今さら「1Q84」
八王子駅の裏側では、まだ大規模な工事が行われていた。歩道の舗装も終わっておらず、あっちこっちにグリーンのゴムマットが敷かれ、あっちこっちが、でこぼこしていた。寒い日だった。その日のおれに与えられた指令は、でこぼこした歩道に一日じゅう立って、通行人が転ばないよう見張っていろというもの。しかしどれほど目を皿のように見開いていたところで、通行人は無数だ。転ぶときは転ぶのだ。要するに、警備員が安全に配慮していますよという業者側のアピール。タテマエ上立っているだけの、簡単なお仕事といえた。
ずいぶん前の話だ。もちろん今ではすっかりこの辺りは整備され、綺麗になっている。そして、ずいぶん、寒い日だった気がする。おまけに雨が降っていたように思う。コンビニで五百円くらいで売っている雨合羽を着て、おれはしょぼしょぼと濡れながら立っていたのではないか。雨が降ろうがコカコーラが降ろうが鼻水が出ようが、じっと、ずっと立っていなければならないのだから、簡単ではあるけれど、これはこれでつらいお仕事である。
目の前に書店がある。水滴の付着したガラスのドアの後ろに、明るい店内が覗く。暖かそうだなと思う。暖かい店内で、気になる文庫本を引き抜いては、ぱらぱらとめくり、また戻して別の本を吟味する。そうしたいなと思う。ガラスのかなりの面積が、内側から貼られたある本の広告のポスターで占められている。少々色褪せてきているが、まだまだその本は飛ぶように売れているのであり、こうしている間も、誰かが平積みの本の山から、レジへカウンターへせっせと運んでいるに違いない。
本のタイトルは、「1Q84」。
単行本はBOOK1からBOOK3の三巻から成る。BOOK1とBOOK2が、たしか同時に先に発売され、調べてみると平成21年5月に刊行とある。BOOK3が出たのは22年の4月らしいので、おそらくおれが八王子駅の裏側にしょぼしょぼと立っていたのは、21年の秋以降といったところだろう。この本が売れて売れて本当に売れてしょうがなかった頃だ。
暖かそうな書店の内側に貼られたポスターと何度も目があった。絵も写真もない、ただ1Q84と連ねられた四文字と、何度も顔を合わせた。好きでそうしたわけではない。一日じゅうそこに立っているのだから、どうしても「目が合って」しまう。くそう、くそう、と、おれはつぶやく。おれもベストセラーを書いて、こんな路上とはおさらばして、暖かいお店とかでコーヒーとか飲みながらぬくぬく過ごしてえ。と、目が合うたびに地団駄を踏んだ。地団駄でも踏まなければ、寒かったから。
いったいそれほどまでに売れて売れてしょうがないほど売れている本には、どんなことが書かれているのだろう? 一人の読書好きとして、もちろん興味はあった。この著者の熱心な読者とはとても言えないまでも、これまで読んだ何冊かの小説は読みやすかったし、洒落ていて面白かった。読んでみてもいいなとは思ったものの、一冊千八百幾らかする平積みのぶ厚い単行本を前にすると、いつも二の足を踏んだ。地団駄ではなく、二の足を踏んだ。しかも三冊買えというのだから。
くそっ、ブックオフで百円で売られるまで、おれは買わねえ! やけくそ気味にそう心に誓った。どうせおれ一人が新刊書を定価で買おうが買うまいが、ほかの誰かが頼まれもしないのに次から次へと買ってゆくのだ。次から次へと買った挙げ句の果てには、ブックオフに売り飛ばすのだ。ブックオフも最初は千三百六十円とか強気の値段を打ち出してくるだろうが、実際にそれくらいで売られているのを見たが、二年経ち、三年も経てば大量の在庫をかかえ、百円(税抜)の値札がつくのは時間の問題である。だからおれはそれまで読まない。読みたいけど、読んでやるものか。
しかし二年後、三年後に読んだのでは遅きに失するのではないか。時代のピュアな息吹というか、現代性というか、鋭い風刺みたいなものが、その頃には色褪せてしまっているのではないか。それこそ百円(税抜)の価値しかなくなっているのではないか。と、考えないでもなかったが、二、三年で古くなるようなものはブンガクぢゃねえ。
