第十一話 記憶
お久しぶりです……
「今夜も、ダメですの?」
「……リュカゥ」
並んで寝ていたリュカゥが首を横に振ってからゆっくりと身を起こし、慈悲深い眼差しで仰向けに寝転んだままの俺の髪を撫でた。
俺は彼女の真摯な眼差しを受け止めきれず、視線を逸らした。
「仲間のことを考えるとどうしても、な」
「そうですか……」
巨大毒蠍の死体を処理したのちに宿に戻った俺は、しばらく屋上で星が瞬く夜空を眺めていた。眠れぬ夜を過ごす俺を案じたのか、しばらくするとリュカゥが屋上に上がってきたので一緒に寝転んで月のない黒を眺めていたのだが、徐々に東の空が明るくなってきたころになっても一向に眠気は訪れなかった。
ハイドラとイシュタル、それにアンドリューも含めて創造神が創り出した偽物だということは、リュカゥも認めている。神の業に関しては、二人の女神の言い分を信じるしかないだろう。できるなら創造神に直接会って確かめたいところだが、やつの神域に入るのは危険すぎるし、異世界からやって来た英雄どもを囲んで騒いでいた三人の様子を思い返してみても、以前の仲間たちとは異質な存在だということはわかる。……わかるからといって、はいそうですか、後は任せたと受け入れられるものではない。
「………」
髪を梳く女神の手に触れると、ごく自然に握り返された。彼女がその気になれば、骨ごと砕いてしまうことも可能なのだろうが、そんなことを恐れる必要はない。俺は彼女の温もりを感じながらも、逆に冷えていく頭で考えを巡らせていた。
考え込んで眠れなくなるのは、仲間のことだけじゃない。あの夜、シュエリスが消える直前の出来事について冷静になって考えなくてはならない。
まず、なぜシュエリスが消えたのか。彼女は自分の身に起きた事に驚愕し、叫び声まで上げていた。彼女の消滅は、彼女自身ではない何者かが引き起こした事象だと考えていいだろう。
では誰が、何のために。
リュカゥによれば、邪神や高位の魔物であれば神を殺すことは可能だそうだ。しかしその辺の土地神クラスならまだしも、魔王の存在や邪神の出現についても大きな関心を示さず、星を砕くほどの力を誇っていたシュエリスを害するほどの存在がこの世界にいるのだろうか。
まず、人間には無理だ。どれだけ強くなっても、どれほど魔法を極めたとしても、神を超える力は手に入らない。世界最強を自負する俺をして、単純な腕力ですら彼女らとは比較にもならないのだ。そんな俺に傷一つ付けられない魔物どもなんて、引き合いに出すことすら馬鹿馬鹿しい。
ならば神か、邪神か。リュカゥにそれを訊ねても、「私にも、シュエリスを消滅させた力の正体はわかりませんの」と悲しげに首を横に振るばかりだった。同じ神の仕業なら邪神でもわかるとのことなので、やはりこの世界に存在する力あるものの仕業ではないのだろう。
残された可能性は一つだった。
この世界には存在しなかった異物。
英雄どもだ。
「アルス」
俺の手を握り返し、指を弄ぶようにしていたリュカゥの指に少しだけ力が込められた。英雄どもを思い返すと無条件に湧き上がる俺の殺気に反応したのか、別の建物の屋上で羽を休めていた砂漠鳥たちが、白み始めた空へ一斉に羽ばたいて甲高い鳴き声を上げた。
「……悪い」
叱咤するようなリュカゥの指から逃れ、俺は口元を引き結んで北の空に消えかかっている恒星の光を睨みつけた。俺の世界に突然やって来た三人の誰かが、あるいは全員が、女神消失に何らかの形で関わっているに違いない。手がかりは何もないが、この考えは俺の中で確信に近かった。
「アルス、部屋に戻りましょう?」
「悪いな、リュカゥ。もう少し」
俺の身を案じてくれるリュカゥに再び謝り、頭の後ろで手を組んだ。あの日起きた事については、まだ考えなければならないことがある。隣にリュカゥがいてくれるおかげか、今夜は心がそれほどざわつくことがなかった。
アンドリューやハイドラを偽物だと断じた後のシュエリスは、明らかに態度がおかしかった。世界を救ってから一年の間、俺は故郷の村で怠惰な日々を過ごしていたはずだ。新月以外は毎晩顔を出す月夜を眺めながら、妙にゆっくりと過ぎて行く時間を持て余していたのだ。意識的に戦いを忘れようとしていたのだから、当然魔王を倒すために契約を結んだシュエリスの力を借りようとしたことはない。それをもって、彼女は俺に対して「行方をくらました」と言ったのだろう。
だが、シュエリスが俺を見つけようと思えばいつでもできたはずだ。彼女がそれをしなかったのはなぜか。そして、なぜあの夜になって突然説明を求めて詰め寄ってきたのか。
「……ちっ」
組んでいた手を解き、半身を起こして右手を眉間に持っていく。過去について考え始めると、決まって襲ってくる頭痛にも慣れたものだが、不快なものは不快だ。俺は軽く舌打ちをして、眉の間を揉みながらさらに思索を進めようと思ったとき、ずきずきと痛む脳の奥にかすかなきらめきを見つけたような気がした。
「偽物……?」
英雄どもと一緒に街を練り歩いていたかつての仲間たち。
俺がもっている記憶。
魔王を倒して、ハイドラにフラれ、村でダラダラと無為に日々を過ごしていたという覚え自体が、何者かによって植え付けられた記憶だとすればどうか。騒がしい風の精霊どもから禍々しい存在の出現を告げられたあの日の記憶も、悪夢にうなされ飛び起きたあの夜の記憶も、全てが偽物だとしたら。
それを為した存在は、俺はもちろん女神の力を凌駕する存在だ。そいつが俺をシュエリスから隠していたのだとすれば、一応つじつまは合う。
だが、だめだ。
いら立ちがつのり、目元が痙攣し始めた。
記憶を操作する能力なんて聞いたこともない。リュカゥもシュエリスを消した相手はわからないと言うし、可能性を見出してもそれを検証する手立てがない。あの晩、頭に浮かびかけた謎の言葉――ナイツ・オブ・アゼリアについてもさっぱりだ。
こいつに関して何かを考えようとすると、頭痛が激しくなる。俺は目を閉じ、荒くなりそうな呼吸をどうにか整えた。何かあってもリュカゥが傍に居てくれる。そう思って傍らに目をやると、彼女はわずかに潤んだ青い瞳をしばたたかせていた。
「……」
彼女は黙って頷いて見せてくれ、俺はさらなる思索に挑んだ。
ナイツ オブ アゼリアは直訳すれば、「アゼリアの騎士たち」だ。王国には確かに騎士団が存在しているが、これをそのまま指しているわけではないだろう。あの時、脳裏に浮かんだファンファーレと音楽、そして知らない誰かの声。
あれから一年……世界は再び混乱の時を迎えた!
