ジャグラ
「昨日もジャグラが出たんだって」
ミサコに耳打ちされて、ユミはリコーダーを口から離した。
今は音楽の時間だ。たくさんの小鳥がめちゃくちゃに鳴いているように、教室じゅうに、かん高い音が満ちていた。五年二組の生徒たちはみんな、思い思いにリコーダーをくわえ、頬をふくらませたり、目を白黒させたりしていた。
「そうなんだ」
生返事しながら、ユミは教壇のほうを盗み見た。さいわい、山本先生は椅子に座って、何かの書類とにらめっこ。もし無駄話しているところを見られたら、たちまち大声が飛んでくるだろう。
(ハイ、そこの西川ミサコさんと、森ユミさん! 今、こそこそ話していたことは、帰りの会で発表してもらいますからね)
担任の山本先生は音楽の学校でオペラを習ったそうだ。音楽だけを教える先生なら、べつに岡田先生がいる。男子が口まねだけして歌わなくても注意しない、「やさしい」先生だ。ところが五年三組の音楽の授業だけは、山本先生が自分で教えている。
もし、男子の口まねが見つかったら、
(ハイ、そこの加山シゲルくん! みんな聴いているから、一人で歌ってみなさい)
たちまち大声が飛んでくるだろう。クラス全員が合わせた声よりも、先生一人の声のほうが大きい。オペラのせいかどうかは知らないが、音楽を教えるときだけ、人が変わったようにきびしくなる。
とくに、全校合奏発表会まで、一週間をきった今はなおさら。発表会は一、二、三年生と、四、五、六年生にグループ分けて、それぞれのグループの中から一クラスずつ優勝が決められる。三年生までのグループは、先月に発表を終えていた。
去年、山本先生が担任した六年一組は、春の合奏大会と秋の合唱大会の二連覇を果たしている。今年は絶対に、二年連続の連覇を達成したいに違いない。そう考えて、ユミはゾッと肩をすくめた。
気を揉んでいるユミに、ミサコはお構いなし。話したくてたまらない様子で、もっと顔を近寄せてきた。今朝飲んできたのか、イチゴミルクのにおいがした。
「昨日、ジャグラに遭ったのはね、じつは、このクラスのアヤメちゃんなんだ。百メートルも追いかけられたんだって」
「どうして百メートルだとわかったの?」
私なら五十メートルも百メートルもわからないだろう。そう考えながら、ユミは思わず尋ねていた。話の腰を折られたのが気に食わないのか、ミサコの頬はたちまちふくれた。
「アヤメちゃんは百メートル走なら、男子にも負けないじゃないの。だから逃げきれたんだよ」
いまひとつ答えになっていないが、どうやらジャグラが百メートルを九秒九で走るという噂は、嘘だと思われた。
ユミが知っている限り、ジャグラに追いかけられたのはアヤメで六人めだった。
最初にジャグラがあらわれたのは、二週間くらい前。六年生の女の子が帰り道に一人で、さびしい公園の横を通りかかったときだ。
キイ、という音に気がついて、思わず足を止めた。金網ごしに覗いてみると、ふだんは誰も使わないぶらんこを、そいつは一人でこいでいたという。
真っ黒いスーツに、だらしなく結んだ黒いネクタイ。体つきと同じように、ずんぐりした黒い鞄を肩から提げていた。髪は短く、ぶ厚い黒縁のメガネをかけ、顔半分には、ぶつぶつと、髭のそり痕が浮いていた。
なんだ。普通のサラリーマンじゃない。六年生はそう思って、気にせずに歩き始めた。そうして公園の入り口の前を通り過ぎようとしたとき、大きなカラスが飛び立つような恰好で、両手を広げたそいつが飛び出してきたのだ。
「じゃぐらあああああああああっ!」
六年生は悲鳴をあげて一目散に逃げた。さいわい、ずんぐりした体つきのせいか、そいつはあまり足が速くなくて、六年生を捕まえることはできなかった。ただリコーダーをどこかに落としたらしく、とうとう見つからなかったという。
