第二話:創造神の神域
「……それで、あたしのところに泣きついてきたってわけぇ?」
俺からこれまでの――戦力外通告と言われた経緯を聞いて、シュエリスがリュカゥと同じようなセリフを吐いたことに対して、さすがは姉妹とでもいうべきだろうか。
艶めかしい微笑を浮かべて空中に漂っているのは、月の女神シュエリス。姉のリュカゥよりもさらに若い女神で、創造神エリヤにとっては十四番目の娘である。
この世界を構成するにあたって、エリヤとアレルヤは必要な順番に子を成したという。
どういう意図でもって、月の女神と呼ばれる彼女が最後に生まれたのかはわからないが、彼女と契約を果たしたことで得た力は、地上で出会うことができる神々の中でも群を抜いていた。
かつて魔王と戦った際に力添えをしてくれた神々の元を訪ねて回り、同時に魔王と戦った仲間を探して旅をすることにした俺とリュカゥは、まず戦闘という面においてもっとも強大な力を持つシュエリスの元を訪れたのだった。
「別に泣きついたわけじゃないだろ。とにかく今は、お前の力が必要なんだ、シュエリス」
「そういうセリフって嫌いじゃないけどぉ……? あたしに言わせれば邪神なんて、放置され過ぎて庭石と化した漬物石の裏に住み着いた昆虫くらいどうでもいい存在なんだけどねえ……。それに、英雄さんが、そいつは倒してくれるんでしょ? アルスちゃんは、何をそんなに必死になっているわけ?」
「シュエリス。契約者が力を求めている以上は、与えなければなりませんわ」
神々にとって邪神とは、そこまで「どうでもいい」存在なのかと俺が訝っていると、リュカゥが眉を潜めて妹を窘めた。
ふわりふわりと水中を漂うクラゲのように、波打ち際ではじけては消える白い泡沫のようにも見える長く伸びてウェーブがかかった白髪を風になびかせて、シュエリスが姉を振り返った。
「姉さん……あたしは別に協力しないなんて言ってないでしょう? でも力を振るうには、大義名分が必要だわ」
月の女神はそう言うと、地面の少し上を滑るように移動して、俺の眼前に立った。
「さあ、教えて? アルスちゃん……あなたはあたしの力を、何のために必要としているの……?」
満月のような黄金の瞳が、まっすぐに俺の目を見ていた。そこに映る自分の顔から目を逸らすことなく、俺は言い放った。
「決まってるだろう。偏屈なお前の親父に、一泡吹かせてやるんだ」
◇
この世界には、神域と呼ばれる領域がある。
神々はそれぞれの神域に住み、管理している。リュカゥやシュエリスの神域が荒れ放題だったのは、魔王との戦いに同行してくれていたためであるが、きちんと神々が住まうそこは、地上の世界とは少々異なる法則の世界が広がっている。
人間は、愚直に神を信じていて、俺たちは信仰の証として神殿や社、祠などに足繁く通うが、そこから得られる神々の力は微々たるものだ。なぜなら人間の手による建造物に、神が宿ることなどないからだ。
奴らのほとんどは気まぐれで、自分勝手で傲慢な存在であり、俺たち人間のことなど喋る猿くらいにしか思っていない。
裏世界から魔物が溢れかえったからといって、彼らが直接助けたり手を下そうとしないのがいい証拠だろう。
直接神という存在と触れ合い、その力の大きさを、身をもって知る俺からすれば、星や生き物を生み出す神本人が振るう力との差を鑑みても、ありがたがって供物――ときには生贄を要求する――を捧げて祈るなんて馬鹿げていると思ってしまう。
それでも神々は、人間の生活に厳しい制約を設け、崇め奉る者だけを適当に擁護し、神殿や社に姿を現すことはほとんどない。
そんな神々が住まう領域を、神域という。
地上に在って、半分神の世界と繋がっているそこに入ろうとする人間は、知る限り俺しかいない。その理由は至って単純だ。
なぜなら「神域に足を踏み入れることは禁じられている」からだ。別に俺は「そこに神域があるから入る」とか登山家のようなことを言いたいわけじゃない。
これはどの神を信仰している地域でも共通している禁忌だ。禁忌を侵したものには神罰が下る。まあ、別段神と直接対話を望んでいない連中であれば、禁忌を侵して罰を受けるよりは、愚直に決まり事を守って暮らしていく方が賢明だろう。
俺にしても、魔王を倒すために人外の力を望むことなどしなければ、そしてリュカゥと出会っていなければ、わざわざ神域に侵入して複数の神々と契約などしなかっただろう。「神々と直接会って契約すれば、常識を超えた力を借りることができる」そんなこと自体、彼女が教えてくれなければ知らなかった上に、支払う代償を考えれば望みもしなかった。
青臭いと笑ってもらって構わないが、俺は本気で、世界を救おうと思っている。たまたまなのか運命なのかは分からない。ただ普通の人間には無理で、神々が直接魔物を調伏するつもりがないことを知った時から、俺はこの身を世界のために捧げると誓った。
邪神が出現したと知らされた時も――多少の打算はあったことは否定しないが――すぐさま国王の元へ参じて戦いの許可を求めようとした。
そんな俺の動きに先んじて、異世界から英雄なんてものを召喚し、勇者に戦力外通告なんて下らない神託を授けたエリヤに一言もの申すため、俺たちは創造神の神域に足を踏み入れた。
