九十五話 (I Could Have)Danced All Nignt
柔肌に指が触れる。
彼女の熱が指先から伝わってくる。
ゆっくりと顔を上げれば、台に座った彼女の微笑みが俺を射すめた。
「ボロボロね」
心底可笑しそうに、笑いながら彼女の左手が俺の頬に優しく触れる。
「いつものことだよ」
「本当に……いつもの事ね」
哀しそうに笑った彼女の表情はとても儚げで、それでいて美しい。
加速する心音が何か言葉を紡げと喉に発破をかけるが、生まれてきてこの方、こんな状況に見舞われなかった為に浮ついた言葉の一つも出やしない。
「心配したわ」
「いつもの事だな」
「少しは反省してよ」
「善処するさ」
「反省しない時の口ぶりね」
「よくお分かりで」
「アンタと何年一緒にいると思ってんだバーカ」
「お見通しなのね、俺のことは」
「この先もお見通しよ」
「……口説いてる?」
「口説いてる」
「……」
「なんで黙るのよ……恥ずかしいでしょ」
「いや、その、何だ、あまりにも予想外な回答でな?」
軽口を叩きながら顔を逸らす、このまま彼女を直視してしまえば頭がやられそうだ。
「また、誰かの為に傷ついたの?」
唐突にそんな問が来た。
「いや、自分の為だよ」
いつものようにそう返す。
「嘘つきね」
「ご愛嬌だよ」
空気が移りゆくのを感じる。
呼吸音が幾つか通り過ぎたあと、彼女が不意に言葉を投げた。
「夕陽がそうなっちゃったのってさ、私の責任なんだよ。私がアンタに……理想を押し付けた」
まるで、身体を刃で切り裂かれているかのような苦しそうな声が鼓膜を揺さぶる。
「私は、きっと嬉しかったんだ。誰かの為に傷つく夕陽が、私の思い描いたヒーローが居ることが」
そこで彼女は言葉を切った。
俺はその先の言葉に気がついていた、彼女は言いたいのだ「そこまで狂わせたのは私だ」と。
「夕陽はバカで不器用だからさ……私の為に理想を投影したんでしょ? 泣き虫で弱虫な私が、もう泣かないで済むように」
虚構の劇場を思い出す。
彼は言った、最初は無垢な願いだと、その成れの果てが醜悪な欲望だと。
そこで、静かに思い出す。
『大丈夫、俺が雨乃を守るから。もう、君が泣かないでいいように』
戯れ言が脳内で反響する。
そうだ、俺の症状は、俺が症状に願った想いはコレだったんだ。
「だからさ、もう終わりにしよう」
彼女の額が俺の額にぶつかる。
「もう……私はアンタの背後に隠れない。私は、夕陽の隣にいたいから」
湿っぽい声音が脳髄を揺さぶる。
彼女の涙が、俺の手の甲に零れ落ちた。
喧騒だけが身体を包む。
お祭り騒ぎのバカ騒ぎのせいで、誰の啜り泣く声も、懺悔の声も聞こえない。
それでいいと思った、これでいいんだと思った。
「夕陽……私はアンタの隣に居たい」
ただ、彼女の言葉の続きを待つ。
もう誰かの喋り声や笑い声なんて聞こえない、彼女の消え入りそうな吐息だけしか聞こえなかった。
「こんなワガママで、人のこと言えないぐらい馬鹿で、素直じゃないけど、私は夕陽の隣に居ていいかな……?」
そんなの決まってる。
始めっから決まっている。
何も出来なかったガキの頃から、誰も救えなかった今の今まで、俺はずっと雨乃を想い続けてきた。
「お前は意外にも頭が悪いと見える」
だから、精一杯笑い飛ばした。
「なっ! うっさいバカ」
「当たり前のことを言わせられるのは嫌いだ、たまらなく面倒で恥ずかしいから」
肺の空気を丸ごと入れ替える。
覚悟を決めた、思いなんてとうの昔から積み重なってる。
「隣に居てくれ、俺はお前がいなきゃ駄目みたいだ」
上がった体温が体内から俺を焼き尽くすべく暴れ回る。
吐き気にも似た気恥しさが心と身体を埋め尽くせば今すぐにでもフルマラソンしたい程に身体をムズムズさせる。
「だぁぁぁぁ! 今のなし! マジでなし!」
「ほんとに……締まらないわね」
「うるせぇ! 本当はこんな筈じゃなかったんだぞコンチクショォォォ!」
「カッコつけちゃって……馬鹿じゃないの?」