それから昨日までの間に、同じような事件が何度も起きた。追いかけられるのは決まって、四年生から六年生までの女の子。放課後、ひと気のない道を一人で帰っているとき、いきなり飛び出してくるのも同じみたいだ。
飛び出してくるとき、決まってそいつは、じゃぐらあああ! と叫ぶから、ジャグラという妖怪なのだと、噂されるようになった。
追いかけられた女の子が増えるにつれて、学校じゅうが、ジャグラの噂でもちきりになった。噂はだんだん大げさになってゆき、百メートルを九秒九で走るというのは、まだおとなしいほうで、空を飛べるとか、煙のように消えたとか。また女の子を捕まえると丸裸にして頭からむしゃむしゃ食べてしまい、最後に骨だけをみんな吐き出すんだと、まことしやかに話す男子もいた。その子は有名な「エロ」だから、誰も信じなかったけれど。
実際のところは、よくわからない。追いかけられるだけで、捕まった子はいないというし、反対に財布をとられた子がいるとも聞いた。もし本当だとしたら、ひどい話だ。ジャグラが妖怪なのか、普通の人間なのかもわからない。男子は好んで妖怪にしたがるけど、よくニュースで言っているヘンシツシャじゃないかと、もっぱら女子は疑っている。
「でも不思議じゃない。うちのクラスの女子だけ、二人もジャグラに遭っているなんて」
ミサコにそう言われ、ユミも首をかしげた。六人のうち二人というのは、たしかに多い。一人めはトモミという子で、四日前から欠席していた。当初は風邪で休んでいるという話だったが、プリントを届けに行った友達が、本当はジャグラに出くわしたんだと聞いてきた。勝ち気なアヤメと異なり、色白でおとなしい子だから、怖くてしばらくは、学校へ行けないと言っているらしい。
「ほんとうに、不思議ね」
「えへん」
咳払いのしたほうへ、二人とも慌てて振り向いた。腰に手をあてた山本先生が教壇の上で仁王立ちしたまま、ユミとミサコを見下ろしていた。
たちまち飛んできた大声が、音楽室をびりびりと震わせた。
五時間めは自習になった。
臨時の職員会議が開かれているそうだが、子供たちにとっては嬉しいだけ。教室のあっちこっちに集まりができて、わいわいと騒がしい。中でも、噂がすっかり広まったらしく、アヤメは男子からも女子からも取り囲まれて、ジャグラのことを根ほり葉ほり尋ねられていた。よそのクラスの子の顔まで見えた。
「夢中で逃げただけだから、よくわからないってば。一度だけ振り返ったけど、こんなふうに、指をぐにゃりと曲げたまま、追いかけてくるのね。まるで空気の中を泳いでいるような、変な恰好だけど、噂と違ってけっこう足が速くてさあ」
ここでひとしきり悲鳴混じりの歓声が湧き、次に一人の男子が尋ねた。
「やっぱり、じゃぐらあああと叫んでいたの?」
「叫んだのは飛び出してくるときだけね。あとは何やらぶつぶつ言ってたけど、よく聞きとれなかったな。そういえば、何かを寄越せ、とか、言ってたような気がする」
「おまえのタマシイを寄越せえええ」
別の男子がおどけて言い、女子たちがまた悲鳴を上げた。
そんな騒ぎを尻目に、ユミとミサコは少し離れたところで、額をつきあわせていた。音楽の時間にお喋りしていた内容を、帰りの会で発表しなければならない。ジャグラの噂をしていましたと素直に謝るべきか。教科書の楽譜でわからないところがあったからと、言い逃れすべきか。
本当のことを話せば、みんなに笑われ、からかわれるだろう。けれど嘘をつけば、先生は気が済むまで質問してくるだろう。どこがわからなかったの? なぜ先生に訊かなかったの? そのうち嘘がばれれば、もっとひどい罰が待っているに違いない。
「素直に謝ろうよ。それしかないよ」
ユミがそう言い、あきらめたように、ミサコもため息をついた。二人とも、目の前の人影に気づいたのは、そのとき。
「おまえら、見かけによらないなあ。そんなにジャグラに興味あったのか」