「アルス!」
突如発生した乳白色の霧に飲まれ、三メートル先も見えない状況で、リュカゥが警戒の声を発した。あれからリュカゥとシュエリスを連れ、世界を回って引き込まれた三人の仲間が一斉に立ち止まり、女神を中心に放射状に陣を組んで油断なく構えた。
「…………」
俺は、腰元の木剣――リュカゥに教えられた通りに、神域に生えていた霊木を引き倒し、直径十メートルもある幹の中心から切り出した木材を削って作ったもので、唯一天使を殺すことができる武器――を構えることで応じた。
上空の様子などもちろんわからないが、巨大な気配が上から迫っていることは十分に感じられた。神域には魔物など存在しない。神の気配なら十分すぎるほど知っているが、それとは異なる圧倒的な敵意の塊の持ち主と言えば、神の兵隊――天使のものに他ならない。
「――人間。神域を侵したな」
霧の中へ降臨した存在が発した声は、ギリギリ人間の可聴領域に納まってはいたものの、鼓膜を破壊しかねないほどの高周波で叩きつけられた。
「俺は――」
「彼は魔王を倒して世界を救った勇者です。時空の女神の名において、創造神の神域へ入ることを許しました。天使ごときに咎められる謂れはありませんわ」
リュカゥが俺の隣に立って、天使に勝る声で言い放った。俺が口を開こうとするのを目線で制した彼女は、さらに両手を腰に当て、意識的になのだろうが居丈高になって言葉を続けた。
「じじ……エリヤがこの度下した天啓について、時空の女神は主とこの者の目通りを求めます」
「主の御言葉はすでに遣わされた。邪神であろうと神は神。神々の力をもって神を葬ることはできぬ。その者は、邪神との戦いに参加することは許されぬ」
霧の中の存在は、うっかり愛称と呼びそうになったリュカゥの言葉にたじろぐこともなく、感情の籠っていない声で返答した。それを受けた時空の女神――エリヤの十三番目の娘は目を吊り上げた。
「この者は、いみじくもそのエリヤの子らの寵愛を受けた戦士です。にもかかわらず、邪神――倒されるべき存在が出現し、その戦いに参加すら許されないなどという神託を受け入れろと? 創造主は、自らの子らが認めたものを認めぬというのですか?」
「時空の女神よ。なればこそ、勝てぬ戦いに身を投じ、神々の寵愛を受けた命をあたら散らすことを憐れに思われたのだろう。主の慈悲の深さを知るがいい」
なるほどエリヤの思考では、「かわいい娘達が大事にしている人間が、死なないように手を打ってやったんだぞ?」ということになっているわけだ。
「禁忌を侵したものに対して神罰の槍ではなく、言葉を遣わしたこともまた、主の慈悲によるものだ。女神よ、それを連れて疾く去るがいい。さもなくば――」
天使は、神の軍勢とは言っても神なら誰にでも従うわけではないとは聞いていたが、ここまで徹底して融通が利かないとは思っていなかった。最悪天使と戦いになってもエリヤの元へ――そう話し合って武器まで用意していた俺たちであったが、霧の中の天使が言葉を切ったことを合図に、彼の背後に複数の気配が現れたのを感じ取り、二の足を踏んでいた。
「信じられませんわ……エリヤは本気で、アルスを……」
新たな気配の数は百や二百ではなかった。直接お目にかかるのは初めてだったが、天使一体一体から感じられるプレッシャーの大きさは、魔王と対峙した当時を思い起こさせるほどだった。これほどの力を有する大軍団を使役する創造主をして打倒不可能だと言わしめる邪神とは、いったいどれほどの存在なのか。
「アルスちゃんっ!!」
木剣を握りしめて動けないでいると、シュエリスが悲鳴に近い声で俺を呼んだ。
「――ぐっ、アルス……すまん」
直後、くぐもった呻きと、ドウ、と何かが倒れる音。わずかに湿った音が混じっていた原因を確かめる前に、「あがっ!?」「ぐはあっ!!」と連続して叫びが聞こえ、またしても何かが地面に倒れた。
それを最後に、エリヤの神域――広大で静謐な森には、神がもたらしたとしか思えない完璧な静寂が訪れた。
「……まさか……」
倒れた後、うめき声も何も聞こえない。静寂に耐え切れず、口ではそんなセリフを吐いておきながら、俺の頭ははっきりと理解している。
「天使たち!! 罪もない人間を手にかけるとは、どういうつもりですのっ!?」
「ちょっとあんたたち……何しちゃったか分かってるわけぇ?」
両脇に立つリュカゥとシュエリスが、警戒を最大限に引き上げて言った。
「……我らが主の御言葉をもって対処を命じられたのは、勇者のみ」
始めに現れた天使が言った。
「神域に踏み込んだ人間は処断する。我らは、使命を果たしただけだ」
徐々に霧が薄くなり、抑揚を失った口調で言葉を継いだ天使の足元の光景が目に入った。
あっという間に木々と腐葉土の匂いよりも濃厚で強烈な臭気が鼻を突いた。臭いの発生源――仲間たちの身体から流れ出た血液がつくった血だまりに立つ天使の素足と、純白だったローブの裾、裾以外の大部分、天使の顔も手も、全てが血に塗れていた。
「アンドリュー、ハイドラ……イシュタル……? 誰か返事してくれよ。なあ……嘘だろ……?」
「名を呼んでも無駄だ。この者らはすでに死んでいる」
最後に絶望的な事実を告げて、天使の軍勢は霧と仲間の遺体とともに消えた。