舞台裏 厳しい現実
「公英……?」
サッカーグラウンド一つほどの面積を埋め尽くすタワーの林を抜けた先に、五十インチの大画面が三つ設置されている。モニターベースと名付けられたその区画は、三枚の画面の他に畳二畳ほどのコンソールが設置されており、それを操作する手を止めて息子の名を呟いたのは、名付け親である橋本博士だった。
自分の子供が他人の手によって殺されかけている状況――画面に映る橋本少年の状況が現実におこったならば、間違いなく失血死しているはずだが――において、彼が息子の身体を素手で引き裂く青年の姿を前にして呆然と立ち尽くすだけでいられたのは、それが画面の向こうだけで起こっていることだという認識が強いからだ。
「酷い……」
凄惨な殺戮シーンが映し出されている中央のモニターから数歩距離をとって、口元を抑えたままの一条が呻いた。
「これが、VR殺人……ということか」飛び散る血液や臓物――その他身体組織のCGに顔をしかめながら、仮想現実は現実よりリアルだ。そんなキャッチコピーが横行していたことを思い出した。
一条がかつて示した、VR世界での体験が人体に及ぼす影響に関する研究については、現王園も文献を読み漁っていた。ボロ雑巾のようになってなお、痛めつけられている橋本少年の脳は、筆舌に尽くしがたい苦痛を感じているに違いなかった。病気のデパートの様な彼の身体は、収縮期血圧が二~三十変動しただけで致命的な合併症を引き起こしかねない。
「博士。早急に対策を実行してください」
現王園は左手でPHSの短縮ダイヤルを押してから耳に押し当てつつ、右手で口元を震わせながら立ち尽くす橋本博士の肩を揺さぶった。
「あ……先生」
「博士! しっかりしてください! あなたが――ああ、現王園だ。橋本さんと羽鳥さんの容体を――なんだと!?」
肩を揺すられた橋本博士は現王園を振り返ったが、焦点の合わない目でぼんやりと受け答えをするだけだった。一夜にして通常の倍以上のVRT患者を受け持つことになった若い医師は、VRゲームの専門家を一喝しようとしたが、繋がった無線電話機によってもたらされた情報に対処する方を優先した。
「浅野、ギリギリまでアドレナリンは使うな! 最悪、開胸もありえるぞ! ――オペ室に運んでいる余裕なんてあるか!? 三分でスタッフを集めろ! 一条、博士に例の方法を試すように言え! 俺は集中治療部に戻る!」
「ええ!? 例の方法って――ああー!?」
電話の相手と自分に対して矢継ぎ早に指示を飛ばし、白衣を翻して駆け出そうとする現王園の背中に追いすがろうとした一条は、黒いタワーの群れの隙間から現れた男性の姿を認めて素っ頓狂な声を上げた。
「その方法とは、『VRタイムリワインド』だよ。お嬢さん」
一基の構築に二百万円ほどの費用がかかる黒塊に寄りかかって立ち、耳慣れない言葉を発した男は、男性スーツのメーカーなどほとんど知らない一条であっても、一見して上等以上のものであると分かる光沢を放つチャコールグレーのスーツを着こなしていた。
「リアルを追及しすぎたVR世界で体験した事象が、人体に及ぼす影響は計り知れない――VRT患者は特に、心身ともに大きなトラウマを負うことになる。それを『なかったことにしてしまおう』という世界初の試みだ」
男が、なんのことやらわからないといった表情で首を傾げる一条に向かって、表情が隠れない程度に伸ばした髪を後方に撫でつけながら言葉を続けるのを一瞥すると、現王園はその横を通り過ぎて走り去った。
「あ、ちょっと、せんせ――」
「ふっ。旧友との再会に挨拶もなしか。君の上司は相変わらず、忙しいな」
あっという間に黒々とした機械の林を抜け、階段の向こうへと姿を消した現王園を見送った男は右肩だけを軽く上げて嘆息した。
「だが察するに、事態は急を要するようだ。悪いけどお嬢さん、そこをどいてくれるかい? 腑抜けになってしまった博士の尻を叩かなきゃいけないんでね」
男はそう言ってタワーから背中を離すと、あまり頭が上下しない歩き方で一条に迫った。
「あの……大泉さんですよね?」
「そう。VRT対策室室長で、現職総理大臣の秘蔵っ子で、君の上司の親友だ」
道を譲った一条が声をかけると、その横を通り過ぎた男は振り返ることもなく答えた。
