば針仕事もする。働き者だからいいというんじゃない。こだわりなく自分の役割を見つけてするりとこなしてしまう、その決意と覚悟が好きなんだろう。
――弱虫の癖に、甘えたがりの癖に、よく頑張っているよな。
「ハンス、嫁さん見ながらにやにやすんじゃないよ、気持ち悪い」
食事中だったパーチのかみさんが冷やかした。
ピオニアはハンスが、知り合って間もないころのあの温かい、ラドローの瞳をしているのに気付いていた。
――戸惑ってしまうほど優しい視線。この目の中に私は生きている。
けれど、ジュードのおかわりのスープをこぼしそうになって、ハンスから目を逸らしたのだった。
「さて、ハンスお待たせ、腹減っただろう」
パーチ一家がテーブルを離れた。ピオニアはパーチのおかみさんと給仕を交代し、ハンスの横に座った。
「このスープの味、大丈夫? フルクの取ってきた貝の味なんだけど」
「ああ、美味いよ」
「よかった。落ち着いたらあなたの故郷の味も習わなくちゃ」
「一緒に行くことになるんじゃないか、この城を離れたら」
「そうなの? じゃちょっと楽しみだわ」
「おまえ、お気楽だな」
「そりゃあもう、あなたがいるもの」
食後、夜陰に乗じて橋や枝を濠に落とす以外、この日はすることがなかった。