図書館で借りるなんて、まず不可能。常に貸し出し中であり、おそらく予約はいっぱい。そんなに読みたければ買ったほうが早いだろう、と思ってしまうくらい、多くの人が順番を待っていた。おまえにだけは言われたくないと、思われるであろうが。そこで不在の「1Q84」を尻目に、「風の歌を聴け」を借り、「1973年のピンボール」を読み、三部作らしいので、ついでに「羊をめぐる冒険」にも手を出した。「世界の終り」なんかはだいぶ昔に読んでいたので、ちょっとすっ飛ばして「国境の南、太陽の西」やら「ねじまき鳥クロニクル」やら「海辺のカフカ」やらを読んだ。そうこうするうちに、ついにブックオフは「1O84」BOOK1に百円(税抜)の値札を貼りつけた。
むかしむかし、村上龍が村上春樹と並び称されていた頃、おれは「龍派」だった。「コインロッカー・ベイビーズ」や「だいじょうぶマイフレンド」を夢中で読んだ。「すべての男は消耗品である」というタイトルにおおいに共感し、文庫版の山田詠美の解説を読んで笑った。「トパーズ」、「コックサッカーブルース」、「長崎オランダ村」くらいまでは、けっこう追いかけていたと思う。だから必然的に、ハルキとは距離を置くようになっていた。ふふん、ライトで面白いけど、ハルキは軽すぎるんだよね、的な。そこには常に「リュウと比べれば」という前提があったのだろう。村上龍が良質な小説を書かなくなるまでは。
そのころおれは演劇に夢中になっていた。当時、おれたちにとって最先端の劇作家といえば、野田秀樹、鴻上尚史、川村毅だ。よくかれらと最先端の小説家のイメージを、勝手に重ねたものである。すなわち、野田秀樹は高橋源一郎、鴻上尚史は村上春樹、川村毅は村上龍、といった具合に。
それはともかく、晴れて「1Q84」BOOK1をブックオフで入手したのは、まだ文庫化される以前だったかと思う。まるでオーソドックスで堅実なSF小説を読むようで、この作者にしてはセックス描写が控えめ(?)なのも好印象。面白かったし、続きも気になった。けれどもなぜかそのままBOOK2には進めず、ブックオフで安値がついているのもたびたび見かけたが、その都度手にとっては、棚に戻していた。まあ読もうと思えばいつでも読めるからとか、今はほかの本が読みたいからとか、そんなことを考えながら。するうちに文庫化され、それぞれの巻がさらに前編と後編に分割されて、全六冊。おいおい文庫を揃えたら単行本なみに高くつくのでは? と苦笑しつつ、これにも手が出せなまま。話はつい先月までワープする。
四月も終わろうとしていた。おれは町田市の某所で水道工事の警備をしていた。その日は「雑紙」の回収日らしく、おれが立っている目の前には、ボール紙やらちらしやら雑誌やらが山と積まれていた。その中に、ビニール紐で束ねられた、十冊ほどの文庫本が目についた。マンガ雑誌や教科書などと違い、こういったものを目にするのはけっこう珍しい。興味本位で、こっそりとひっくり返してタイトルをチェックした。どうせカネがいやというほど寄ってくる何十の法則の類いだろう。読んでも寄ってこないから捨てられたんだろう。そう、タカをくくっていたのだが、うち六冊はあの「1Q84」ではないか。つまり、文庫本コンプリート。あとの四冊もなかなか興味深い。
いったいどんな人がこれを捨てようとしているのだろう。ブックオフに売り飛ばすでもなく、いともポイと放り出すかたちで。欲しいな、と思ったが、捨てられたゴミとはいえ、勝手に持ち去るのは犯罪ではなかったか。仕事中だし、人目もあることだし、まあ放っておくか。一旦そうやってあきらめたつもりでも、内心気になって仕方がない。仕事をしながら、どうしてもそっちばかり、ちらちら見てしまう。セクシーな女性が臀部を揺らしながら通りがかったかのように。
お昼前にトラックが横づけされ、回収業者のお兄さんが降りてきた。段ボールを掻き集めているお兄さんのもとへ、おれは駆け寄らずにはいられなかった。
「す、すみません。この本頂きたいんですけど、いいですか」
「へ?」
「これなんですけど、だめですか」
おれは十冊の文庫本を束ねられたままかざして見せた。
「はあ、いいっすよ」
