第十三話 現実と仮想現実2
「君の意識に関する……仮説だが」
男性医師――現王園の説明が始まった。低音の声がやたらと肚に響くような気がするのは、世界で三人の人間以外動くものが何もないからだと言い聞かせた。
「この仮説を説明する前に、君には一つの前提を認識してもらう必要がある。それは、この世界はNOAの世界ではないということだ」
「……どういうことだ」
危うく「先生、どういうことですか」と詰め寄るところだった。以前の俺なら――勇者生活の経験がない俺ならきっとそうしていただろう。ただのVR中毒患者だった頃の、弱かった俺なら。
「この世界を構築する基本となるソフトは、NOAとは別のサーバーを使用している」
「なん……だと」
「君がスウェーデンのスーパーコンピューター内に構築したプログラムは、博士によって解析が進んでいる。おかげでこういうことが」
現王園が言葉の続きを言う代わりに、今にも襲い掛かりそうな姿勢で空中に静止しているリュカゥを指差した。
「NOAⅡ。博士はそう名付けた」
今度こそ狼狽を隠すことはできず、俺は自分の目が大きく見開かれたのを自覚した。この世界では何が起きても大丈夫だ。その前提が、後ろ盾が瓦解していく音が聞こえるようだった。
「これは、VRT撲滅――いや勘違いしないでくれ、疾病を、という意味だ。仮想現実にのめり込んで、抜け出せなくなった人々を救う国家プロジェクトでもある」
「…………」
こいつらの後ろ盾は国か。VR対策室とかいうものを立ち上げたというニュースを見た覚えがある。だが、俺が立っているこの世界がNOAとは別のサーバーを使用しているなどということがあり得るだろうか。
リュカゥを構成するプログラムのごく一部にハッキングできたとしても――あるいはスパコンへのハッキングを通報してスウェーデン政府に協力させたか――それでNOA全体を把握したことにはならない。NOAプログラムは複数のスパコンに分散して存在する上、ごく一部でも不正な変更が加えられた場合、バックアップデータを飛ばすようプログラミングされている。これを完全にブロックするためには、五か国全てが所有するスパコンおよび世界中に散らばる仲間――それこそ住所も氏名もでたらめに変更し、あっという間に外国人に成りすませる連中のPCに同時アクセスしなければならない。そもそも――
「この世界がNOAⅡと名付けられたのは、君の――君たちの様な人間を釣るためだ」
釣る――だと? 俺の思考は、現王園の発言に遮られた。
「どうやってもNOAサーバーの存在を突き止めることができなかった博士のチームは、背景に君たちの様な優秀な技術者達が存在することをかねてから指摘していた。そこで、一計を案じたというわけだ」
「かの有名なNOA次回作の開発に、大手ゲームメーカーが名乗りを上げた――という情報を流したんです。あれは、私もびっくりしました!」
俺の狼狽によって威圧から解放された一条が、現王園の横に並んだ。切り替えの早い女だなどと感心している場合ではない。
「我々は開発者名をメディアに公表し、公式サイトを立ち上げた。そこにアクセスしてくる輩の中に、必ずターゲットがいると睨んでね」
政府公認フィッシングサイトを作ったというわけだ。なにしろ国際法を犯してまでゲームにのめり込む連中だ。NOA次回作の話題には飛びつくだろう。だがそこから追跡したくらいで、仲間たちを特定できるとも思えないが。
「結果は惨敗だった。どうにか追跡した足跡から、君が作ったプログラムの一部を発見できただけでも奇跡と言えるそうだ。しかも、思わぬ副産物まで生じてしまった」
やはりそうか。現実世界の俺は寝たきりだから、ハッキングに気づくこともなく何の対応策も打てない。だが副産物とはいったい……
「橋本博士のご子息が、NOAⅡを起動してしまったのだ」
またしても苦虫を噛み潰したような表情になって、現王園が言った。
橋本博士の子供……そうか、ハシモト! あのデブか。俺の中で大きな謎のパズルが少しずつ組みあがっていくような気がした。ようやく掴んだ欠片があいつらなのは気に入らないが。
「NOAⅡの世界は、不完全ながらもVRMMOゲームとしての枠組みはきちんと創られている。君たちの誰かが、そこまでアクセスしてくる可能性も考えて準備されていたものだ。橋本少年は、父親のパソコンからデータを盗み出して解析し、いくつか手を加えてから友人とゲームを始めた。だが、それはオフライン作業だった」
