第六話:世界の法則 前篇
「…………不憫だわぁ」
どこまでも清廉な白さを湛え、緩くウェーブがかかった髪を指先に絡ませながら、三日月に寝そべるようにして空中を漂う女――月の女神シュエリスが、ため息交じりに呟いた。
薄い褐色の肌を乳白色の薄衣で隠してはいるものの、やたらと丈が短いそれからは、彼女の肉感的な太腿から下が露出しており、足をゆっくりと組み替えるたびにその内側までもが白日の下に晒されそうになる。
「アルス。いつまでこのようなことを続けるのです?」
妹神が憐憫の情を向けたのに対し、深淵を除くことが不可能なほど深い青の瞳から俺に鋭い視線が向けられ、時空の女神リュカゥは腰に手を当てて怒りをあらわにした。
シュエリスのそれよりも長く、艶めく濃いブルーの髪が彼女の怒気によって持ち上がっていた。ついでに薄い羽衣もめくれそうになっているのだが、それを指摘するとリュカゥが困ってしまうだろう。
俺は二人の女神の視線に気づかない振りをして、三人の人間――かどうかも怪しい存在に注意を戻した。
「くっそ……いくら勇者だからって、スペック高すぎだろ! こんなんより強くなれとか無理じゃん! つーか女神貸せよマジで!」
肩で息をしながらも悪態をついているのは、黒髪を逆立てた異世界人だ。三人の中でもっとも背が高く、十五歳にしては身体が出来上がっていた。髪と同じく黒い瞳は魔族のそれを彷彿させる。二重瞼に丸い鼻、薄い唇に尖った顎。均整の取れた肢体の全てが気に食わないからではないが、散々に木剣で打たれて全身あざだらけの少年――名前は確か……いいや、忘れた。
「……女神の力では邪神を討つことはできないそうだ。英雄なら自分でなんとかしろ」
最近どうも、物事を思い出すのが億劫になってきた気がする。
英雄だからといって、特別に力が強いわけでもないガキどもに剣術を教えるようになって早三か月。まだ俺から一本とれる気でいる若造を見下ろして吐き捨てた。
「くそ! 『モニター』に当たって、『バグ技』使って『英雄モード』で入ったのに! 抜け出せない上に勇者の方が強いってどういうことなんだよ……」
時々こいつらは、悪態以外に意味不明の言葉を吐く。いちいちそれの意味を訊ねるのも面倒なので気にしないことにしているが。
「ちょっとユーキ! シーッ!」
人差指を立てて口に当て、蛇の魔物の鳴きまねを始めたのは背の低い女だ。こいつも異世界からやって来たとかいう存在で、ユーキと呼ばれた少年と同じく髪の色は黒だ。それを左右に分けて縛り、「ついんてえる」と呼ぶらしい髪形を造っている。目の色が青っぽく見えるのは、「からこん」だそうだ。
座学の際、王城の文官どもが珍しい品に惹かれてあれやこれやと質問するのに楽しげに答えていたが、剣術指南役として呼ばれた俺としては、こいつらの文化や持ち物などすこぶるどうでもいい。
「ミサミサ。こいつらそういう単語には反応しないもん。勇者アルスは『エヌピーシー』だから、大丈夫だって」
「ハシモトうるさい! つーかミサミサって呼ぶなキモデブ! 私たち、もう何か月もログアウト出来てないんだよ? 向こうじゃ死んでるかもしれないんだよ!? あんたわかってんの?」
「ぎゃははは! そんなラノベみたいな話あるわけないじゃん! 死んだら知覚できないもん。僕らがこうして『プレイ』できてるのが、何よりのしょーこ!」
アゼリア国王都から北へ三十分も歩くと森が切れ、広大な敷地が練兵場として確保されている。魔王の死からわずか一年で、再び魔物と戦争状態になったアゼリアでは、騎士団や守備隊が訓練に勤しんでいる余裕はない。
草原に吹いてきた強い偏西風に、目を細めながらも下品な笑い声を上げたのが、三人目の英雄様だ。よく肥えた腹を抱えているとは思えないほど俊敏に動く。眼鏡をかけているのだが、彼の激しい動きでそれがずれることもない上に、破壊不可能な素材でできていることに驚かされた。
