オオスズメバチ
蜂がいるんだな、というのは判っていた。
工事帯のちょっと先。坂から降りてきたらしい一人の女の子が、路地を覗きこみながら、おっかなびっくりした仕草。制服姿の中学生だ。
その路地は、植え込みの間を通り抜けると、階段に出る。近道に使う人もけっこういるので、最初ぼくは、蜂が恐ろしくて入れないのかと考えた。
とはいえ、こちらは工事中。今にも工事帯からはみ出しそうな勢いでユンボ(※注・パワーショベル)を乗り回すおっちゃんに、警備員のぼくは右往左往させられているところ。
そんな忙しい目にも止まるほど、少女の仕草は、一風変わっていたといえる。背丈の成長に、まだ脂肪の充実が追いついていない感じ。お下げ髪で、眼鏡をかけ、マスクをつけていた。
蜂が近づくやいなや、無闇に手を振り回す。というのが、ぼくの東京人に対する偏見。こちらが攻撃しない限り、やつらのほうでは、決して無闇に人を刺したりしない。肩にとまろうが頭にとまろうが、じっとさえしていれば、そのうち何もせずに飛び去ってしまうのに。
あと、東京人は驚くほど虫の名を知らない。とも思っていた。ミンミンゼミもアブラゼミも、かれらにとってはセミに過ぎず、キリギリスもショウリョウバッタも、かれらにとってはバッタに過ぎず。まして前者がカマキリのように他の昆虫を補食することなど、本当にどうでもよく。ただひとくくりに、虫という異界に棲むものたちの存在を、漠然と認識しているに過ぎない。
という偏見を抱いていた。
彼女はまだ、蜂を見ている。
握った両の拳を胸にあてたまま。
ようやく彼女は歩き出した。路地へは入らず、こちらへ向かって坂道を降りてきた。おっちゃんは相変わらず、ユンボをぶん回しているので、気が気ではない。ちょっと「あぶなそうな」子が接近してきたとあれば、なおさら。
「はい、ストップ。歩行者です」
歩行者用に空けてある、狭い通路に彼女がさしかかったところで、ぼくはおっちゃんを制した。躊躇っているふうの少女に対して、営業用の笑顔で「どうぞ」と言う。
二秒、三秒、と、彼女はその場に立ち止まったままだ。
こちらとしては、荒れ狂うユンボを必死に止めている身なので、一刻も早く通り抜けてほしいのが本音。営業用の笑顔も引きつろうというもの。
「オオスズメバチがいたんです」
いきなり少女は、そう言ったのだ。
もしこれが漫画だったら、ぼくの目は点になり、「へ?」とか何とか、間抜けな合いの手を入れるべきところ。しかし実際にそんな態度はとれないし、おもいきり真顔で、
「はい」
と、これはこれで、間の抜けた返事をしてしまう
瞬時、頭をよぎったのは、彼女は蜂が怖くて路地に入れなかったのか、ということ。
まったくもう、これだから東京人は。スズメバチだろうとクマンバチだろうと、そっと通り過ぎさえすれば、まず絶対に攻撃してこない。それにスズメバチなんて、どれも大きいに決まっている。わざわざ「大」をつける必要があるのか、云々。
しばしの間のあと、彼女は言葉を継いだ。
「刺されないように、気をつけてください」
あまりにも意外な一言を受けて、再びぼくは戯画と化した。「ありがとうございます」と言うのが、やっとだった。
少女の後ろ姿が、足早に坂道を降りてゆく。
「なんだって?」
ユンボの上から、茶髪でパンチパーマのおっちゃんが尋ねていた。
「あの辺りに、スズメバチがいるそうです」
「へえ、そりゃあやばいな」
「気をつけるように言われました」
「へえ、そりゃあ気をつけないとな」
彼女が去って行ったほうを見下ろして、ぼくはつぶやいた。
「今どきめずらしい、いい子ですよ」
休憩時間にスマートフォンで調べてみると、スズメバチの標準名が「オオスズメバチ」であることがわかった。ぼくはそのことを、ずっと知らずにいた。
風変わりな少女の言葉は、正しかったのだ。