「はーかーせー! 大泉です!」
そのまま、再び画面に見入っている橋本博士の背後に立って声を張り上げたが、初老の男は脱力したまま反応しなかった。彼は血の海に沈んだ息子の姿を映し出すモニターを食い入るように見つめていた。
「こりゃあ、ダメだな。……博士! 起きてください……よっと!」
「わっ!!」
大泉は右足を大きく後方へ引くと、一気にそれを振り上げた。何をするつもりなのかを瞬時に理解した一条が目を覆い、ドームに破裂音に似た音が響き渡った。
「あいたた――あ! 室長!」
「『室長!』じゃありません。……博士、受け入れがたい映像であったことは重々承知しておりますがね、ぼんやり眺めている場合でもありませんよ?」
もんどりうって倒れた橋本博士は、臀部に感じた衝撃の正体を確かめる間もなく、大泉に脇を抱えられて強制的に立ち上がらされた。
「いや、しかし……わわわ!」
大泉が細身の役人とは思えない腕力を発揮し、小柄とはいえ六十キロはくだらないであろう橋本博士の身体を抱えて移動し、コンソールの前に据えられた座席に座らせた。
「はい、早く作業を始めてください。冷たい言い方ですがね、僕が室長に就任した途端、患者に死なれては困るんですよ」
「も、申し訳ありません。あまりにも、非現実的で……」
「…………」
笑顔で冷徹なことを言い放ったVRT対策室室長だったが、キーボードを叩いて作業を開始した博士の発言を受けて、コンソールの端に右手をかけて表情を消した。
「非現実的……ね」
大泉俊は三十二歳の若さで国会議員となり、翌々年に立ち上がったVR対策室室長に就任した。
世界に蔓延するVRTの根絶をスローガンに掲げる新組織の長というステータスを欲する他の議員を押さえつけて、彼が内閣総理大臣の指名を得たことで、様々な憶測が駆け巡っており、「総理の隠し子」というのもその一つだった。スキャンダル探しに忙しい野党からは「潔白だと言うのなら遺伝子検査を受けろ」というものまで出てくる始末であった。
現総理大臣である中野には、以前から女に関する黒い噂が取り沙汰されているので、外見に似たところ――右目の泣き黒子など――があり、年齢的に彼の実子であってもおかしくない大泉の身辺が洗われ、彼の母親が未婚かつ、二十五歳から三十一歳まで中野の後援団体事務所に勤務していたことが発覚したことから、この噂はスキャンダルへと発展した。
しかし、VRT対策室は成功すれば一躍世界にその名を轟かせることになるが、多額の予算をつぎ込んだにも関わらず失敗すれば、その責を負わされる。当然、周囲の反対を押し切って強引に就任させたという中野も、新たな傷を負うことになる。
そのため、政界はVRT対策プロジェクトの成果を静観する体勢に傾いていた。それと同時にスキャンダル攻撃の手も緩み、中野はその隙に来年度予算案を通してしまう考えだった。
「現実の世界はとても厳しい。……若い連中がVRの世界にどっぷり浸かって抜け出せない気持ちは、わからなくもないですよ」
自分が本当に中野の隠し子であったなら――そんな非現実的なことが実際にあるわけはない。それを承知で政界入りを許すような阿呆では、総理大臣にまでのし上がることなど不可能だ。
大泉は一旦言葉を切って口角を吊り上げた。
父親の顔も知らず、母子二人でギリギリの生活をしながら奨学金を手にし、母の元職場というツテから政治の世界へと足を踏み入れた彼は、そこで汚濁に塗れた政財界の真実を知った。
経済的に厳しい状況であっても、それを支援してくれた国のために働きたい。そんな大泉の思いは数年でズタズタに引き裂かれた。
下劣で悪辣な連中ばかりが蔓延る議事堂、野次を飛ばすしか能のない議員たち。絶望した大泉は、アルコール依存症となり、あるとき睡眠薬を大量に飲んで自殺を図った。
それを救ったのが、当時救命病棟に勤務していた現王園だった。彼はただ胃洗浄を行い、適切な薬物を処方するだけの医師ではなかった。大泉のカウンセリングに立ち合い、通院を怠れば自宅にまで押しかけてきた。
なぜそんなにも一生懸命になれる。