パイプオルガンを使って演奏された音楽が鳴り響き、ナレーションが始まる。ファンファーレが鳴り響き、真っ黒な背景に突如雷鳴が轟き、恐ろしげな怪物がフラッシュしては消えていく、それを打ち倒す鎧の戦士たち、焼き払う魔法使い――。より充実した職業ラインナップで君はVRの世界アゼリアを再び混とんのるつぼに陥れた邪神を倒す英雄となれるのか――。
「VR……?」
頭に浮かんだ言葉の意味を考え、俺は煩悶としていた。頭に浮かんだのだから、俺が持っている記憶の一つであることは間違いないだろう。この単語は初耳じゃないという感覚は、あの時からずっと肚の中に居座っている。
月の女神の詰問によって、甦りかけた記憶はまるで鎖から解き放たれるのを待ち続ける獣のように、脳の内側に爪を立て続けているのだった。
だが、この記憶を解放してはならないという思いもまた、それと同じくらい深く俺の中に根をはっている。よせ、思い出すな。と内なる声としか表現できない何かが、どうにか記憶の扉に閂をかけて抑え込んでいるのだ。そして、思い出してはならないという声と同じくらい、何か重大なことを忘れてしまっているという焦燥感が強く感じられ、俺は困惑していた――
「アルス!!」
鋭い声で、俺は閉じていた目を開いてすぐさま立ち上がった。目の前には俺を守るように両手を広げ、殺気にも近いオーラを立ち昇らせたリュカゥの背中があった。
「リュカゥ!? いったいどうし――」
「アルス!! 早く逃げ――」
「えーと、【アップロード・スタート】でーす」
「!?」
何が起きたのか訊ねようとした俺の言葉を遮って、リュカゥが逃走を指示しようとした。それに被せるように、間延びした女の声がした。
「リュカゥ……?」
空中で突如静止した時空の女神に、俺は恐る恐る声をかけた。
「…………」
リュカゥの応答はない。彼女は屋上から五十センチくらいの高さに浮かび、ピクリとも動かなくなっていた。立ち昇っていたオーラも、柔肌を隠す薄布すらも。まるで、俺が魔法を使って時間を止めたようだった。だがそれは、目の前で静止している女神の力を借りて行使するものだ。彼女自身が静止してしまうことなどあり得ない。それは、この世界全体の時が止まることを意味する。故に、誰もリュカゥを止めることはできない。不滅にして不干渉。これが、彼女の力を行使する俺が世界最強を自負する所以である。
「はわ~。どうやら、うまくいったみたいですね! 先生!」
「それは重畳だが……お前、その恰好になる必要があったのか?」
「当然ですっ! せっかくファンタジーの世界に入るんですし、雰囲気を味わいたいじゃありませんか! 先生こそ、そのまま入って来るなんて、雰囲気ぶち壊しです!」
動かなくなったリュカゥの向こうには、一組の男女が立っていた。女の方は、魔導士風の黒いローブに同色のとんがり帽子を合わせ、右手に携えたワンド――何の力かわからないが、虹色に輝く宝玉を先端に取り付けた――を抱えて憤慨していた。
「…………阿呆が」
「あー! 酷い! 今のは暴言ですよ! ハラスメント委員会に訴えますからね!」
「勝手にしろ。……それよりも」
「ちょっと、せんせ――うぶっ!?」
背の高い男は、まだ何か言いたそうな魔導士の口を押さえつけ、リュカゥ前に回り込んだ俺に視線を合わせてきた。白いワイシャツに黒ズボン、白い薄手のコートという出で立ちだった。只ならない気配を感じる女とは対照的に、ただの布にしか見えないのだが、俺はなぜかその恰好に強い恐怖を抱いていた。
「突然すまないな。勇者アルス――――いや」
男は言い淀み、少し迷うように視線を下へと彷徨わせたあと、二度頷いてから再びを俺の目をまっすぐに見つめて口を開いた。
「こっちの世界では元気そうだな。羽鳥正孝」
「!!」
男が短い言葉を吐くのを聞いた瞬間、俺はすべてを思い出した。




