四十三話 sugar
「先輩、私は先輩が……夕陽先輩が」
困ったように笑いながら、冬華が言葉を紡ぐ。
「好きです」
心の奥底から絞り出したような声で冬華が口を開いた。
「私は先輩が好きです」
あぁ、分かっていても、言葉に出されて好意を伝えられるのはやっぱり嬉しいな。本当に嬉しい。
自分を好きになってくれる子がいることが、自分を見ていてくれる人がいることが堪らなく嬉しい。
だけど、俺は──
「冬華、俺は」
キチンと彼女の目を見つめ、答えをだす。
「俺には、好きな人がいるんだ。すげぇ嬉しいけどさ、俺はお前の……冬華の気持ちには答えられないよ」
静かにそう告げる。
きっと、これは彼女にとっては辛い答えだろう。
だけど、だからこそ、彼女の気持ちに答えを出してやることを俺はしなきゃいけない。
「……はい」
冬華が好きになってくれた俺は、きっとそういう奴だから。
はぐらかさずに、言葉を濁さずに伝えなければならない。
「ありがとう冬華」
「なんで、ありがとうなんですか先輩。変ですね」
「……かもな」
俺のよく知っている優しい笑顔で微笑みながら静かに涙を流す。
「冬華……お前」
「あれ……? ははっ、泣くつもりじゃなかったんですけど」
隠すように後ろを向いて冬華が涙を拭う。
あぁ、分かっていても胸の奥が痛いな、鈍い痛みがずっと続くようだ。そして、困ったことにこの痛みは俺の症状でも飛ばせない。
先送りにはできない。
「一つ、一つだけ聞いていいですか?」
「あぁ、いいよ」
「もし、雨乃先輩がいなかったら。先輩は私のこと好きになってくれました?」
思わず、反射的に息が詰まった。
彼女の言葉に、彼女の眼差しに息が詰まる。
はぐらかすことは容易だろう、だけど答えなきゃいけない気がして口を開いた。
「もし、雨乃が居なくても俺はきっと雨乃を見つけて、多分また恋するよ」
「……」
「今の俺が居るのは、お前が好きになってくれた俺がいるのは雨乃のお陰なんだ。雨乃が居なかったら俺はきっと、もっと冷たい人間だったよ。だから、だから俺は雨乃に何度でも恋をする、例え今までの記憶が無くなってもな」
「そう……ですか。酷いですね先輩、死体蹴りもいいとこです」
ほんとだ、俺は何追い打ちをかけてるんだ。
「あーあ、本当に何で好きになっちゃったかなぁ」
困ったように笑いながら冬華が言葉を漏らす。
「でもきっと、そんな先輩が堪らなく好きだったんです。先輩のそんな所が私は好きなんです」
そう言うと冬華はこちらに向き直る。
「先輩……これからもいつも通り接してくれます?」
「当たり前だろ、そんなの当たり前だ」
思わず涙を流す彼女から目を背ける。
沈黙が痛い、聞こえるのは弱まった静かな雨の音だけ、降り止まない雨の音だけだ。
「ごめんなさい……先輩。私、今日は帰りますね」
「あぁ、分かった」
ボロボロと涙を流しながら、強がった笑みでコチラを向いて笑う。
「それじゃ、楽しかったです先輩。また遊びましょう」
「あぁ、そうだな」
そんな、鈍い答えしか返せない。
もっと何か言えるはずだ、なのに言葉が出ない。喉の奥に蓋をされたように、そんな言葉しか口からでない。
冬華が俺の横を通り過ぎるその瞬間、やっとの思いで口から言葉が出た。
「冬華、雨降ってるから傘持ってけ」
「でも……先輩が」
「もう一本持ってきてるから、大丈夫だ」
「……先輩は先輩ですね。本当に先輩です」
「当たり前だ、俺は俺だから」
俺が差し出した傘を受け取ると、冬華がペコリと頭を下げる。
「それじゃ、また明日です先輩」
「あぁ、また明日」
俺は静かにそう告げて、深く息を吸った。
後ろで聞こえる足音が、次第に遠ざかっていくのが分かる。
「先輩」
足音が突然止まったのと同時に、冬華が俺の名前を呼んだ。
「ん?」
「私、私は」
絞り出すような声が続く、だけどその声音には不思議と力が篭っているようだった。
「諦めませんから、絶対に」
それだけ告げると、彼女は足早にその場を後にした。
静けさが戻ったテラスには雨音だけが響いている。
俺は吸い込んだ息を深く吐き出して、近くにあったベンチに力なく腰掛けた。
「諦めません……か。強いなぁ、冬華は」
心中を渦巻くのは二つの感情。
告白された嬉しさと、彼女を泣かせた罪悪感。
「でも、これでいい」
彼女の好意に気づかない振りをして、言葉を濁して、逃げるぐらいならば俺はこれでいい。
鈍感系でも難聴系でも無くていい、人の好意を無下にするぐらいならば俺は悪役でいい。
ふっと胸の奥に詰まったゴチャゴチャしたものを吐き出すように、深く深く息を吐いて上を見上げる。
そして、いくつかの考えが頭をよぎった。その一つを反射的にボソリと口にする。
「アイツの好意を無下にしちまったら、俺は」
俺はきっと
「心の底から雨乃の事が好きって言えなくなるから」
だから、俺は俺のままで居よう。
それが俺のエゴでも、冬華が……彼女が思いを伝えてくれた事を俺はきっと忘れない。
静かにポケットに入っていたスマホを取り出しながら立ち上がり、歩きながら電話帳のタ行の欄から選んだ人物の名前をタップして電話をかける。
『やぁ、どうしたんだい夕陽君』
電話の相手はすぐに出た
