最終話 勇者アルス 後編
少々長くなってしまいました。途中「?」となっても最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
【アルス:どのくらいだ?】
現実の俺に残された時間はあと、どのくらいだ?
訊ねてはみたが、すぐ後悔した。答えを聞くのは怖い。自分で長くないと思ってはいても、所詮現場を見ていない俺の認識は甘いものだ。現実を知る人間からはっきりと「時間がない」と告げられるのとはわけが違う。
【Unknown:あとわずか、としか言えないわ】
【アルス:なんだよ、医者のくせに】
【Unknown:医者だと名乗った覚えはないわ】
目の前に居るやつとチャットで会話しているなんて、奇妙な感覚だ。ちょっと待て、ツァンは医者じゃないのか? ……ダメだ、思考がまとまらない。
【Unknown:あたしの職業なんてどうでもいいでしょ。……病院のカメラで見る限り、あなたの容体は確実に悪化しているわ。そろそろ決めるのね】
【アルス:決めるって、何を】
【Unknown:現実世界へ帰るのか、邪神を倒して彼らを、世界を救うか】
両方は、叶えられない。
ツァンはそう付け加えることをしなかった。
黒衣の女神は、いつの間にかこちらを憐れみの籠った目で見ていた。現王園がこっちに居た頃の、妖しい光を放つ目ではなくなっていた。
【アルス:邪神を倒したら、この世界はどうなる?】
【Unknown:邪神を倒そうと倒すまいと、NOAⅡプログラムがこのまま稼働を続けるとは思えないわ。今回の事件の捜査が終了すれば、消去されるでしょうね】
俺だけがログアウトした場合、ユーキとミサはこの剣をもって邪神に挑むのだろうか。それとも、ツァンがどうにかしてくれるのだろうか。邪神はNOAⅡでボスキャラとして実装された存在だ。ツァンならどうにでもできるだろう。例えば、ものすごく弱くしてバッサリ殺させるとかな。
俺はその場面を想像した。なぜか、頭に冠を戴き豪奢なマントを羽織ったハシモトの尻を、ユーキとミサが蹴飛ばしている姿が浮かんだ。
予定通り、邪神を倒した場合はどうなる。
ユーキとミサは安全にログアウトできる。だが高い確率で、俺は帰還できない。現実世界で死を迎えれば、脳の活動が停止するのだ。俺は仮想世界を認識できなくなり、この世界から消える。
どちらにしても、最後の人質二人は安全だろう。
俺は、ユーキとミサを見て口元を引き結んだ。そして、彼らを背中に隠して佇むリュカゥを見た。
彼女は言った。
全てが終わったら、自分を消してくれと。
俺はあのとき、答えなかった。
スウェーデン所有のスパコンにアクセスしてリュカゥのプログラムを消去するためには、現実世界に帰って回復し、パソコンを操作しなくてはならない。だが俺は犯罪者として認識されてしまっている。当然自由にパソコンを使える環境に置かれることはないだろう。
邪神を倒すか、倒さないか。
どちらを選んでも、俺はこの世界から消える。
そして、リュカゥの望みは叶えられない。
俺だけを愛するように組まれたプログラムに従って成長したA.Iをもつ彼女は、俺のいなくなった世界を漂流する。そして、現実世界で捜査が終われば、NOAのプログラムごと消去される運命だ。さんざ世界を彷徨わされた挙句、突然訪れる消滅を待つことすら許されないのだ。
荒れ果てた神域で一人、膝を抱えるリュカゥの姿を想像した。
【アルス:俺は残る。邪神を倒して世界を救う】
【Unknown:そう】
ツァンにリュカゥのことを託すこともできない。彼女も今はスウェーデンのスパコンにアクセスできない上に、現実世界では人質事件の主犯として逮捕される運命が待っているのだ。
俺にできることと言えば、一刻も早く邪神を倒して、残された時間をリュカゥと共に過ごす。それだけだ。
【アルス:悪いな。ツァン】
【Unknown:なんのことかしら】
【アルス:『ブルー』としてやってきたことまで、お前だけが追及されることになっちまうからな】
【Unknown:気にすることはないわ。それにあたしは、そこまで間抜けじゃないつもりよ?】
【アルス:そうか】
俺はチャットルームを退室した。最後は声に出して伝えよう。俺はまっすぐに、彼女の黒い瞳を見つめた。
「ツァン……色々、ありがとう」
「…………」
ツァンは答えなかった。
「万が一の時は……頼む」
俺はツァンがくれた剣を腰のベルトに挿して、歩き出した。ツァンの横を通り過ぎたとき、彼女は俺にだけ聞こえる声で一言つぶやいた。驚いて振り返った時には黒衣の女神は姿を消していた。
「話はついたのですか」
ツァンが消えた空間から目を逸らしたリュカゥが、俺に向き直った。俺は黙って頷きを返し、ユーキとミサを呼んだ。おっかなびっくりといった様子で後ろから出て来た二人に声をかけた。
「色々と面倒なことがあったが、もう終わりにしよう。邪神を倒す。この剣なら、奴を葬れるそうだ」
「マジか! 勇者先輩さすがッス!」
「もー、やるなら早くやっちゃってよ!」
ユーキは手を叩いて喜び、ミサは口を尖らせた。