「それよりもさあ、女神関連の『イベント』を早く進めたいよ。シュエリスちゃん……ぐふふ」
「……今度あたしにそのヒキガエルみたいな笑顔を見せたら……月を顔に墜としてあげるわ……」
下品を通り越して下卑た視線をシュエリスに送ったハシモトは、女神の冷徹な視線を受けて「うへへっ。怒った顔もかわいい~」と喜んだ。それを目にした月の女神が、こっちを確認するように見てきたため、俺は首を横に振った。
「なになに? 二人でアイコンタクト~?」
ぐふぐふと笑いながら、太った身体を揺するハシモトを見て、シュエリスは姿を消した。
やめておけ、ハシモト。シュエリスは本気だぞ。
「隙あり――へぐっ!」
ヒキガエルが潰れる瞬間を想像して吐き気を催して口許を抑えたのだが、それを隙と見たのだろう。ユーキが木剣で突きを繰り出した。
ユーキと俺の身長差では、心臓を狙うのは難しい。もともと避けられる可能性が高い目や首などもっての外だ。剣技で明らかに差がある相手に対して、斬撃の類は無効と思っていい。
最小限の動作で、最大の攻撃を。
口では悪態をつきながらも剣の教えは守っているようだった。
ユーキの突きは間違いなく三か月前より速く、重くなっており、正確に俺の腹を狙っていた。
だが、それでも鈍重に過ぎる。精霊や女神の力を借りるまでもなく、俺は突きを躱してユーキの脳天に木剣を叩き落とした。それはもう、最大限の手加減をして。
「くそっ! また傷が……」
異世界からやってきた少年がへたり込み、打たれた頭を押さえながら、反対の手で草原の草をむしって口へ運んだ。それが口に入る直前に青く光り、口中に放り込まれる光景も見慣れたものだ。
しかし何度見ても恐ろしいのはそれを咀嚼して飲み込んだユーキの身体が青い燐光を放ち、それが消えると同時に身体の痣も消え、脳天の傷も治癒してしまうという光景だった。
この世界の神の力も持たず、聖霊も精霊すらも見ることができない彼らだが、「英雄」としてこの世界の法則を無視した能力を有しており、その一つが今見た「薬草生成」だそうだ。
まったく意味が分からないが、要するにその辺に生えている植物なら何でも薬に変換できるのだそうだ。
この世界にも薬師を生業にしているものがあり、彼らは傷を癒したり、痛みを和らげる効果のある薬草の栽培、精製を代表とし、他にも精神の感応性を上げて精霊とリンクしやすくするなど、様々な効果を生み出す。
それを為すには、薬師たちの門外不出のレシピが必要なのだが、英雄たちはそれを無視してその辺の雑草を薬にできるのだ。
様々な能力を発動するのに、「えむぴー」とやらを消費するらしいが、何のことかやはりわからない。
「ユーキ、また生成速度上がったんじゃない? そんなのの練度上げてる暇があったら、もっと強くなんなさいよ!」
「毎日痛めつけられて、城の薬草使ってたらよ。薬師のおっさんが在庫切れでヒイヒイ言いだしたから自前で作ってんだよ。別に意図的にこれだけ育ててるわけじゃない」
夕暮れ時になって、剣術の訓練が終了した。
王城へ引き返す道すがら、ミサミサとユーキが意味不明の会話をしていた。
「はあ~しかし三か月たってもまだ一本も取れねえ。『勇者と修行』のイベントって難易度最低レベルだろ? 邪神の討伐とかどんだけなんだよ。これがファーストイベントじゃ、クリアーする前に萎えちまうぜ?」
「英雄モードでスタートすること自体がバグだからね。その辺の設定もおかしくなったのかもしれないわ。ストーリーイベントは個別に進むからいいけど、あたしたち以外にもモニターは沢山いるはずなのに、『広場』に行ってもまったく出会わないっておかしくない?」
「へっへっへ。それなんだけどさ、実は僕、わかっちゃったんだよね~」
「なんなのよキモデブ。もったい付けないで言いなさいよ」
「……いいの?」
「あ……。じゃあ、チャットで」
