うそつき鏡さんと魔女・マチルダ
「明日こそは飛べるようになるわ」
まだ若き魔女・マチルダは家に帰ってくると、鏡に向かって傷だらけの自分の姿を眺めそう呟いた。マチルダというのは、まだ半人前の小さな小さな魔女であった。世界中から集まった魔法使い達が住んでいる、南側に美しい湖を持つ町。その片隅に、燃えるように真っ赤な髪の毛を持つ彼女は一人で暮らしていた。
魔法使いと言えば世間一般で知られるように、不思議な杖や箒を用いて……たとえば空っぽの皿に、熱々の”焼きそば”を一瞬にして作り出してしまうなど……奇妙な力を持っているものだ。
ところがこのマチルダときたら、普通の魔法使いが独り立ちする年齢を過ぎても、焼きそばどころか空を飛ぶことすらままならない。彼女が杖を振っても、不思議なことなんて何も起きやしない。おかげで彼女は町の至る所で物笑いの種だった。マチルダもマチルダで、どこかぼんやりとしたところがあって、町の人達に言い返しもせず、うわ言のように同じ言葉を繰り返した。
「明日こそは飛べるようになるわ」
もちろんそんな言葉は、だーれの耳にも届きはしなかった。
マチルダは毎晩決まって顔いっぱいに擦り傷を作り、体中血だらけになって帰ってきた。帰ってくるたびに、空を飛べるはずの魔法の箒はボロボロになって形が欠けていった。とてもじゃないけれど見るに耐えない有様だったので、ある日、かわいそうになった魔法の鏡がマチルダの顔を鏡の中だけでキレイにして、できるだけ『見栄え』のするように写してあげた。マチルダは魔法の鏡が写す、怪我ひとつない偽りの自分に言い聞かすように、毎晩こう呟いて眠りについた。
「明日こそは飛べるようになるわ」
そう言っていた彼女の声も、日が経つに連れだんだんとか細いものへと変わっていった。時には目を泳がせ、何も言葉が出てこない夜もあった。
そんな主の惨めな姿も、包帯でぐるぐる巻きにされた魔法の……はずの……箒も、家の鏡は全部写していた。ある晩などあまりに酷い落ち込みようだったので、かわいそうになった家の鏡はマチルダの顔を鏡の中で元気にして、できるだけ昔みたいに『やる気』のあるように写してあげた。鏡の中だけで元気な彼女は、虚ろな目をしたまま、やっとの思いで声を絞り出した。
「明日こそは飛べるようになるわ」
もちろんそんな言葉は、だーれの耳にも……残念ながら鏡にすらも……届きはしなかった。
マチルダは毎晩、飛べない体を引きずって、鏡の前で『飛んでる』自分の姿を見たがった。うそつきな魔法の鏡の中に写る、大空を舞い上がる偽りの姿を熱心に眺めながら、彼女は必死に痛みに耐えていた。何せその頃には、既に傷口は乾く間も無く新しいのが出来上がると言った具合で、彼女の体に血が滲んでいない所は無かった。家の鏡もとうとう心配になって、ある晩、いつものようにボロボロになって帰ってきた彼女に、ありのままの姿を写してみせた。
「偉大なる魔女・マチルダ様。このままでは貴方の体はボロボロになってしまいます。見てごらんなさい、貴方の顔を。ばんそうこうで半分埋まってるじゃありませんか。見てごらんなさい、貴方のちっちゃなちっちゃな手のひらを。この一ヶ月で、どれほど手相の線が増えたことか」
さらにうそつき鏡は、出かける度に小さく変形していった箒も正直に写してみせた。このままではマチルダが、本当に死んでしまうのではないかと心配になったのだ。マチルダはしばらく鏡に写された『本当の』自分の姿をじっと見つめると……そのまま黙って寝室へと引っ込んでいった。
とうとう彼女は、鏡の前で『明日』と言わなくなった。
「やれやれ。これでマチルダ様も、魔法が使えないのに空を飛ぶだなんて、無茶な真似しなくなるだろう」
鏡は少し寂しい思いに駆られながらも、内心ホッと胸をなでおろして、その晩は久しぶりにぐっすりと眠りについた。
そして次の日。
マチルダは足を引きずりながら、床に血を滴らせ、いつものように折れた箒を持って家を出てこうとした。もちろんこれにはうそつき鏡も驚いた。マチルダに昨日の彼女の姿を写して、必死に主を引き止めた。
「マチルダ様! お忘れになったのですか!? これが貴方の『本当』の姿なのですよ!」
すると、マチルダは顔を引きつらせ……もしかしたら笑おうとしたのかもしれない……だーれにも届かないようなかすれた声でこう呟いた。
「明日こそ……よ」
その返事に、鏡はもう何も言えなかった。やがて彼女は扉の向こうへと歩いていった。うそつき鏡の中に、『本当の』自分の姿を残したまま。その晩、とうとう彼女は家に帰ってこなかった。
鏡に残されたその姿は全身包帯ぐるぐる巻きで、ばんそうこうは顔を埋め尽くし、偉大なる魔女というにはあまりにも滑稽だった。そんな鏡の噂を聞きつけて、町中の人が魔女の惨めな姿を覗きに来ては笑った。
だけど鏡は、持ち主の可哀想なその姿を消すことはなかった。一体何故そんな馬鹿な真似をするのかと、誰かが笑って尋ねても、鏡はうわ言のように同じ言葉を繰り返すだけだった。
「明日こそ……」