俺は巨大な扉の前で倒れている二人のNPCの身体を抱え、一つ前の部屋に移動させた。何が起きるかわからないし、大事な仲間だ。巻き添えをくったら可哀想だからな。
「準備はいいか」
俺は扉の正面に立ち、両手を腰に当てて振り返った。
「いよいよ、ですわね」
さんざん「どうでもいい」と言っていたリュカゥが身体から仄白いオーラを立ち昇らせた。
「つか、あたしも戦うわけ? ま、後衛だからいいんですけど」
どこに隠し持っていたのか――ああ、アイテムボックスだな――金色の弓矢を装備したミサが苦笑いを浮かべていた。
「シッ! シッ!」
以前、俺が託したバスタードソードを構え、突きを繰り出していたユーキが俺の視線に気がついてはにかんだ笑顔を見せた。
「お前たち、俺を恨んでないのか」
俺は、仮想とはいえ英雄たちを散々な目に遭わせた。その記憶は、実体験としてこいつらの頭に残っているはずだ。
「別に。なんだかんだ、助けてくれようとしてるし」
ミサは弓の弦を軽く弾きながら答えた。
「勇者先輩は悪くねーさ。俺が不出来な弟子だったからいけねえの。ま、教わったのは、これだけだけど、よ!」
ユーキの剣がまた空を突いた。なんだか知らないが、懐かれてしまったようだ。その姿に若かった頃の自分を重ねた。もう、余計な言葉はいらない。俺は正面にそそり立つ鉄の扉に手をかけた。
「さて……」
気配で、背後の三人の緊張が高まったのが分かる。
「これ、どうやって開けようか?」
背後で数名が倒れた。
邪神の攻撃か!?
◇
「さて……覚悟はいいか? 蒼」
「あのぅ……私、一条ですぅ……」
脳コンを外され、身体に繋がれた種々のカテーテルや検査器具からも解放された一条杏南は、目の前で凄む政府の役人――大泉 駿の眼光に怯えていた。
「ふん」
大泉は鼻で笑うと、急きょ病院内に確保した取調室でパイプ椅子の背を軋ませた。
「しらばっくれるな。さっき、自分で告白したばかりじゃないか」
「こ、告白って?」
一条は不安げに殺風景な会議室を見渡しながら質問した。まるで、自分が伝説のハッカーとして重罪に問われている自覚などないように見えた。大泉がモニター画面で見せていた妖艶な美女の迫力はなく、政府の役人に密室で詰問されるという状況に、ひたすら怯える若い女の姿だった。
「いいか、俺はお前たちみたいな泥棒猫を捕まえる仕事もしているんだ」
大泉は、飄々として掴みどころのない態度をやめ、いつも半月型にしていた目を細くして獲物を見る狐のような目つきで一条を見ていた。
「泥棒って何のことですか? 私、何も盗んでませんけど……」
「今更すっとぼけても無駄なんだよ。お前がVR世界で自分が世界屈指のハッカーだと自白したんだ。映像も記録として残ってる」
「それって、NOAⅡのことですか? 私、何も覚えてなくて」
かぶりを振る一条だったが、それを見た大泉はせせら笑った。
「はっ。覚えていませんなんて言い訳が通ると思ってるのか? お前の先輩先生だって、きっと証言してくれるはずだぜ?」
「先輩……? そうだ、現王園先生は――きゃっ!?」
二人は会議机を挟んで座っていた。現王園の名を聞いて立ち上がろうとした一条の目の前に、大泉の両手が叩きつけられた。
「先生は今、危険な状態だ。誰かさんがVR世界で無茶してくれたからな」
大泉は机に置かれていたリモコンを操作した。すると会議室に設置されていたモニターの電源が入り、青白い画面に何かが映し出された。
それは奇妙な映像だった。砂漠を背景に、白い石造りの建物がいくつか映し出され、整備された道を行き交う人々ややたらと首が長い鳥などが映っていたが、一つの建物の屋上に居る三人の男女を除く全てが制止していた。
白衣を着た男――明らかに背景から浮いている――が何かを必死で訴えているように見えたが、黒衣の女が少し手を動かすと、彼は耳を押さえて蹲った。
「見ろ。お前が仮想世界の依代をいじくったり、通信を妨害するから苦しんでいるんだ」
「そんな……私」
画面に映る黒衣の女を指差して言う大泉だったが、その容姿は現実の一条とは似ていなかった。身に覚えがありません。そう言って首を横に振る一条だったが、大泉は畳みかけるように口を開いた。
「お前の無茶のせいで、現王園は今、薬で眠ってるんだぜ? ……だがまあ、安心しろ。危険なNOAⅡからはログアウトできてる」
大泉はモニターを切り、立ち上がって長方形の机を回り込んで一条の前まで移動した。わざと、革靴の踵を床に叩きつけるようにして歩き、靴音を響かせた。もちろん一条を威圧するためだ。しかし鷹揚な態度を取ってはいるものの、大泉は内心焦っていた。
結局、ツァンが引き起こしたのは一部の監視用カメラの動作停止とほんの数秒間の停電――しかもスパコンが建造されたホールのみ――で、人質となっていた患者たちには何の被害も出ていない。病院側が、対外的には電気系統のトラブルだと説明したがっているのも頷ける。
巨額の予算を投じて始まったVR対策室の存在と力を世間に、いや世界に知らしめるためのハッカー狩りは、ツァンの逮捕をもって初めて成功と言える。世界最高性能のスパコンをいとも簡単にハッキングし、内部のプログラムはおろか隣接する病院のシステムにまで侵入した彼女の腕は本物だ。来るVR社会において本物の脅威となることは間違いない。