「回りくどい説明はそろそろ終わりにしてくれないか、あんたの言っていることが博士の仮説と繋がるのを待てそうにない」
「ちょっと君! 先生に向かって――」
また威圧されてはかなわないと思ったのか、現王園が一条を手で制し、そのまま庇護する立ち位置を保った。そして軽い嘆息を挟んだのち、説明が再開された。
「いかにしてNOAⅡの世界が構築され、三人の若者がそこで漂流しているのかを知っていないと、博士の仮説はまったく訳が分からないものに聞こえてしまうのでな。安心しろ。ここからが本題だ――」
現王園は医者だ。門外漢のためか少々わかりにくい彼の説明をまとめると次のような話になる。
橋本博士の息子――公英は、父親のPCにハッキングしてNOAⅡのプログラムを入手した。その際、奴はネットカフェからあちこちを経由するオープン回線を使用した。NOAⅡに関するあらゆる情報を監視していた政府はそれに気づき、ハッカーを特定するためしばらく泳がせた。だがその政府の動きすら監視していたものが存在した。Xと名付けられたそいつ――単一か複数かも不明、恐らくは仲間の誰か――は、公英とほぼ同時にNOAⅡプログラムを入手し、その中にNPCである勇者アルスを発見した。勇者アルスは、すでに博士によって部分的に解析が進んでいた俺のデータをモデルに構築されていたため、仲間はNOAプログラムの不正アクセスに気がついた。
Xが俺のプログラムの保護に乗り出したことで、解析は難航しているそうだ。政府機関――VR対策室のスペシャリストたちが、Xの特定を急いでいる。
博士の仮説によれば、Xは何らかの手段で羽鳥正孝が重症VRTで真医会病院に入院していることを知った。言われてみれば、俺が大事なNOAのプログラムを一年以上ほったらかしていた理由を探ろうとするのは至極当然のことと思えた。
「だがそれと、俺がNOAⅡの世界に存在することとは関係ないことだろう?」
俺の問いに、現王園は首を振って沈黙した。そして、口を開いて言いかけた言葉を一瞬飲み込むようにしたのち、口元を引き結んだ。その様子は言うべきかを迷っているというよりは、自分が言おうとしていることに確信が持てないでいる――そんな印象を俺に抱かせた。
「どうした。続きを話せよ」
どんな内容であれ、話してもらわなければ困る。最悪暴力に訴えてでも。俺の不穏な考えを察したかどうかはわからないが、現王園はゆっくりと口を開いた。
「ベッドから動けず意識もない君が、どうやってVRの世界にアクセスしたのかについて、博士はこう言った。『人格を転移させたのではないか』とな」
「人格を転移……?」
「肉体はそのままに、魂だけが移動したとでも言おうか。過去にそのような現象が起こったと報告する学者はいくらもいるが、医学的な根拠は何一つない。……ましてやVRの世界でそれが起こるなど、荒唐無稽としか言いようがない。だが」
橋本博士と医師たちは、NOAⅡの世界にアルスという俺とほぼ同一の姿を持つNPCの行動に注目した。本来プレイヤーキャラを殺すことなどないはずのアルス行動は明らかな異常だった。博士はXがNOAⅡのプログラムになんらかの改変を加えた可能性も視野に入れ、アルス関連のプログラムや公英らが残したログを徹底的に洗った。その過程で、あの殺人脳波が検出されたタイミングと、アルスが英雄たちを傷つけた時間がほぼ一致していることがわかったそうだ。
「私は君の名を呼んだときの……反応を観察した。博士の説は正しかったと思い知らされたよ」
観念したとでもいうように、現王園が項垂れた。だがすぐに顔を上げて、話しを続けた。
「博士は、第三者――恐らくはXが病院のサーバーを利用して羽鳥正孝の意識を一時的に構築したVR世界へと誘致し、プロテクトの弱い橋本少年のPCを経由してNOAⅡの世界にそれを転送したという仮説を立てた。その際、姿かたちが似通っていたNPCと同化したのか、あるいはさせたのか……方法は謎だが、とにかく勇者アルスと君は融合した、と考えている」
「融合ね……なるほど。それでか」
勇者アルスとして活動していた俺の記憶は、NPCの設定を記憶と勘違いしていただけなのか。それとも記憶の刷り込みというやつだろうか。魔王を倒して一年間くらいの記憶がおかしなことになっていた理由に、一応の説明がついた。方法が謎というところが気持ち悪いが。