いや、本当はそれもいけないのは判っていたのだけど、お兄さんの目にそれはゴミとしか映っていないし、文庫本の小さな束を一つ欲しがっている風変わりな警備員を厳しく糾弾するイワレも暇もないのだろう。変なやつだな、くらいに思っただけで、十五分後にはすっかり忘れているだろう。
「ありがとうございます!」
おれは礼を言い、そそくさとバッグに仕舞った。警備員が回収業者と会話するのはしょっちゅうなので、現場監督や作業員は気にも留めていない。ここに完全犯罪が成立した。間もなく、五月の連休に突入した。いやもう四月の終わりから仕事がなかった。水道工事関係は基本的に連休中は平日も含めて、完全にストップするのが慣例だ。こちとら日当制なので、もちろん休暇中は無給。痛烈にお財布に厳しいが、かといってどうすることもできない。なるべく金を使わないよう、部屋に籠もって本を読んでいるのがベターである。
読みかけの本があり、その次に読もうと思って積んでいる本がある。けっきょくそういった本を消化するだけで、瞬く間に時間が過ぎ、日が過ぎてゆく。しかも日頃、あれほどゆっくり読書する時間が欲しいと願っていたのに、何日も部屋に籠もって本を読んでいると、これはこれで嫌気がさしてくる。気晴らしに出かけたくても金はない。けっきょくあまり楽しいとは言いがたい、長い連休が終わってしまう。
日常が再会され、ひたすら日曜日が待ち遠しい毎日が続く。けっきょく「1Q84」はビニール紐がかけられたまま、ほかの四冊と一緒にごろんと部屋の隅に転がっている。五月も四週めになって、また急に仕事がなくなる。四月から五月にかけて、いわゆる年度始めは仕事にあぶれる警備員が非常に多い。とくに工事関係はこの時期、ほとんど動きを止める。
読みかけの本はまだまだあったが、いずれ書くつもりの小説の資料という名目で、系統立てて本を読むのも、ちょっと疲れた。ふと部屋の隅に転がっている文庫本が目に入った。おれはビニール紐を鋏で切り、ちょっと迷ったあと、「1Q84」をBOOK1から読み始めた。BOOK1は再読ということになるのだが、呆れるほど内容を覚えていなかった。必殺仕事人みたいな女性が出てきて依頼主は温室に棲む裕福な老婦人でシティーハンターの海坊主みたいな男に守られていて月が二つになって山の中のコミューンから逃げてきた文学的才能のある綾波レイっぽい無口な女子高生は平家物語を好む。と、ほんとうにそれくらいしか覚えていなくて、ディテールはおろか、物語の肝要な部分すらすっかり忘れていた。要するに、最初から読み返して正解だったのだ。
相変わらず仕事はなかった。一日だいたい一冊ペースで読み進み、二日でBOOK1の前後編を読み終えると、未読のBOOK2へ。異変に気づいたのは、このあたりだ。異変というのも大げさだが、ふつう、本を一冊読み終えるにはそれなりに時間がかかる。おれみたいに仕事にあぶれてほかに何もすることのない暇人でさえ、一冊につきたっぷり一日はかかる。そうしてちょとずつページをめくるうちに、どうしても何らかの痕跡を残してしまうものだ。広げた跡がついたり、指紋がついたり、菓子の屑が紛れたり、小型の鞘翅類を標本にしたり。そういった痕跡が、ほとんどまったく見受けられないのだ。しかも、途中のページには新潮文庫の広告が抜かれもせず綺麗に収まっていた。
一冊めから売上スリップが挟まっていたので、ネット通販で買ったものかな? とは思っていた。ネットで買った新刊には、それが挟まったままだから。一冊めのBOOK1前編が平成二十四年四月二十日の四刷(初版は四月一日)、後編は四月一日の初版。BOOK2前後編は六月二十五日の四刷(初版は六月一日)、BOOK3は二冊とも六月一日の初版である。
となると、この本の最初の持ち主はまず二十四年四月に刊行されたBOOK1の二冊を早い段階で購入した。それから六月の発売日を待った上で、文庫版の残りの四冊をまとめて取り寄せた。その時点では全巻読破するつもりでいたのだが、何らかの理由で、おそらくBOOK1後編の途中か、それを読み終えた辺りで、続きを読むことができなくなった。と、一応は推理できるか。同時に束ねられていたほかの四冊の書名は、さすがに伏せておく。ただ、この人はなかなかの読書好きに違いないと思わせるものだった、とだけ。