蓋を開けてみれば大した被害は出ていないが、千人の命がかかったサイバー犯罪など前例がない。しかし、一条がこのまま自白せず、彼女が確かに事件を引き起こしたとする証拠を掴めなければ、数千億円もする機械をと千人の命を危険に晒して大騒ぎした挙句、成果はなかったと報告するハメになる。
それだけは避けなければならない。大泉には実績が必要だった。政府は被害が出なかったことを強調するよりも、このプロジェクト自体を闇に葬りかねない。スパコンの利用価値は、他にいくらでもある。
現在のところ、仮想現実世界における発言や行動は裁判では証拠にならないのだ。一条が確かに今回の事件に関わったと立証することは困難を極める。そんなことが可能なら、とっくにツァンは逮捕されているのだ。現在も橋本博士以下VR対策室のチームが必死に彼女の痕跡を探しているが、成果は期待できない。
ツァンがNOAⅡにログインした際、自身の姿とは異なるグラフィックを使用したあたりも秀逸だ。一条が別人のグラフィックを見て、「私じゃない」という姿は、裁判員の目には自然に映るだろう。
ツァンの犯罪を立証するには、ツァンの自白に頼るしかない。
「なあ、もういいじゃないか。ツァン……」
大泉が猫撫で声を出した。
「俺は、お前のハッカーとしての腕を評価している。幸い大した被害も出なかった。お前さえ自白してくれれば、悪いようにはしないぜ……?」
大泉が必要以上に一条に接近した。汗の匂いが一条の鼻を突き、彼女が顔を背けたその時だった。
「室長!!」
会議室の扉が乱暴に開かれた。そこから飛び込んできたのはまだ若い、仕立ての良いスーツを着てはいるが、ワイシャツの胸元を大きく開けているために安っぽいホストのように見える男だった。
「どうした? 誰も入ってくるなと言っておいたろう」
一条に接近したまま、大泉は闖入者を振り返ることもなく訊ねた。
「電話です……その、PMからです」
PMとは政府特有の隠語でも何でもない。the Prime Minister すなわち行政の最高責任者、首相の略であり、我が国においては内閣総理大臣を指す。
「馬鹿! 早く渡せ!」
大泉が慌てて立ち上がり、差し出された形態をむしり取って耳に当てた。
「もしもし、大泉です! ……はっ、現在本人を拘留中でして」
怪訝そうにそれを見ていた一条と目が合うと舌打ちし、部屋を出て行こうと踵を返したときも、電話の相手はあれこれと話していたらしい。
「はい、はい? テレビを、でございますか?」
大泉が足を止め、リモコンを手に取った。先ほどとは違う入力画面が表示されるまでそれを操作した。
画面に映し出されたのは、一条が日ごろ目にすることのない時間帯のニュース番組だった。画面に踊るテロップは「緊急速報」だった。
「なんだ、これは……」
大泉はリモコンと携帯を取り落とした。彼はしばらくニュース番組を見ていたが、放送が終了すると力なく肩を落とし、黙したまま会議室を出て行った。
ほどなくして、一条杏南は解放された。
◇
「ったく……頼むぜ、勇者先輩」
「あんた、そんな冗談言えるキャラだったんだ」
盛大にずっこけた英雄二人が、衣服の埃を払いながら立ち上がった。
残念ながら冗談ではなく、こんな巨大な扉を素手で開けられる訳もない。簡単に開くものなら、とっくにイシュタルかハイドラが開けていたはずだ。
錆びた邪神殺し同様、ハシモトにしか扱えない扉だったということだろうか。それとも、最後のボスキャラが控える部屋に入るためには、神殿のあちこちで仕掛けを起動しなければならないとか。こっちの方が王道を行っていると思うが、その辺りはマニュアルの一つも読んでいないユーキとミサに訊いても分かるまい。
ツァンに訊ねてみようとチャットルームを覗いたが、Unknownは退室していた。こちらから連絡を取る手段はない。すでにログアウトしたのかもしれない。
「ま、とにかくリュカゥを待とう」
中の様子を探ってもらうため、物体を通過できるリュカゥが現在内部に潜入中だ。しかし、黙って待っていると、余計なことを考えてしまう。こうしている間にも、終わりは唐突に訪れるかもしれないのだ。少しでも、話しておきたい。そんな衝動に駆られてしまう。
「よし、作戦会議だ」
沈黙に耐えられずに言ってみると、二人は頷いて近くに寄って来た。
「いいか、邪神がどんな攻撃を仕掛けてくるかわからない。リュカゥと俺が正面で受けつつ、弱点を探す」
「その剣が、弱点なんじゃねーの?」
「これが有効かどうかは、もちろん試すさ。有効な武器であることと弱点は別の問題だし、一発くらわせたぐらいで倒せるラスボスなんて普通はいない。思わぬ反撃でお前たちが死んだら元も子もない」
「弱点なんて、なかったらどうすんのよ」
ユーキよりも、ミサの指摘の方が問題だ。
「弱点が無ければ、チクチク攻めるしかないだろうな」
