アストリーの森では
ラドローが恩人のアストールに、ハンスになった経緯を話します。
ハンスはまっすぐアストリーの森へ向かった。
また水芭蕉の季節がきていた。白く清廉な花は今もピオニアを思わせた。
――この花のように白いベールに包み込み大切にしまっておきたい、オレの隣に置いておきたい、望みはそれだけだったのに。
そんな思いを払い捨てるかのように首を振って、ハンスは森の奥に進んだ。
「止まれ。それ以上入ると打ち殺すぞ」
前方の木の上で矢をつがえてねらっている者がいる。
「とりついでくれ、アストールにあいたい」
「何者だ?」
「ランサロードの森の住人と云ってくれればわかる」
「怪しいやつ。そこを動くな」
ひとりが森の奥に走っていく音がした。
しばらくして野太い声が近づいてきた。
「ラドロー、おまえか?」
「そうだ」
「死んだと聞いたが生き返ったのか?」
「亡霊のようなものだ」
アストールは手下に矢をおさめさせた。
ふたりの間の距離は縮まっていったが、先にラドローが立ち止まった。
「どうした、遠慮はいらぬ。おまえの森ではないか」
「オレはこんな顔になっちまったんだ」
ラドローはフードを下してみせた。
手下の中には「ひっ」と驚いて顔を背ける者もいたが、アストールは動じなかった。
「死ぬよかましだ。聖燭台会議に弟が来ていると聞いて俺たちなりに調べたんだ。顔が変わりゃ見つからないのも当然だ。こっちへこい。朝飯はまだなんだろ?」
ラドローにとってアストールは年令の近い叔父さんのようなものだった。というのも五才のとき、父と一緒にメルカットを訪れ、退屈なパーティを抜け出し街に出たところを盗賊団にさらわれ、アストールに助けられたのだ。
その時すぐに父のもとに帰ればよかったのだが、アストールとの生活がいたく気にいって、三年もアストリーの森に住みついていた。国では両親が長男の誘拐に生きた心地もしなかったということだ。ある日ラドローは何事もなかったかのように「ただいま」と国元に帰ってきた。
アストールとはその後もこっそり会っていたし、特に聖燭台会議にひとりで来るようになってからは二、三日話しこんでいくのが常だった。
火の前に座って、ラドローは自分が朝から何も食べていなかったことに気づいた。鶏のスープが身体の芯に沁み通っていくようだった。
「さて、何から話そうか」
お腹が落ち着くとラドローは口を開いたが、アストールに自分の恋の話をするのが妙に照れくさかった。
「何からでもいい」
「一言でいえばルーサー王の暴挙を止めて欲しい」
「それだけじゃわからん」
「話が長くなるぜ」
アストールは「構わん」と笑ってみせた。ラドローの病痕は顔全体に広がっているわけではなかったので、照れていると容易に知れた。
「覆面の騎士を知っているか?」
「聖燭台に来てる小柄な、そうだ、一度おまえと一緒にいるのを見たことがある」
「そいつがピオニア姫だった」
「知ってて近づいたのか?」
「いや、気づいた時にはもう惚れてた」
ラドローは一番云い難かったことを先に云ってしまえてほっとした。
「ルーサーと果し合いして済むことならそれでよかったんだ。だが、どっちにしても、メルカットはレーニアに攻め込んでくる。オレはそれを見過ごせない。ラドローとして対抗すれば聖燭台諸国中が混乱して、今まで築いてきた均衡も平和も無に帰す。ピオニアは領民を捨てることができない。それでオレが国を捨てることにした」
「王族ってのは恋愛ひとつで国とか領民とか考えるのか、うっとうしいことだ」
「ああ、そうだな。オレはレーニアに行きたい一心で北方の旅の帰り、姿をくらますことにした」
「北の国境が決まれば政は父上と弟御で十分だもんな」
「もともと椅子にふんぞりかえっているのは苦手なほうだし、晴れて自由の身と思ったんだが、行く先々で知ったヤツらを見かけて、のんびり街を歩くこともできない。北部戦線のために徴兵制を敷いて、一緒に戦ってきたからな、国中の若い男たちとまあ、顔見知りな訳だ」
「全員ではないだろう?」
「任期を短くしてぐるぐる交代させてたから、かなりの人数だ。知り合い具合の濃い薄いはあるが、例えばどこの酒場に行っても、ひとりくらいは隊長とか皇太子さまとか王子とかって頭を下げてくるヤツがいる。ランサロードだけじゃない、パラシーボからひきもきらず、追っ手がやってくる。顔見知りがいる限りは、オレはランサロードの王位継承権をもつラドローなんだよ。オレがレーニアに婿入りしたんじゃ、聖燭台同盟諸国中を挟撃できる、他国への脅威ととられ兼ねない。ただの木こりか森番でいい、別人になりたい。この顔を壊さなきゃピオニアのもとに行けないと思いつめた」
「自分から進んで病気になったというのか? 死ぬかもしれないのに」
「健康な若者がそう簡単には死なない治療法があるんだ。パラスのところの医者が知っている。オレは救急病院の死体運びの仕事につき、この病気を手に入れた。二週間専門病院に入れられたが、医者たちは見事に治療してこの程度の痕で済んだ。だが、これだけで、顔を隠すには十分だった」
「誉められたことじゃないぞ。望まないで病に倒れる人のことを考えろよ」
「ルーサーがピオニアに手をだしたらオレは病で死んでいく人々より不幸だと思った」
「勝手な考えだがそうするしかないと思ったんだな?」
「ああ、そしてレーニアに渡った。それが去年の十月のことだ。あの島にいると対岸のルーサーが巨人に思えてくる。力ずくでピオニアを奪いに来ないことが不思議でたまらない。それほど惚れているとよくわかる」
「しかし、ルーサー王ももういい歳だ」
「そう、レーニアを潰してでも姫を手に入れたいと思っているところにオレの噂が入った。流れ者の木こりを城に住まわせてよろしくやっていると」
「ばかだな、城にしけこんでたのか?」
「寝食をともにしていたわけじゃない。一応は営林大臣という役職についていた」
「ラドローだと名乗ったのか?」
「いや」
「じゃ、姫は流れ者のおまえを大臣にしたのか?」
「そうだ。レーニアとはそんな国だ。戦争に船が必要なら船大工が参謀長官になる。畑作農家が兵站部長になる。いずれルーサーは攻めてくる。それがオレのせいでちょっと早まっただけだ」
「いつになる?」
「ここ一週間だろう。島の守りは固めてきた。オレはメルカット東海岸に隠されている船の軍備を見に行く。それから食糧調達を考える」
「兵糧攻めになるとみているのか?」
「そうだ」