いつの間に、アヤメの周りから抜け出してきたのだろう。加山シゲルは小首を傾げて腕を組み、ニタニタ笑いを浮かべていた。たちまちミサコの全身がカチカチに緊張するのが、手に取るようにわかった。反対にユミは素っ気ない態度で、
「べつに興味なんかないわ」
「でもおかしいと思わないか。二組だけで二人めだぜ。しかもどうして、四年から六年までの女子だけが狙われるんだろう」
「それは……」
思わず口をつぐんだ。シゲルみたいな荒っぽい男子には、わからないだろう。やはりジャグラの正体がヘンシツシャだと考えれば、そこに何の矛盾も生じない。だって、ヘンシツシャなのだから。
ユミを言い負かしたと勘違いしたのか、シゲルは嬉々として身を乗り出してきた。
「おまえらも気をつけたほうがいいぜ。次に狙われるのは、森かもしれないし、西川、おまえじゃないとも言いきれないからな」
「う、うん……」
ミサコが赤くなってうなずいている間に、この背の高い男子は、勝利の高笑いを残して、きびすを返した。チャイムが鳴る前に、山本先生が戻ってきた。
鶏の声を聴いた妖怪たちのように、誰もが大慌てで席についた。中には向こう脛を思いきりぶつけて、涙を溜めている男子もいた。山本先生はじろりと教室を一瞥しただけで、とくに叱ろうとはしなかった。もう帰りの会が始まるのかと、気が気ではないユミには見向きもせず、先生はこんなことを言い出した。
「職員会議の議題は、最近、学校の周りにあらわれる不審者についてでした」
ざわりと教室が揺れた。ジャグラ、というつぶやきが、方々で洩れた。
「静かに。PTAのほうから市の教育委員会へ直接問い合わせがあったようで、深刻な被害が懸念されているとのこと。登下校時の安全パトロールの強化を最優先課題にせよとのお達しでした」
ときどき山本先生は、教壇の上でわざと難しい言葉を用いる。それは往々にして、話しにくいことや、煙に巻きたい事項を話さなければならないときに用いられた。早い話が、どうやらジャグラのことで、校長先生が役所のエラい人から何とかしろと叱られたらしい。
今度はくだけた言葉で、先生は続けた。
「そこで、本日はこれで下校となります。ハイ、騒がないで。ただし、必ず帰る方向が同じ女子を、男子が送って帰るように。これからそのグループ分けをします。ハイ、だから騒がないでって、言ってるじゃない」
先生は、苛立たしげに出席簿で教卓を三度、叩いた。どうせ自主的には決められないと思ったのだろう。次々と名を呼んで組み合わせを作り、できるそばから問答無用で下校させた。男子一人が二人の女子を送る組もあれば、その逆もあった。一対一のペアにされた者たちは、冷やかされながら逃げ出さなければならなかった。おしまいに、ユミとミサコとシゲルが残された。
「じゃあ、あとは加山くん、西川さんと森さんをお願いね」
音楽の時間とはうってかわって、疲れの滲んだ声でそう言うと、山本先生はぱたんと出席簿を閉じた。
正門を出たあと、しばらくは三人とも口をきかなかった。ユミとミサコが並んで歩く後ろから、シゲルはいつの間に拾ったのか、竹の棒を振り回しながらついてきた。
「なあ、おれたちでジャグラをとっ捕まえないか。やつが出てきたら、こいつでぶちのめしてやるからよ」
女子二人は無言のまま。ユミはわざと無視していたし、ミサコは応えたくても緊張のあまり、返事ができずにいるのだろう。自分がいなければ、二人きりで帰れたのに。そう思われているのではないかという考えが、ユミの口をさらに重くした。
二人ともかなり町外れから通ってくるので、同じ方角へ帰るクラスメイトはいない。シゲルの家もじつはだいぶ遠いのだが、山本先生に腕力と脚力を見込まれたのだろう。風景に田園が混じり始め、人や車の往来もめっきり減った。三人を追い抜いていった黄色いバスは、小一時間も経たなければ、再びここを通らないのだ。やがて大きなケヤキの下で、道が二股に分かれた。