邪神殺し以外の通常攻撃がまったく通用しなかった場合、ユーキとミサには部屋の外に出てもらうつもりだった。下手に動かれても足手まといだからな。
結局、邪神と相対してみなければわからないことだ。短い作戦会議が終わりかけたとき、鉄扉からリュカゥが半身を突き出した。
「……中は、もぬけの殻ですわ」
「なんだって?」
「開閉スイッチがありましたから、今開けますわね」
リュカゥが引っ込んでから数秒後、地響きに近い轟音を立てて扉が開いた。
観音開きになった扉の間に立つリュカゥの手招きに従って、俺たち三人は神殿の最奥と思われる部屋に侵入した。
「おーい!」
ユーキの声が、室内にこだまする。
返事をするものはない。
そこは、サッカー場二つ分はありそうな、巨大な白亜のドームだった。床も、壁も天井も全てが白であり、俺たちが入ってきた扉とその脇に据えられた赤いスイッチ部分以外、見える範囲でどこにも継ぎ目がない。どこの部屋も扉と廊下で繋がっていた邪神の神殿において、このドームが終着点と考えて間違い無いようだった。
入り口付近で立ち止まっていた俺たちに先行して、リュカゥがドームの中央に向かって進んでいく。
「おい、リュカゥ」
「大丈夫ですわ。一通り見て回りましたけれど、何も起こりませんでした」
女神であり地面に足を付けることがない彼女と、俺たちとでは条件が異なる。魔王の時はいきなり四天王が現れるという展開だった。邪神の部屋にしても、進んでいくと後ろ手に扉が閉まり、強力な魔物や邪神本体が急襲してくるなど罠が仕掛けられている可能性がある。
「とはいえ、黙って突っ立っていてもらちが明かない……か。よし」
俺はそろりそろりと足を踏み出した。
「俺が先行する。二人は少し待て」
リュカゥが待つドームの中央へ、ゆっくりと進む。しかし、何も起こらない。スイッチ床で回転させられたり、落とし穴が開いたり、突然テレポートさせられて壁の中で死亡することもない。徐々に警戒心は薄れ、早足でだだっ広いドームを進むこと一分ほどで、中央に到達した。
「アルス、足元を」
「おっと……なるほどな」
油断大敵。
リュカゥの警告を受けてたたらを踏んだ。俺は危うく、中央の床に描かれた謎の絵を踏むところだったのだ。
「これは……あれだな」
「ですわね」
床に描かれていたのはアンドリューが死んでいた祭壇にも飾られていた、複雑な形の角を生やした生き物の髑髏だった。髑髏を中心にいくつか螺旋模様が描かれ、その周囲を直径一メートルほどの円に囲まれていて、まあ魔法陣と呼べなくもないそれは、床の色とほとんど変わらない灰色であるため、よく見ないと気づかない。
明らかに怪しい床だった。
こういう場所は、触ったら発動する罠が仕掛けられている可能性が高い。少なくとも俺の感覚ではそうだ。
さて、どうする。
邪神が出現するなら、さっさと出てきてもらって倒さなければならない。だが違う種類の罠だった場合、時間のロスになってしまう。
「私が触ってみましょう」
「え?」
俺の逡巡に苛立ったのだろうか、珍しくリュカゥが、能動的に行動した。
「お、おい」
時空の女神は、音もなく魔法陣の上に降り立った。
「…………」
しかし、何も起きなかった。女神とプレイヤーキャラでは属性が違う。やはり俺が触れてみないとダメだ。
「ユーキ、ミサ。こっちに来てみろ」
何か起きた時にあまり離れていると困る。呼ばれたユーキとミサが、小走りに駆けてきた。
「おわっ!?」
「きゃっ!?」
「なっ!?」
謎の絵画まであと一メートルというところで、ユーキが転んだ! そのまま倒れ込み、手を突きそうになるところを支えてやった。
「……わざとか?」
「なわけないじゃんよ――いてっ!?」
「もう、しっかりしてよね!」
恥ずかしそうに身を起こしたユーキ。後ろから近付いてきたミサがその後頭部を叩いた。
「……あ」
衝撃に驚いてたたらを踏んだユーキのつま先が、絵画を囲む円に触れた。
「……ユーキ?」
踏まれた魔法陣自体には、何の変化も起こらなかった。
しかし、魔法陣を踏んだ本人は違った。
「なんで、なんであんたが……」
ユーキは尻もちをつき、魔法陣の中心から上の方、リュカゥが浮いているあたりを見つめて後退っていく。扉を潜る前は精悍な顔をしていたが、今は恐怖に歪んでいた。そのような目で見られたのが不快だったのか、リュカゥはユーキの視界から離れて彼の背後に移動した。しかし、ユーキの視線は何もない空間に固定されたままだった。
「やめろ……来るな! 来るな!!」
「おい、ユーキ! しっかりしろ!」
「ダメだ! 来るなあ!!」
正面から肩を掴んで揺さぶるが、何の効果もなかった。
「やだ……なにこれ」
「わからん。魔法陣の効果としか思えないが、とにかく触れるな」
「嘘……こんなの嘘よ」
「ミサ?」
てっきりユーキの状態を見て声を震わせていると思ったが、ミサはユーキを見ていなかった。両拳を口元に当てておののいている彼女もまた、魔法陣の辺りを凝視していた。
「おい、どうしたって言うんだ!?」
「二人とも、幻を見ているようですわね……」
「だが、ユーキはともかくミサは魔法陣に触れていない……まさか」
こいつは、伝染する?