「クソ女だお前は! くっそ! なんだこれ、死ぬほど恥ずかしいぞコノヤロウ!」
これはアレか、告白に入るのか。
というか何だ、まだ自分の中で色々と蹴りが付いてねぇのにいいのかこれで。
「なぁ、雨乃」
「なに、夕陽」
「俺さ、なんつーかその」
まだやらなければ行けないことがある。
そう言おうとした瞬間に、彼女がソレを遮った。
「いいの、分かってるよ。夕陽、まだやらなきゃいけないことがあるんでしょ? 誰かの為に」
「……何でもお見通しだな」
「当たり前でしょ? バカの考えることなんて一から十までお見通しだっての」
顔を見合わせて笑い合う。
馬鹿みたいに笑いあって、それで俺は決意を固めた。
「全部終わらせたらさ、ちゃんともう1回、話をさせてくれ。今度は俺の情けない話を聞いてくれ」
「うん、待ってる」
肩の荷が降りた。
それと同じぐらい重く固い覚悟も決まった。
終わらせよう、キチンとした形で。
終わらせよう、今度は誰も泣かずに済むように。
終わらせよう、ハッピーエンドを迎えるために。
雨乃の為に、晃陽の為に、月夜先輩の為に、そして何より俺の為に。
三流ヒーローの役を降りるのは、それからでも遅くは無い、その先にどんな結末が待っていようと、俺は俺を貫き続ける。
「なんか……気恥しいね」
「バカ、言うなよ、恥ずかしくて死にそうだ」
もう少しで唇と唇がくっ付いてもおかしくない距離で気恥しさに包まれる会話を続ける。
俺は、ゆっくりと彼女から離れる、手は繋いだままで。
「少しだけ、踊ろうか」
周りを見れば浮かれた奴等が踊っている、俺達が踊ったって何もおかしくは無いだろう。
それに、ミスコンの勝者様が踊らんのは盛り上がりに欠けるだろうし。
「朝までだって踊れるわ」
微笑みながら彼女の艶っぽい唇から、昔どこかで聞いたようなセリフが飛び出した。
「何だったけかな、それ」
「小学校の頃の林間学校でダンスするってなった時、夕陽のお母さんがノリノリで私達に踊りを仕込んだ時に言ってた言葉よ」
「懐かしいなぁ」
昔から、家の母親は意味の分からん所でノリノリになる性格であった、そして大概俺達を巻き込む。
「なぁ、そういや何で他の奴と踊らなかったんだ?」
少し前の光景を思い出しながら、呆れたように呟いた。あんなの、適当なやつと踊ってりゃあそこまでの騒ぎにはならなかっただろうに。
「乙女心が分かってないわね、夕陽は」
「は?」
「夕陽以外、私をエスコートできそうなのは居ないでしょ?」
少し照れたように頬を紅潮させがら、雨乃が拗ねたように呟いた。
「しまんねぇなぁ」
「うっさいバカ!」
「そんでもって、可愛いよ」
「うっさい……ばか」
照れた雨乃も乙なもので、心の奥がポカポカしてくる。取った手からは互いの体温が上がっていくのが分かる。
今にも抱きしめてしまいそうな心は……押さえ付けないでいいだろう?
踊る前に彼女の腕をぐっと引き寄せた。
「ちょ……みんな見てるって!」
「いいんだよ、今日ぐらいは」
彼女の甘い匂いが鼻腔を擽る、柔肌から伝わる心音が生きているのを実感させる。
彼女の髪に触れた、肌に触れた、心が触れ合った。
静かな吐息を吐き出しながら、俺はただ呆然と『終わらせ方』を考える。
まぁ、でも、今日ぐらいは忘れてもいいか。
「そうね、忘れてもいいんじゃない?」
「あぁ、そうだな」
時が止まればいいと思った。
彼女を腕の中に抱いていると、不思議な事に泣きたくなる。
だから、雨乃を身体から優しく引き剥がして、右手を取った。
「さてと……そろそろ踊ろうか、心の読めるお姫様」
「そうね、そろそろ踊りましょうか、お馬鹿な王子様」
ゆったりとしたステップで彼女をリードする。
静かに、それでいてスピードを上げながら、俺と彼女は動き出す。
踊る君と笑う俺。景色は次第に色を変え、関係は蝋燭のようにゆっくりと形を変える。
されど、変わらぬ願いも変わらぬ想いも確かにあるのだ。
柄にもなくそんな事を考えながら、俺達は踊り続けた。
・・・・・・・・・・・・・・・
「なぁ、月夜先輩」