三人は立ち止まり、気まずい沈黙が流れた。右へ行けばミサコの家はさほど遠くない。左へ曲がると、ユミの家までは、まだだいぶ歩かなければならない。もしシゲルがそのことを知っていれば、三人でユミの家まで行き、ミサコの家へ二人で引き返すことも提案できただろう。けれど、かれもそこまでは知らないし、今にもミサコが辞退しそうな気配を感じたので、ユミは早口に言った。
「じゃあね、ミサちゃん、また明日。加山くんも、どうもありがとう。私、すぐ近くだし、あとは一人でだいじょうぶだから」
ミサコは反論しかけたようだが、ついに口にできずにいた。悪い条件ではないのだ。なぜか残念そうなシゲルの表情を見た気がしたけれど、「ああ」などと言いながら、かれも片手を上げるしかない。とにかく面倒な人間関係に背を向けて、ユミは駆けだした。
ケヤキの分かれ道から姿が見えない所まで来ると、歩調を緩めた。五月も終わりを迎えようとしていた。旺盛な夏草が、もうフェンスを絡めとる勢いで触手を伸ばしていた。空気はねっとりと湿気を孕み、汗ばむ額に、貼りついてくるようだ。
細長い一本道だ。後にも先にも人影は見えず、両側は手つかずの荒れ地で、しばらくは民家もない。なかなか暮れないこの季節、日はまだ高い位置にあるが、その本物らしくない輝きは、どこまでもよそよそしい。
ランドセルにさしていたリコーダーを、ほとんど無意識に抜き取っていた。
吹きながら帰れば、心細さも紛れるだろう。この一本道さえ過ぎてしまえば、家に着いたも同然だから……コンクールの課題曲を吹きながら、歩き始めた。あまり陽気な曲とはいえず、後悔の念が湧いてきたが、なるべく考えないことにした。とにかく演奏に没頭したまま、歩くことに専念した。
ひやり、
不意に通り過ぎた冷たい風に、全身を包まれた。ユミは足を止めた。
自分の目が、これ以上できないほど見開かれていることもわかっていた。
すべての謎が、この瞬間、氷解したのだ。
恐ろしい絶望の調べとともに。シゲルの言葉が、脳裏で冷徹にプレイバックされた。
(でもおかしいと思わないか。二組だけで二人めだぜ。しかもどうして、四年から六年までの女子だけが狙われるんだろう)
そうだ、四年生から六年生までしか狙われなかったのは、三年生までの合奏の発表が、
すでに先月、終わっていたからだ。ジャグラがあらわれたのは、二週間前なのだから。襲われたのが女の子ばかりなのは、男子はまず下校中にリコーダーなんか吹かないからだ。そして被害が五年二組に集中したのは、山本先生が熱心に指導した影響で……
気配を感じた。
振り向いた。
細長い一本道だ。ついさっきまで、人影なんてまったく見えなかったにもかかわらず、
そいつは、そこに立っていた。
じゃぐらあああああああああああああああああ!
まるで自分のものとは思えない悲鳴が、ユミの口からほとばしった。
リコーダーを投げ捨てたことも、全速力で駆け出したことも、ほとんど意識していなかった。
何度も何度も、痛いほど背を打つランドセルの音と、心臓の音の区別がつかなかった。あとからあとから流れ落ちる涙で視界が曇り、今にも肩を捉えようとする、鉤型に曲げられた指を間近に感じた。一度も振り向かなかったけれど、空気の中を泳ぐような恰好で走ってくる、恐ろしい顔が見えるようだった。
そうして真後ろまでせまった怪物が、呪うように、恨むように、こうつぶやいているのを、ユミはたしかに聞いた。
「……わ、たくうしい、ジャ……ラッ、クからあ、参りましたああああ……ただいまあのお、演奏のおおお、著作権使用料をおおおおおおお……」
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。