そう思った瞬間、周囲が真っ黒に塗りつぶされた。
「!?」
終わりが来たのか?
いや違う。
俺は左右を見渡して、自分の命がまだあると判断した。死んだら終わりだ。俺の脳が仮想世界を認識できなくなったらすべて終わり。俺を取り囲むこの闇ですら認識できないはずだ。
「くそ! リュカゥ! 聞こえるか!?」
俺の叫びに答えるものはなく、それは真っ黒な空間に吸い込まれて行った。さっきまで話すたびに音が反響していたことから考えると、場所を転移させられたか。……そういうことではないだろう。ユーキとミサと同じように、俺もあの場に留まっているはずだ。魔法陣の効果によって、幻を見せられているんだ。
二人の様子からして、強い恐怖心を煽るものを見せられるのだろう。なるほど、「邪神と戦う前に、己に打ち勝つ勇気を試す」的な試練というわけだ。もしかすると、これ自体が邪神の攻撃かもしれない。
「お?」
どこを見渡しても真っ暗闇だったが、唐突に灯りが現れた。そこには、見慣れない形のベッドがある。誰か寝ているようだ。しばらく遠巻きに眺めてみたが、それきり何の変化も訪れなかった。
「……上等だ」
あれが罠だろうが、邪神だろうが近づいて正体を確かめるしかない。俺はまさに背水の陣を敷いている。今更怖いものなどあるものか。
早足でベッドに近づいた。無音だと思っていたが、シューシューと空気が漏れるような音が聞こえてきた。何やら甲高い電子音も。俺が近づけば近づくほど、ベッドの周囲には様々な機械が出現した。
「……なるほどね」
ついにベッドのすぐそばまで到達した。
寝かされている人間の顔を見ようと覗き込むと、身体はうす掛けの毛布で隠されており、顔には白い布がかけられていた。迷わずそれを取り払う。
「そうきたか」
布の下の顔は、アンドリューだった。てっきり俺の顔だろうと思っていたのだが、妙な方向に捻りを入れてきたものだ。
急に苦悶の表情を浮かべたアンドリューが起き上がり、ベッドの柵を越えて俺に迫ってきた。毛布がずるりと落ち、露わになった彼の身体は病的なまでに痩せていた。性も根も使い果たし、魔物の手にかかったのだろう。筋層に至る傷が無数にあり、ところどころ骨が露出している箇所も見受けられる。青黒く固まった血液の匂いが鼻を突いた。
それは、恐怖映像であることは間違いない。だが本来の記憶を取り戻した俺は、彼らがNPCであることを知っている。勇者アルスとしてなら耐えられないかもしれないが、羽鳥正孝は現実を生きる人間だ。アンドリューには悪いが、この程度で俺をパニックに陥れることができると思ったら大間違いだ。
「…………」
ゾンビ映画よろしくガクガクとした動きをしていたアンドリューが、首をがくんと後ろに倒して止まった。さて、お次は何だと思った俺の耳に、誰かの声が響いた。
「もとよりお前を、どうこうしようとは思っていない」
声は、目の前で静止しているアンドリューの頭部から発せられていた。
「誰だ」
「邪神ミュステファ――そんな名を与えられたものさ」
まさか、邪神と会話することになるとは思わなかった。だが、のんびりとそれを楽しんでいる時間はない。
「お前が邪神なら、やることは決まってる」
俺は腰の剣を抜いた。
どこから降ってくるのかわからないが、ベッドとその周囲を照らす光を反射して、刀身がギラリと輝いた。
「お前を倒して、ゲームを終わりにする」
「俺を、倒す?」
「!!」
顔が見えないほど後ろに傾いていた邪神の首が、突然正面に戻ってきた。
「な……貴様……その顔は」
「殺すがいい。その剣で」
アンドリューを模していた邪神の顔消え、代わりに現れたのは見知った顔――というには少々様変わりした、俺の顔だった。
黒髪は長く伸び、油っぽく固まって額や頬に張り付いていた。額には髪の毛の他に、何色かのケーブルに繋がる数枚のパッチが張られていた。白く濁った眼は一応開かれているが、明らかに焦点が合っていない。その目がぎょろぎょろとあらぬ方向に動いた。
「どうした……やれよ」
一歩、邪神が踏み出した。
喉から飛び出ている管のせいか、ごぼごぼと濁った声だった。
「こんな病人一人、勇者であるお前ならわけないさ……」
邪神がさらに踏み込む。
額に貼られたパッチが引っ張られて数枚剥がれた。むくみでグズグズになった肉をいくらかもぎ取っていったらしく、どす黒い血がそこから垂れ始めた。奴の背後では計器類が激しく鳴り響いている。
また一歩。自らの出血でできた血だまりを邪神が踏んだ。湿った音に目をやれば、そこには筋張って骨が浮き出た足の甲があり、つま先からどす黒く変色した指が二本脱落した。そこからは出血すらない。さらに湿った音が続き、股間のあたりから細い管が落ちた。
「どうした……怖いものなんてないんだろう?」