後夜祭も終わりに差し掛かり、流石に踊り疲れた俺はベンチに腰掛けて、隣の月夜先輩に声をかけた。
「なんだい? 御祝儀はまだあげないよ?」
「気が速いっての……まだ蹴りがついてねぇだろ」
陸奥達と馬鹿みたいにはしゃぐ雨乃を見つめながら、溜息に似た何かを吐き出す。
「……全部知っちまった」
「……そうかい」
彼に驚きはなかった、まるでそうなる事を知っていたような落ち着きようだ。
「驚かないんすね」
「君なら、どうにかして知ると思っていたからね。それで、君はどう思った?」
その問いかけに、一瞬だけ回答を躊躇った。
それでも、俺は静かに答えを吐き出した。
「三流悲劇」
「ははっ! 言い得て妙だね、三流悲劇」
「なぁ、月夜先輩」
「なんだい、夕陽君」
ベンチに体重を預けながら、首を天に向け大きな月を睨みつける。
「キチンとさ、終わらせよう。ハッピーエンドを迎えるために」
「あぁ、そうだね」
そうして気持ち悪いくらいの静寂が場を支配する。
向こうで騒ぐ連中の騒ぎ声をBGM程度に聞き流しながら、ただ何も言わずに黙りこくる。
「おぉーい! 月夜! 踊るぞー」
向こうからブンブンと手を振って叫ぶ紅音さんに、二人して笑いながら、俺は月夜先輩の背中を叩く。
「行ってこいよ、先輩」
「まったく……紅音と踊ると全身が痛くなるんだけどなぁ」
ボヤきながら紅音さんの方に行く彼の背中を見送りながら、俺は背後に声をかける。
「なんだ、夢唯」
「ボクに気がついてたのかい?」
「あぁ、なんかあるんだろ? 俺とサシじゃないと話せない事が」
「馬鹿のくせに、感だけは鋭いな君は」
嫌味を聞き流しながら、俺は静かに雨乃を見つめた。
護りたいものが、俺にはあることを再確認しながら、夢唯の重っ苦しい話に耳を傾ける。
このページはここまでで途切れている。
オレは静かに息を吐き出して、脳の奥に響く痛みを噛み締めた。
この不自然にも正確な日記には『俺』が辿ってきたであろう四月からの事件や下らない一幕がひたすら綴ってあった。
まるで、初めからこうなることを見越して作られたような日記に嫌悪感を抱きつつも、栞を挟み厚い日記を閉じた。
換気のために開けた病室の窓からは冷たい冬の風が流れ込んでくる。その冷たさが茹だった脳には心地よくてベッドから立ち上がって、窓際に移動すれば気怠げな欠伸が出た。
朧気に脳の奥で繰り返される、『オレ』じゃない『俺』の記憶は色鮮やかで痛みが伴う。
少し寒くなったので窓を閉めると、個室のドアがノックもなしに開かれた。
「おい、星川。ノックをしろとオレはいつも言ってるよな?」
「別にいいじゃん、私は気にしないよ?」
「オレが気にすると言っているんだが? つーか連日通い詰めて暇なのか? お前は」
「家の中のおバカさんが病室に移ったからね、家のことしなくていいから暇なのよ」
艶やかな黒髪を引っさげた強気な彼女はガタガタと椅子をベッドの近くまで移動させると断りもなく座る。
「あ、そうそう、飲むかなーと思って精神が落ち着く紅茶持ってきたけど飲む?」
「……貰う」
ため息を吐き出しながら、ベッドに座り日記に手を掛ける。
「それって……」
「あぁ、例の紅星 夕陽の日記だよ」
「何か思い出した?」
彼女は何でもない風にそんな事を聞いてくる。
本当は、辛いだろうに、まったく何でもないように振る舞いながら。
「……朧気にだが、少しづつ景色が浮かんでくるんだ、結局頭痛で掻き消されるけどな」
彼女の手から温い紅茶を受け取って口に運べば、優しい香りが鼻腔をくすぐった。
「あと数ページで読み終わる」
まるで、文庫本を数冊読み終えた後の疲労感を感じながら、伊達メガネを固定し直す。
「これ読み終われば何かしら分かるだろう」
紅星 夕陽がアカホシ ユウヒに至るまでの道筋が。
「そう、思い出そうと頑張るのはいいけど、あんまり無理はしないでねユウヒ」
オレの黒髪を優しく撫でつけながら、記憶から消え去った彼女……星川 雨乃はそう言って笑う。
その笑顔が居心地悪くて、オレは日記の残り数ページに手をかけた。




