八十七話 Keep thinking
不思議な浮遊感が全身を包む。
寄せては返す波の音と、シャボンのような淡い光が身体を包む。
目を開けて身体を起こす、眩む視界の端っこで確かに瞳に写った思い出があった。
黒髪の少年がコチラに向けて手を振っている、その少年の顔はよく知っているはずなのに思い出せなかった。
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「夕陽? 聞いてんのか?」
比較的声量の大きい声が耳元で響くと借りてきた猫のような大人しさでうたた寝を決め込んでいた俺の身体がビクッと震えた。
顔をあげれば(黙っていれば)アニメのお嬢様キャラのような風貌の紅音さんが半笑いで立っていた。
「すんません……寝てました」
素直に謝ると腹の底から欠伸が出た。
「謝まんなくていいよ。なんか色々月夜とあったんだろ?」
「……月夜先輩つか自分自身の奥底にあった気持ちってやつとですよ」
「ふーん、字ズラだけ見りゃカッコいいな」
「字ズラだけっすけどね」
緩やかな昼下がり、小鳥達の囀りすら絵になるような豪邸のその一室にお邪魔させていただいているのだ。
目的は当日の雨乃のドレス選びという目的もある、ミスコンに出る奴等に聞いてみたところ結構服装に本気で力入れているらしいので、ドレスだからと言って浮く可能性は低い。
「まだ……続くんですか」
隣では雨乃がグロッキー、ここ1時間ほど可愛い女の子大好きな紅音さんの着せ替え人形となっているのだ。
「てか、なんで夕陽も居んのよー! 帰れ、すぐ帰れ、ほら帰れ」
「だから言ってんだろ? ピエロ対策+男目線の評価+雨乃検定1級が理由だって」
「雨乃検定1級って何よ!? 勝手に作らないで!」
「ちなみに1級ともなれば雨乃に似合う下着の色ま─」
言いかけた直後、近くにあったハンガーのようなもので頭を殴打された。普通に傷害事件だろこれ。
「さーて雨乃ぉ」
「ちょっと待って紅音さん! なんで手をワキワキしているのか理由を説明して!」
「読んでみたら?」
「読んだら絶望しそうだから嫌なの! ちょっと待って! 助けて夕陽ー! 夕陽ぃぃぃぃぃぃぃぃー!」
叫び声と共に雨乃は紅音さんに連れられて部屋の奥に消えていった。一人取り残された俺は紅音さんに注がれていた紅茶を啜った。
ふぅっと息を吐き出すと、身体の芯から何かが突き抜けていくような感覚が身体に宿る。
そして、また、思考の沼に身体を……心を沈めて考えるのだ。
あの日の俺の行動が。
あの時の俺の決断が。
あの瞬間の俺の思考が。
すべて間違いだったのではないかとすら思う。
彼女のことを思うのならば、彼女のことが大切なのならば、俺は……俺のしてきた積み重ねはヒロイックに魅了されたただのエゴイズムなんじゃないのだろうか。
「はぁ……」
ままならねぇなと息を吐き出す。
俺はどうやら、思いのほか御大層な人間ではないのかもしれない。
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「そんじゃ、お母さんお父さん行ってくるね」
「行ってーくるー」
気軽な口調で娘達が荷物を持って笑いかける。
俺は珈琲を片手に其の様子を見守っていた。
「夕璃、夕架、くれぐれも夕陽の動向について報告はヨロシクね」
輝夜さんがそう言って、妙に真面目な表情で二人に釘を指した。
夕帆を差し向けようとしていた時に夕陽自ら、二人に連絡があったと知った輝夜さんは飛行機代とお小遣いで二人をスパイに仕立てあげた。昔から、こういう抜け目のないところは変わっていない。