いつの間にか、邪神の顔が目の前にあった。すさまじい口臭に思わず顔を背けた。
「お前は勇者じゃない。自分でそう認めただろ……病院のベッドで死にかけている、ただのVRT患者だ」
「違う……俺は、俺は」
「違わないさ、ほら」
「!!」
邪神の左手が、俺の右手を掴んで持ち上げた。奴の手の皮膚は血の気が引いて、白どころか灰色だった。巻き爪の部分が腐っているのだろうか、俺の右手に食い込んだ指先から黄色い汁が吹き出し、すさまじい悪臭が漂う。
「こんな手で、剣が振れるのか?」
持ち上げられた俺の手は、目の前の化け物と同じだった。
◇
「……あれ?」
次の瞬間、俺の目に飛び込んできたのは白い塊だった。顔の右半分がそれに埋もれているらしく、左半分しか見えない。
同じく右半身が柔らかい何かに押し付けられている。
消毒の匂い。
規則的に聞こえる電子音。
左目に映るのは、アルミ製の柵とその向こうで僅かに揺らいでいるクリーム色のカーテン。カーテンの隙間から、時おり白衣を着た人が行き交う姿が見えた。
「…………」
病院のベッドだ。
俺は今、病院のベッドに寝かされている。
痺れたようだった頭の芯が急激に冴える。
手足は……動く。
右手、左手、右足、左足。身体にかけられているらしい毛布の下で、指を一本一本丁寧に曲げ伸ばしした。
邪神を倒すことはできなかったのか。ユーキとミサはどうなった。
すぐに起き上がって状況を確かめたいところだが、下手に動いて騒がせたくない。現実の世界の俺は、犯罪者として扱われるはずだ。
「……!!」
足音が近づいてくる。俺のベッドを囲むカーテンの前で止まった。隙間が狭くて顔までは見えないが、カーテンの下から白いパンストとスニーカーが覗いている。看護師だろうか。
目を閉じ、寝息を立てているフリをする。
カーテンが開閉される音、次いで、足音がさらに近づく。ベッドを回り込んで、背後に立たれた。もう少し近づいてきたら、組み付いて口を塞ぐ。現実世界の俺は死にかけている。こんな風に自在に身体が動くわけはない。
なるほど、邪神の幻覚はよくできている。恐怖のどん底に叩き落としておいて、「実は夢でした」というオチで安心したところでズブリとやるつもりなんだ。
「……狸寝入りなんて、らしくないじゃない?」
女の声がした。聞き覚えがあるようなないような。それはどっちでもいいが、奴の言葉はカマかけだ。寝ているかどうかなんて、傍目にはわからないはずだ。
「かわいくないわね。脳波をモニターしているのだから、あなたが起きてるのはわかってるのよ?」
ハッとして額に手をやる。が、そこには少々油っぽい皮膚の感触しかない。
「……」
「ほら、やっぱり」
ため息と共に、半身を起こした。左側を向くと、そこにいたのは白衣に袖を通した知らない女だった。
「……誰だ」
「誰って……何よ。一年も眠ったままでいて、やっと起きたと、思ったら!」
「うい!? ちょ、ちょっと」
一条が飛びついてきた。俺の胸元に顔を押し付け、それでも抑えきれないのか嗚咽を洩らし始める。
「うっ! やっと、やっと目覚めてくれた……あた、しの、青い鳥……」
「いや、えーと……」
古今東西、女の涙は最強兵器だ。
抱き付いてきた女は一条杏南、すなわちツァンだった。
NOAⅡにログインしたときのグラフィックとは異なり、現実の一条は茶髪だった。当然、声もシュエリスのものじゃなかった。妖艶な響きなど微塵も感じさせない、ちょっと間の抜けたたような、鼻にかかったソプラノだった。
彼女が言うには、邪神との戦いに挑んだ俺たちは、散々な目に遭いながらもこれを撃破に成功した。無事に三人ともログアウトできたものの、俺だけがなかなか意識が戻らず、それから一年も昏睡状態だったそうだ。
目覚めない原因は、長期間VR世界を体験したことによる脳の損傷が原因と診断された。皮肉にも、俺たちが仮想世界で体験したことが身体にフィードバックされるという現象の謎を解明し、治療に応用する技術が開発されたそうだ。
VR対策室が掲げた仮想世界移住構想には、実は一部の政府高官と裏社会の大物フィクサーが絡んでおり、ツァンの行動によってそれらを明るみに出すことに成功したそうだ。
ツァンは結局、一人も死人を出すことなく、さらに新たな治療技術の開発に惜しみなく協力した功績を認められ、観察付きではあるが自由の身になったそうだ。そしてそのまま、俺に新治療を施すために真医会病院で仕事を続けている。
ユーキとミサも元気だそうだ。時々病院に顔を出してくれるらしい。ハシモトは母親と共に海外へ移住したらしい。
現王園は、世界中のVRT患者を救うためにあちこち飛び回っているとか。
そして俺は、ミサとユーキを救い出し、ツァンの口添えもあって保護観察処分だそうだ。今も、集中治療室の外には警官が詰めているらしい。