「あぁ、ちょっと話がしたくて」
『……分かったよ。雨は今から止むらしいから、何時かの約束を果たすとしようか』
約束……あぁ、ラーメンか。
『また後で、連絡する』
「はい、また後で」
電話を切って、ポケットにスマホをしまう。
どうやら先輩の言う通りのようだ、時期に雨は止むらしい。
だったら、降っているうちに。
「濡れて帰るか」
心に残ったもやもやを振り払うために、俺は降り止まぬ雨に体を晒した。
冷たい雨が、妙に気持ちよかった。
※※※※※※※※※※※※※
先輩の貸してくれた大きな傘が、涙を流す私の顔を街からも隠してくれる。雨の勢いは次第に弱くなっていき、私の涙の隠れ蓑はもう時期消えるだろう。
──泣かないつもりだったのに。
言葉を突きつけられた瞬間、思わず何かがこみ上げた。
──泣かないつもりだったのに。
その答えを聞いた時、思わず胸が詰まった。
──泣かないつもりだったのに。
最初から分かっていたはずなのに、先輩の瞳に私が写ってないことぐらい。
「あぁ……初恋は叶わないのかぁ」
ポツリと言葉が漏れた。
膝から崩れ落ちそうな脱力感と虚脱感が私を襲うのと同時に、何故か満足感のようなものも込み上げてくる。
まぁ、今はこれでいい。
次への布石だ、これで先輩は確実に私を意識したはずだ。明日からまた頑張ればいいのだ。
そう思いながら、忙しなく人々が行き来する雑踏の中に私も交じる。その時、私のスマホが振動した。
「夏華……?」
『あ、冬華ー? どうだったー?』
気軽な調子で、夏華が電話をかけてきた。それにしても見ていたのでは? と疑いたくなるようなタイミングだ。
「そりゃ勿論ダメだった」
『まぁ、そりゃ分かってたけどね』
電話口の向こうでケラケラと笑う声が聞こえる、相変わらずコイツはデリカシーとか優しさとかが欠落している。多分全部私が貰ったのだろう。
『ゆー先輩はちゃんと答えてくれたんだ』
「そりゃそうだよ、先輩だもん」
『先輩もアホだねぇ。冬華とかちょーチョロいんだからはぐらかして侍らせときゃ良かったのに』
なんだこの(ジャンケンで決まった)姉は、もうちょっとフラれた妹に気を使うとか出来ないのか!? そんなことより、先輩はそんなスケコマシでもない。
「先輩はそんな人じゃないって知ってるでしょ?」
『当たり前だってのー。大体そんな悪い男に引っかかってるなら私が止めてるし』
おぉ、なんか少し姉らしい。
『んで、冬華ちゃんは諦めないの?』
「……うん。先輩が好きだから」
『うわぁ、なんか妹が恋する乙女やってんのに。私何してんだろ』
「私はてっきり姉妹で男の趣味似てると思ったんだけど」
私がそう言うと、電話口の向こうで溜息が聞こえる。
『いや、ゆー先輩ってば見てる分には面白くて好きだけど。ぶっちゃけ男として見れない、しかも絶対に面倒臭い』
「うわぁー、妹が惚れてる相手になんて暴言を」
『だって、禄に話もしたことない後輩を身を呈して庇うようなアホだよ?』
とても庇ってもらった立場の人間が言っちゃいけない言葉を吐き捨てる夏華に苦笑が漏れる。
「そこがいいんでしょ」
『まぁ、だからゆー先輩はカッコイイんだろうけどね』
「そうだ、そうだ。先輩はカッコイイんだ!」
『はいはい、分かったから早く帰ってきなよ?』
「うん、分かってるよ夏華。あ、冷蔵庫のアイス食べないでね?」
『時既に遅し』
「楽しみにしてたのにー!」
差し障りのない会話をしながら歩いているとバス亭が見えてきた。会話しながら歩いている内にここまで来たのか。
『今から買ってきてあげるから、一緒食べよ?』
「二つも食べたら太るよ?」
『うっ……いいもん、痩せるし』
「はいはい」
意思の弱い姉に苦笑を浮かべつつ、先輩から借りた傘を畳みながら電話を切ろうとすると、夏華の声音が突然優しいものに変わる。
『アイス好きなの買ってきてあげるから、その時までには』
うん、分かってるよ夏華。
『ちゃんと、泣き止んどきなさいよ冬華。泣くのは家に帰ってから』
「うん……大丈夫、もう泣かないから」
掌でボロボロと零れる涙を拭いながら電話越しの夏華に別れを告げる。
バス停には私以外の人は居ない、だから私が泣いているのも誰も気づいてないのだろう。
元々知っていたのだ。
私が中学生のの頃、私が初めて先輩を見た時から知っていたのだ。
先輩は雨乃先輩が好きだって、きっと雨乃先輩以外に先輩は振り向かないって知っていたのに。
だって、私が恋をした先輩の中には雨乃先輩に恋をしている時の先輩も含まれているのだから。
だからこそ諦めない。
これはアドバンテージだ、関係の長さも深さも理解度も雨乃先輩に負けている私の唯一の強みだ。
先輩は必ず私を意識する、先輩は必ず私に罪悪感を抱く。
先輩はそんな人だ、とてもとても優しい人だ。
だから、先輩には覚悟してもらおう。
「押してダメなら、押し倒せ」
何かの少女漫画で読んだようなセリフを口の中で反復する。
絶対にまけない、めげない、諦めない。
なんたって私は恋する乙女なのだから。
先輩にはたらふく味わってもらおう、糖尿病になるくらい、とても甘い甘い女の子の努力を。
雨が降る街をボーッと見ながら、私は静かに息を吐いてそう誓った。