相変わらず細部がよくわからない会話を経て、彼らは唐突に押し黙った。
静かになった機会に、俺は英雄たちの会話について考えてみた。
ミサミサは、この世界にやってきた英雄が自分たちだけではないはずだという説をたびたび主張しており、そこから何がしかの考察が生まれそうになると、「チャット」とやらを始める。これが始まると三人は黙りこくってしまうのだが、きちんと意思疎通が図られているらしかった。
他にも「○○イベント」や「ステータス」、「技能」、「クリアー条件」などの単語が出た後に議論が深まりそうになると、彼らは度々チャットの世界へ入って行った。
念話の類なのだろうが、俺たちには聞かせられない内容を相互に伝達していることは間違いない。世界を救いにやってきた英雄のくせに、いったい何を企んでいるのだろうか。
さっきハシモトが言ったように、彼らがそういう単語を使って会話を初めても、俺たちがそれに参加することはない。知らない単語だし、興味がないからだ。だがこう毎日わけのわからないこと話を聞かされていると、嫌でも考えてしまうというものだろう。人は、知識に対する欲求を抑えることができないという学者もいる。
いっそ締め上げて、何を話しているのか吐かせてやろうか――。
俺の中に、どす黒い感情が湧き上がった。
奴らがこの世界に現れたことがきっかけで、俺は仲間を失った。自業自得なことは分かっているし、奴らに向ける暗い想念が八つ当たりに過ぎないことも十分承知している。しかし、それを割り切って剣術指南なんて茶番に付き合うのも限界だ。
俺は踵を返し、忘我の表情で歩いている少年たちを振り返った。チャットの世界に入っているときの彼らは普段以上に隙だらけだ。俺なら寸毫もかからず、妙な能力で薬草を作り出す間もなく、訳の分からないことをほざく異世界人を消去できる。
俺は剣の柄に手をかけることもなく、手刀に力を込めて振り上げ――
「――なん、だ?」
急に感じた悪寒に驚き、俺は硬直した。
俺は、昨日も同じことを考えなかったか?
間違いない。俺は昨日もこいつらを殺そうとした。という感覚だけはある。英雄どもが吐く謎の言葉も初耳ではない。しかし、それについて何を考えたのか細かいところは思い出せない。だが間違いなく、この殺意だけは覚えている。
既視感――それで片付けてしまうには、その感覚は現実的すぎた。
たしかに俺は、英雄どもの会話を聞いて、奴らが住んでいた世界について何かを考えた。それとともに殺意が膨れ上がって、そして――
「殺した……はずだ」
はっきりと思い出した。俺はこの三人を殺した。あのときは練兵場を火の海にしてやった。そういえば捕まえてきた魔物を使って訓練しているときに、後ろから魔物ごと消し飛ばしてやったこともある。
そうだ。一昨日なんて、この手で首の骨を折ってやったじゃないか。太った奴はどこが頸椎か触って探すのは面倒だったから、頭部を粉砕してやった。恐怖に叫び声を上げたミサミサの口にブーツのつま先を突っ込んだら、勢い余って後頭部まで突き抜けてしまったのには笑ったもんだ。
何度も何度も、俺は英雄たちを殺した。
ならばなぜ、こいつらは生きて――
「…………不憫だわぁ」
どこまでも清廉な白さを湛え、緩くウェーブがかかった髪を指先に絡ませながら、三日月に寝そべるようにして空中を漂う女――月の女神シュエリスが、ため息交じりに呟いた。
「――――?」
シュエリスが足を交互に組み換えながら、「ねえ?」とでも言うようにリュカゥを見やると、彼女は俺を憐れむように見て頷いた。
「アルス。いつまでこのようなことを続けるのです?」
「いや……俺は……」
「くそ! また手も足もでなかったじゃねーか! このループ、なんとかならねえのかよ!?」
何かがおかしい。
名前も忘れてしまった異世界人の一人が、悪態を吐きながら突きかかってきた。俺は強烈な違和感を感じながらも、その脳天に木剣を叩き落とした。