「わかってるてお母さん」
「わーかってるー! ゆーひが危ないことしたらー、即! ほうこーく!」
正直に言うと不安しかない。
何かしらに巻き込まれている夕陽の状況、ここに来てのイベント、駆り出された夕璃と夕架、逆に言えば何も起こらない訳がない。
「「それじゃ! いってきまーす!」」
二人の背中を送り出して、輝夜さんに目を向ける。
「輝夜さん……どうしたいんだい? 夕陽を」
俺の問に輝夜さんは目を伏せる、そして口を開いた。
「あの子はね欠けてるのよ、大事なピースが」
家族写真を物憂げに見つめながら、過去に見た悲しそうな顔をする。
「私の育て方が悪かったのかもね。昔のあの子は退屈そうだった、でも雨乃を庇って入院してからは毎日が楽しそうだった。だから、可愛くて可愛くてあの子に『痛み』を教えてあげられなかった」
「あいつは痛みの分かる奴だよ」
俺がそう言うと輝夜さんは横に首を振った。
まるで、俺が検討違いのことを言っているような表情で笑う。
「違うよ、夕陽は確かに自分の痛みには敏感だろう。でもね、あの子は……夕陽は自分が傷つく事で他にも傷つく人間がいることを忘れている」
雨乃の顔が脳裏に浮かんだ。
夕陽が昔から恋をしている女の子で、同じく夕陽のことをずっと思い続けている女の子。
「あぁ、そういうことか」
輝夜さんの思考がやっと読めた。
「あの子がこれ以上傷つくと、多分雨乃の心にも再生不能な傷がつく。あの二人の関係は限りなく共依存に近い」
互いが互いの一番の理解者だと分かっている。
同じ時間を共にして、同じ苦しみを分かちあって。
「雨乃は夕陽の心が分かるでしょ? それってつまりね、夕陽が内に秘めている泣き言や悲鳴や心の痛みまで無意識のうちに読み取ってしまう」
理解者だからこそ、雨乃が夕陽を想えばこそ、アイツの痛みはそっくりそのまま彼女にも流れる。痛みという形を超えて、心を蝕む痛みに変わる。
「このままじゃ、壊れるのは夕陽1人じゃない。雨斗や琴音に聞く限りじゃ、あの子は何か厄介なことに巻き込まれてるらしいし」
もし、夕陽の怪我が……痛みが限界値を超えれば?
別にアイツは超人でも怪人でもないのだ、心臓を刺せば死ぬし、脳天をぶち抜かれれば息絶える、普通の人間だ。
夕陽が怪我で目が覚めないなんてことになれば、雨乃は壊れかねない。内側からボロボロに崩れ落ちかねない。
「瀬戸際なのよあの子達にとってのね。それに、私も息子の葬式に出るのは……嫌だ」
「……あいつは死なねぇよ」
「なんの根拠があって」
珍しく怒気を孕んだ声だった。
すこし、懐かしく感じて笑が零れた。
「あいつが俺と輝夜さんの息子だからだよ」
「……妙に説得力があるところがムカつく」
「というか、子供が可愛いのは分かるんだけどさ。輝夜さん、夕陽だけ特別可愛がってるよね。末っ子だから?」
「それもあるけど……夕陽が一番、夕紀似てるから」
「……唐突に惚気られると俺ちょっと反応に困る」
「そういう困った顔も夕陽と瓜二つ」
思ったより、俺の嫁は旦那と子供のことが大好きらしい。
日頃は愛情表現が下手なのか、子供たちの前で全くしないせいで、四人からは覇王とか呼ばれてるけど。
「大丈夫かな夕陽は」
「大丈夫だよ、アイツはヒーローが好きなやつだった」
「戦隊物じゃ何故か夕帆は戦隊の協力者が好きで、夕璃と夕架は悪役が好きで、夕陽はずっとレッドが好きだった」
青臭い誰かの味方、大人になればなるほど小っ恥ずかしくて言えなくなる愚像の姿にきっとまだ夕陽は憧れている。
「ちょっと電話してくる」