「一年間……長かったわぁ」
ベッドサイドに椅子を持ってきて、ツァンがリンゴを剥いている。新技術の応用で順調に回復している俺は、消化管の機能も良好だそうだ。鼻をくすぐる甘い香りを嗅いで、肚が鳴った。
「ツァン……」
「なあに?」
肚の虫を聞きつけてクスクスと笑うツァンに話しかけた。
「迷惑かけた、な」
「あなたね、年下のくせに口のきき方が生意気なのよ……それに」
剥き終わったリンゴを一口大にカットしながら、急に真面目な顔になった。
「あたしはね。一条杏南っていうの。……『杏南』でいいわよ?」
「よせやい」
俺はリンゴを一つ、ひったくるように取って口に放り込んだ。妙に味の薄いリンゴだったが、久しく口から物を食べていないんだ。こんなものだろう。
カーテンを開けて窓の外を見せてもらった。日が落ちて、病院の周囲には夜のとばりが降りていた。季節は春。病院から幹線道路へとつながる道にはたくさんの桜が植えられていた。
「……外に出てみたいんだが」
「いいんじゃない? でも、少しだけよ?」
歩けると言ったのだが車いすに乗せられ、怪訝な表情の警官のおまけつきの散歩が始まった。中庭、桜並木を見て、お次は屋上だ。
「まさか、生きて空を見上げる日が来るなんて」
「嫌ね。潜水艦乗りみたい」
二人で声を上げて笑った。
「なあ、NOAⅡの……プログラムはどうなったんだ?」
「もう捜査は全て終わって、凍結してあるみたいよ。大泉と一緒。闇に葬られたってところね」
「そうか……」
プログラムファイルを凍結したということは、あの世界では時間が止まったということだ。リュカゥは停止させられた間の出来事を認識していなかった。あの世界のどこかで凍り付いたように動かない彼女を想像すると、胸が痛んだ。
共に戦い、心を通わせた仲間たちと女神たち。
いつか、あのプログラムを復活させたいと思いながら、俺は空を見上げた。
「……杏南」
「なあに? ――あぐっ!?」
足の感触を確かめるまでもない。俺は立ち上がり、左手で一条杏南の喉元を掴んで締め上げた。
「ちょ……まさ、たか」
「気安く呼ぶなよ…………ミュステファ」
締め上げられて苦しげに歪んでいた顔がブレた。すぐに元のきれいな顔立ちに戻り、息苦しさなど全く感じさせない笑みを浮かべて口を開いた。
「……くくくくくくくくくく。なぜ、わかった?」
ソプラノではなく、ごぼごぼと液体を喉に溜めているような、濁った声と悪臭が復活した。周囲の景色は一瞬にして空に溶け、再び俺は真っ暗闇に飲み込まれた。
「月だよ」
「なんだと?」
NOAⅡの仮想世界から、月が消えたのはずっと前の話だ。俺は春の空を見上げて星の位置と月の満ち欠けを計算できる。屋上で見上げた空には、下弦の月が見えていなければならなかった。
だが、月はなかった。
「それでわかったのさ。俺はまだ、ここに居るってなあ!!」
右手を握り込んだ。そこにはあの剣が握られたままだった。それに反応するように、刀身が強い光を放った。強く、もっと強く。
「やめろ……この世界から出て行ってどうするのだ? お前には何もない。現実のお前には何もない!!」
「あるさ」
「!?」
邪神の赤く濁った眼が見開かれた。
「俺にとっては、この世界こそが現実だ。知らねーのか? 勇者は世界を救うんだぜ!!」
左手で邪神の身体を持ち上げた、奴の無防備な腹が俺の右手の高さまで上昇する。
「もう、終わりにするんだ。お前も……俺も」
「やめろ……やめろ!!!!」
強烈な白い光を放ち始めた刀身の根元までを、邪神の腹にねじ込んだ。背中まで刃先が貫通し、奴の後方に向かって水平な光の柱がどこまでも伸びていった。
「ぐぅぅぅぅ、ううううおおおおおおおおおお!!」
邪神が雄叫びを上げた。すさまじい力で俺の手を振りはらい、邪神が腹に突き刺さった邪神殺しの柄に手をかけた。引き抜こうとでもいうのか。
「させるかっ!」
「があああ! 邪魔するなああああ!!」
組み付いて馬乗りになった。そのとき初めて、左腕の自由が利かないことに気づいた。変な方向にねじ曲がって肩から力なく垂れ下がっている。構うものか。
邪神は右手で柄を握り、左手で俺の右手を掴んで抵抗している。腐りかけの腕とは思えない膂力だった。
「くそたれがあ!!」
右手は奴の左手を押さえつけるので手一杯だ。俺は柄を握る奴の手に噛みついた。口の中に苦く、耐えがたい悪臭を放つドロドロに溶けた肉が溢れる。
「やめろ、やめ……」
光が奴の身体を侵食しているのか、傷口の周囲からだんだん肉が焼け、灰になって消えていく。
奴の右手から力が抜けた。
身を起こして奴の顔を見た。目から口から、鼻から耳から、穴という穴から強烈な光が漏れ出していた。
「ああ、がああああああああー!!!!」