雨の中、傘もささずに自宅に現れた若い医師に、大泉は困惑を隠さずに訊ねた。すると、現王園は濡れそぼった髪を振り乱し、病から人を救う天使よりは悪魔に近い形相で大泉に詰め寄ると胸倉を掴んで引きずり倒した。
現実から目を逸らすな。
倒れた身体に馬乗りになって、現王園は叫んだ。現実は甘くない。人間はそこから目を背ける方法ばかり上手になって、立ち向かう力を失っている。
医者にしても同じことだ。飛躍的に進歩した技術によって、医学部を出たばかりの医者でもほとんどの手術を無難にこなせる。診断技術の発展によって、医者は画面に映し出される数字と画像しか見なくなった。誰も患者を診ていない。誰も、人間と向き合おうとしていない。
今、医師会が開発を進めている新プロジェクトを知っているか。「VR診療室」だ。生の患者に会いもせず、高性能生体モニターから送られてくる情報と各種体液検査のデータをもって、診断可能な疾病のリストアップを始めている。患者は病院に行くことなく健康診断を受けられるというのだからお笑い草だ。このままじゃ人類は仮想現実の世界なしには生きられなくなる。死にそうな患者に幻覚を見せて安楽死させる時代はすぐそこまで来ているんだ。
俺は、「人間を治す」医者だ。明日はかならず外来に来い。
最後にそう吐き捨てて去って行った現王園の背中を見送った大泉は、その後病を克服して国会議員になった。ちょうどその頃、巨額の費用を投じてスーパーコンピューターを造り、「VRT対策室」の立ち上げが正式決定した。真医会からオブザーバーとして派遣される現役医師リストの中に現王園の名前を見出した大泉は、使える人脈の全てを使ってプロジェクトに参加した。
仮想現実の世界は、あくまで頭の中にしか存在しない。そこで得るものは何もない。
ただ体験として記憶に残るだけだ。どんなにVRの世界で身体を鍛えても筋肉量は増えない。なんでも叶えられるVRの世界で出会ったカップルは高い確率で離縁している。だが、現実世界で願望を叶えるには、人間は弱くなりすぎてしまった。そして、仮想現実が現実に近づけば近づくほど、現実に耐えられないものたちはその世界へと逃避していく。
「あんたたちが悪いとは言わないよ……博士」
石油産業を上回る資金が動くVR産業界において、より現実的な非現実を追求してきた技術者たち。仮想現実中毒症が増え続ける責を彼らに負わすことはできない。
「だけどね……現実は厳しいんだ」
大泉は、コンソールに向かい、「VRタイムリワインド」を実行しようとする橋本博士に背を向けて呟いたとき、一条のPHSが振動した。
「はい、一条です……わかりました。お伝えします。――博士、息子さんの容体は落ち着いたそうですよ! ……聞いてます?」
PHSの通話を切って立ち尽くす一条の呟きに答える代わりに、大泉は肩を竦め、橋本博士はキーボードの操作速度をさらに上げた。
「成功です!!」
橋本博士はEnter keyを一際強く叩いて、大きく伸びをした。
「おめでとうございます。博士」
「ありがとうございます。しかし室長、いくつか問題もありまして……」
「具体的には、どのような?」
「ええ、実は……」
「何がどうなったんですか……? できればわかるように説明してください……」
じゃないと、また先生に怒られてしまいます。という一条の訴えは、彼女を無視して話を始めた二人によって却下され、数分続いた政府の役人と科学者との話し合いは、ある結論を導き出した。
「ちょっといいかな、お嬢さん?」
「……一条です」
「で、どうなった」
「わあ!?」
名前の入った職員証を持ち上げて険悪な表情を作って見せた一条の背後から、現王園がにゅっと顔を出した。大泉はちょうどよかったと顔をほころばせ、現状を二人に説明した。
「……なんだと?」
「わたしたちが、NOAの世界に?」
現王園は思い切り顔をしかめ、一条はあんぐりと口を開けた。
「そう。あまり時間がないそうだから、さくさく準備してよね」
両手を腰に当てて、登校を急かす母親のような口調で大泉が言い、橋本博士は忙しくコンソールを操作し始めた。
天上から吊り下がった四十二の照明の下で、いつの間にか準備されていた脳コンが光り、二人の医師の背後で物言わぬタワーたちが一斉にファンを回転させてうなりを上げていた。