「君はプログラムに従い、NPCとして橋本少年らに関わることになったわけだ。しかしそこで、殺戮とループが始まった」
「衝動的だったしか言いようがないな。何も始めから殺意を抱いていたわけじゃない」
「それについても博士が考察したがね。君という人格が何らかの影響を及ぼしたとしか言いようがないそうだ。しかも、人格転送説が正しいという前提の上でしか成り立たないものだ。だが、我々にとってはそのような考察はどうでもいいことなんだ」
現王園が言葉を切り、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
「VRの世界でいくら殺されようと、現実の世界で人が死ぬことはない」
当然だ。何しろこれは現実じゃないんだから。俺が答えようとする前に、現王園が一歩踏み出した。
「それは、間違いだったんだ」
「ああ?」
「必要以上にリアリティーを追求した結果、君たちの脳は異常な興奮状態に陥っている。その結果として、自律神経系にも強く影響が出る。まるきり健康体であれば問題にならないかもしれないが、今の君では……」
この医者の、いちいち先を言わないという話術は今後控えた方がいいな。現実世界で俺の身体がどうなっているのか知らないが、どうやらあまりいい状態じゃないようだ。恐らくは、博士の息子以下三名も。
「俺の身体、どうなってるんだ?」
聞けば後悔する様な気がしたが、記憶が戻った以上自分の健康状態はやはり気になった。一年も寝たきりだと言っていたから、大分痩せてしまったのだろうか。
「君の身体は……かなり衰弱している。寝たきりというだけでも廃用性に筋力が低下していくのだが、スピードが速い。あまり科学的でないことは言いたくないが、生きようとする意識が身体を離れているせいだと推察している」
「意識が戻れば、回復するのか?」
問いかけた俺から、現王園は目を逸らさなかった。
「そう、信じている」
俺は選択を迫られている。そう感じた。
「現実世界の君には、VR脳波コントローラーを接続してある。かつてゲームをプレイしていた時のように、ログアウトできるはずだ」
確かに、思い描くだけでメニュー画面が表示される。とても懐かしい感覚だった。装備品の確認や、使用可能な魔法の一覧、視界に次々と半透明のプレートが展開される。驚いたことに所持金はゼロだった。
「はは……参ったな」
仮想世界のこととはいえ、俺は世界最強の勇者だった。英雄どもがやってきてからは、見えない力に人生の歯車を狂わされたような気がしていたが、まさかそれが俺自身の想いじゃなく、NPC――創られた偽物の記憶というか、設定だったとは。
俺がしてきたこと、成し遂げたと思っていたことは、全て架空のことだったのだ。アゼリアの王や民と、仲間たちへの想いも、リュカゥとシュエリスとの思い出も何もかも。
「羽鳥さん! 何をしているんですか?」
「……」
大きな喪失感に苛まれている俺に、一条が詰め寄ってきた。
「君にはもう、時間がないんですよ? 現実世界の君は、自発呼吸すら――」
「一条!!」
若い女医の発言を、現王園が鋭く制した。いやそんなことよりちょっと待て。この女、今なんて言った?
「自発呼吸が……なんだって?」
「聞け、羽鳥――うっ」
「てめーは黙ってな」
現王園が何か言いだす前に、俺は奴の喉元に手刀を突き付けていた。これまで俺の行動を追ってきたのならわかるはずだ。NOAⅡがどんなシステムを採用しているか知らないが、NPCとして勇者アルスの能力は桁違いに設定されている。記憶を取り戻しても、俺は勇者なんだ。ゲームを始めたばかりの駆け出しくらい、どうとでもできる。
「ほら、一条先生」
俺は女医の方へ顎をしゃくって先を促した。爪先が少しだけ、現王園の喉仏近くの皮膚を裂いた。
「やめろ……言うな」
「嫌よ」
「は?」
現王園が間の抜けた声で反応したとき、一条は、現王園の横に立っていなかった。
「……嫌よって言ったの。聞こえなかったかしら? 現王園先生」
風が止まった世界で、漆黒のローブがはためいていた。それは、彼女の足元から立ち上る青白いオーラに煽られてのことだった。そして、裾から覗く両足は靴を履いておらず、透き通るような白さだった。そしてそれらは、確かに宙に浮いていた。