「うぐぅっ!?」
最後に断末魔の叫びを上げて、巨大な光の柱が垂直に屹立した。一瞬にしてそれは真っ暗な天井に吸い込まれていき、後に残された邪神の身体全てが灰になった。ボシュッ! という音と共にそれは霧散していった。
同時に闇が晴れた。
真っ白だったドームの天井には巨大な穴が穿たれていた。
左を見た。ユーキが、ポカンと口を開けてへたり込んでいた。
右を見た。ミサが、涙でグシャグシャになった顔で膝を抱えていた。
「二人とも……無事か」
「あ? ああ、はい」
「えと、うん……その、あんたこそ」
答えようと思った瞬間、両足から力が抜けた。
「アルス!!」
悲鳴のような声を上げて、リュカゥが飛びついてきた。
「リュカゥ……」
女神に抱き止められ、形を保っている右手をぎゅっと握られたが、それを握り返す力は残っていなかった。ひっきりなしにノイズが走る視界の端で、ユーキとミサの姿が消えたのを確かに捉えた。ログアウトできたのだろうか。
「アルス、アルス!?」
視界いっぱいに、リュカゥの顔が広がる。だがそれも、徐々に増えていくノイズのせいで不鮮明だ。
ごめんな、リュカゥ。俺、約束を
◇
~エピローグ~
「一条……またそれか」
タブレットでとある動画を再生している後輩医師の姿を認めた現王園が、やれやれと言いながら隣に腰を降ろした。
夏を過ぎて桜の葉が散り始めた真医会病院の屋上は、白衣だけでは肌寒さを感じる風が吹いている。
「こうやって事実を再確認しないと……夢だったんじゃないかと思ってしまうんです。……それに」
一条は差し出されたホットコーヒーを受け取り、礼も言わずに口を付けた。コクリと小さく喉を鳴らして飲下すと、「今日は、彼らが外来に来る日ですからね」と言って弱々しい笑みを浮かべた。
現王園は黙って一条の肩を叩き、彼女が両手で持っているタブレットに視線を落とした。そこには、半年と少し前のニュース映像が流れていた。
大泉が一条に詰め寄っていたあの日、日本国内を駆け巡ったのは、とある日本人女性が引き起こしたサイバーテロ事件の速報だった。犯行声明を発したのはツァンと名乗る伝説的なハッカーで、日本政府主導の仮想現実移住計画の存在や、ハッカー狩りを目的とした情報操作などを白日の下に晒したのだ。その時点で彼女は技術の提供を条件に他国へ亡命しており、今も日本政府は引き渡しを求めて交渉している。ツァンがテロ事件を起こすために利用した一条に罪はないと声明を出したことで、大泉から執拗な取り調べを受けていた一条は解放されたが、当時はマスコミに追い掛け回されて辟易としていた。
大泉は更迭。
内閣は今期で解散が決まっている。
捜査のためとはいえ、他国のスーパーコンピューターの不正なアクセスを行った橋本博士が代表を務めるカムコンは企業のイメージダウンが大きく、近く米企業に吸収合併されることが決まっている。
NOAⅡに不正にログインしてサイバーテロに巻き込まれた少年少女のうち、桜木勇気と遠峯美佐はログアウト後に順調な回復を見せた。今では日常生活に戻り、月一回の検診にも真面目に通っている。
橋本博士の息子は現在も入院中だ。
今ではうわ言を発することも無くなり、植物状態にある。
「……彼は、幸せだったのでしょうか」
「わからん」
勇気と美佐の証言で、VR世界から彼らを救いだしたのは、勇者アルスこと羽鳥正孝だということが分かっている。
彼ら二人が意識を取り戻したのとほぼ同時に、羽鳥の心臓は停止した。
ツァンが引き起こした停電のおかげかそのように仕組んでいたのか、スーパーコンピューターKは、ハードディスクの一部に損傷を受けていた。結果、勇気と美佐がログアウト後、NOAⅡのプログラムを実行することはできなくなり、橋本博士が解析を進めていたスウェーデンのスーパーコンピューターからは、羽鳥が作成したというプログラムファイルが削除された。事実上、NOA関連のプログラムはこの世から消滅したことになる。
「……行こう。回診もある」
「はい」
ニュースを録画した動画が終了したのを合図に、二人は立ち上がった。ちょうどその時、現王園のPHSが鳴った。
「はい、現王園。――なに? わかった。ちょうど今から向かうところだ」
「……どうしました?」
通話を終了した現王園の眉が険しく寄せられたのを見て、一条が心配そうにその顔を覗き込んだ。
「橋本君の、脳波測定の結果に異常が出た」
俺(勇者)がいるのに異世界から英雄召喚する世界なんていらない 完
これにて「俺(勇者)がいるのに~」完結とさせて頂きます。
ここまでお付き合いいただいた皆様の支えが、当初十万文字完結を目指していた物語が十五万文字以上に広げ、駄文を思いついては垂れ流すセキムラを初完結まで導いてくれました。
本当にありがとうございました。