それゆえに、「1Q84」を途中で放棄した形跡があるのは、ちょっと不思議な気がした。全巻揃えてから読み始めたくらいだから、一気読みする気まんまんだった筈だ。自分なら途中で放り出さないという自信があった筈だ。実際に読書好きだったと思われるし、そんな人にとって「1Q84」を読破するための難度は決して高くないだろう。例によって文章は読みやすく明快で、追いつ追われつのストーリーは起伏に富み、例によって性行するシーンもたっぷりある。セックスシーンに嫌悪感を覚えるような人は、初めから村上春樹なんか手に取らない。けれどもけっきょく、考えるだけ無駄なのだろう。六冊の文庫本を取り寄せ、最初の一、二冊で読むのを中止し、何年後かに(五年くらいたって)雑紙として捨ててしまった理由なんか。
よくできた小説だと思う。とてもよく練られているし、様々な仕掛けが効果的に作用して、小説として成功を収めている。堅牢な構造があり、これほど大部の小説が、驚くほどすっきりと、綺麗にまとまっている。過去作の執筆から学んだ反省が生かされているように感じる。たとえば「ねじまき鳥」の奥さんに逃げられた無職の主人公。かれが右往左往、過剰に「意味」を求め続ける姿に対して、おれはどうしても苛立ちを覚え、だから何なんだ。何をしようとしているわけでもないあんたが、そんなに意味を求めることに、それこそいったいどんな意味があるんだ。と、うんざりさせられないでもない。ところが「1Q84」の天吾くんは、かれもまた過剰に意味を求め、やはりまるで自分探しみたいなことに明け暮れるのだが、小説の構成が機械仕掛けのようにきっちりと働いて、青豆との「愛」へと集約してゆくため、説得力をもってくる。あるいは、説得力をもつように見える。
「風の歌を聴け」のラストにまるでラヴクラフトを想わせる作家のエピソードが付け加えられているが、「1Q84」に登場するリトルピープルは、まるでラヴクラフトのク・リトルリトル、すなわち、暗黒神クテュルフを、個人的には、どうしても連想してしまう。むろん、リトルピープルは(完全な)邪神ではないのだが、その不気味さや恐ろしさは、どこか深いところでク・リトルリトルと繋がっているように思えてならない。村上春樹とラヴクラフト。一見正反対な気質の作家に、驚くほど似た部分があることは興味深いと思った。個人的にね。
そしてこれは誰でも思うことだけど、おれなんかもBOOK1だけ読んだ時点で、ハルキ大人になったなあと感心して「しまった」と思ったのだけど、けっきょく天吾くん、もてもてのやりまくりである。四十代熟女から十七歳の女子高生まで、好きなときに好きたところで好きなことをしてくれる。寂しいときは慰めてくれるし、困っていれば助言を与えてくれる。当然のように、同じベッドで寝てくれる。そして必要なくなれば、後腐れなく消えてくれる。ラストは真実の愛に巡りあったところで、めでたしめでたし、となる。むろん、緊密な構成がその都合のよさに説得力をもたせ、小説として成功させているのだが。それに村上春樹が爆発的に指示され、これでもかというほど売れるのは、このいわゆる「チートさ」ゆえではあるまいか。またか、という批判的な声は、多くの待ってました! という声のごく一部に過ぎないのかもしれない。
男性か女性かわからない。文庫本を捨てた人がなぜ途中で読むのをやめたのか、やはり判らない。たしかにBOOK2あたりを読んでいて、こんなにややこしくて薄気味悪い非現実的な小説が、どうして売れて売れてしょうがないほど売れたのだろう。と、さすがにおれもため息をついたのは事実。過剰な意味の洪水の中から自身にとって幸運な要素だけを嗅ぎ取ろうと躍起になっている主人公たちに辟易させられることが、たびたびあった。「ねじまき鳥」と同じように。
八王子駅の裏側はまだ工事中である。
おれは安物の雨合羽を着て、冷たい雨にしょぼしょぼ濡れながら立っている。そろそろ暗くなってきて、書店の灯りはいかにも暖かそうに漏れてくる。ひと夏を過ごしたせいか、ベストセラー本のポスターは少し色あせて見える。けれどひと夏を過ごしても、ベストセラー本は高々と積まれたまま、今も誰かの手でレジカンターへ運ばれてゆく。
おれは濡れた軍手に白い息を吐きかけながら、ガラス越しにそれを見ている。