輝夜さんには申し訳ないが、俺は少し意見が違う。
引き離すんじゃなくて、アイツがそれに気が付かなければ意味が無い。そして、今抱えている問題を乗り越えなければアイツはきっと後悔を抱えて生きることになる。
「誰に?」
「アイツの頼れる兄貴にだよ」
ベランダに出てスマホで夕帆に通話をつなぐ。
「よぉ、元気か?」
『どうした? 親父が俺に連絡寄越すなんて』
「息子を心配して何が悪い」
『おぉ! 親父は俺を心配してくれるのか! なんか母さんも親父も俺のことを完璧人間と思っている節があるからなぁ』
「というかお前、新婚なのにまだプラプラしてんのか?」
新婚だというのに未だに全国津々浦々旅をしているらしい。
我が息子ながらなんと言うかお嫁さんに申し訳ない気持ちになる。
『大丈夫大丈夫、俺の嫁はなんか色々と強いから』
「……輝夜さんに似てる?」
『丸くなる前の母さんってあんな感じなのかな?』
「だいたい察したよ。なぁ、お前──」
何となくの直感で俺が立てた予測を夕帆に吐き出した。
「夕陽の件について何か知ってる?」
『……流石は親父、勘が鋭いな』
「何となくだぜ? 推理とか、輝夜さんみたいに物語を組み立てるとかそんなんじゃない」
『んー、まぁ、深くは話せないけどさ。とりあえず、俺がいる限り夕陽が死ぬことはないから安心して』
「お前、どう絡んでる?」
『この物語にってこと?』
紅星 夕帆。
最初の子供にして、完璧超人。
昔から何をやらせても人並み以上の成果をたたき出し、人望もあつくカリスマ性もある。まるで残虐性やサディスティックを差しい引いた輝夜さんのような息子。
そして、昔から何かをしていた裏のある子供だった。
「物語……物語か、お前何するつもりだ?」
『俺は何もしないよ? 何かをするのはいつも夕陽だ、この物語の主人公が夕陽でヒロインが雨乃だとしたら、俺はただのナレーターでしかない』
多分、深く聞いても上手くはぐらかされるだけか。
この手の手合いは輝夜さんで見飽きている。
「夕陽は……夕陽達は大丈夫なんだな?」
『それは保証するよ。俺は別に黒幕でも何でもない、ただの管理者だ。それに、この物語をバトル物やサスペンス物にする気はサラサラないからね』
「ほんっと、俺と輝夜さんの子供は一癖も二癖もあるなぁ」
『ははっ! それはそうだよ、だって親父と母さんが五癖ぐらいあるし』
「ったく、お前なぁ。まぁいいや、お前も身体を大事にな? もうお前一人の身体じゃないんだから」
夕帆は昔から裏はあったが心優しい奴だった、アイツがナレーターを名乗っている時点で夕陽達に命の危険はないという確証が得られただけ収穫か。
『……驚いた問い詰めないんだね』
「問い詰めても禅問答になるだけだろ? それに、夕陽にはカッコいい男でいて欲しいからな」
『あぁ、そういうこと。ほんと、末っ子ってのは両親に愛されまくってるな』
「お? なんだ? 嫉妬か? 今帰ってくれば抱きしめてやるぞ?」
『いいよ、遠慮しとく。どうせ抱きしめてもらうなら嫁の胸がいい』
「一丁前に惚気やがって。じゃあな、夕帆。くれぐれも夕陽は頼んだぞ」
ため息をついてバカ息子に別れを告げる。
『あぁ、任された……っていても俺が手を出すのはヤバい時だけだけどね』
そう言って夕帆は電話を切った。
曇天の東京の空を見上げて、俺は深い深い溜息を吐き出す。
夕帆と夕陽、我が愛すべきバカ息子たち。
「ったく、ほんとにバカ息子共め」
ポケットからよれた煙草を取り出して火をつける。
ゆらりゆらりと揺れる煙が妙に愛らしく感じて、胸の不安感が少し紛れた。




