舞台裏 Black Santa has come
おかっぱ頭、たるんだ頬と巨大な二重アゴ、二百キロ級の相撲取りもかくやとばかりに突き出た腹は、正月の訪れを待つ鏡餅を連想させる。十七歳という年齢からは考えられないほどに不健康な身体以上に、健全という状態からはかけ離れた精神を宿しているとしか思えない微笑みを浮かべた少年が、六畳ほどの自室で着替えを行っていた。
少年が自室において占有する面積及び体積は相当なものだ。それでも、部屋の奥にある襖の向こうには大きな収納スペースが確保されているため、家電といえばテレビとノートPC、壁に据えられたエアコン、家具であればゴミ箱ぐらいしか置かれていないその部屋で、彼一人が生活する分には不自由はないはずだ。
「おっとと……危なかった」
だが彼の部屋は今、未曾有の人口過剰状態に陥っている。床には頭部にVR脳波コントローラー――脳コンを装着した男女が目を閉じて横たわっており、彼はそこからVRゲーム機へとつながるコードを踏みそうになってたたらを踏んだ。
「まあ、線を踏んだくらいじゃなんともないと思うけどね……」
自身の行動について独り言でコメントしながら、のそのそと着替えを済ませた少年は、「Santa Claus is coming to town」をハミングしながら、床に腰を降ろした。ちょうど、ノート型PCのA4サイズの画面が正面にくる位置だった。
画面は三分割されており、右上には常緑樹が密に生える森に挟まれた、石畳の街道を進む少年少女の姿が映し出され、その下には「NOAⅡ」のロゴが表示されていた。
NOAⅡは「ナイツ オブ アゼリアⅡ」を意味しており、正式販売前のVRMMORPGのプレイ画面だ。仮想現実の世界を歩く三人の背格好は、三時間ほど前から脳コンを装着して横たわる少年少女と、上下黒のスウェット姿で胡坐をかいて座っている少年の姿に酷似していた。
スウェット姿の少年は、VRゲーム機には本来必要ない十字キーと各種のボタンが付いたコントローラーを操作して、自分にそっくりなキャラクターを操作していた。時おりキャラクター同士でなされる会話はテキストとなって三分割された画面の下部に表示され、少年は驚異的なタイピング速度でそれに対応していた。
「さあて……そっちの世界じゃもう三か月か。アルスってNPCは確かに強すぎるけど、勇気だってめちゃくちゃ成長してるし。そろそろファーストイベントぐらいクリアーしてくれよ……?」
実写映画さながらのグラフィックで描かれたゲーム画面の中で、少年たちは開けた草地に足を踏み入れていた。そしていくつか会話を交わした後に木剣を構え、黒髪を逆立てた少年が、NPC――黒衣の少年がアルスと呼んだノンプレイヤーキャラに突きかかった。恐ろしく速く、鋭い攻撃であることが、少年を包むオーラや木剣の周囲に発生した星屑のようなエフェクトから推察された。
しかしアルスはそれを、わずかに体軸を逸らす程度の動作で避け、直後には勇気と呼ばれたキャラクターの脳天に木剣が振り下ろされていた。
それと同じタイミングで、少年の自室に寝転んで目を閉じている少年少女のうち、片方の身体がビクリと動いた。
「脳コンの感覚再現はとことんリアルみたいだね……それにしても、またクリアーならず。惨殺バッドエンド突入かぁ」
PCの画面では、夕焼けを背景に街道を戻って行く少年たちが映し出されていた。
「さて、続きはチャットだ」
その左側のコマに突如テキストが出現し、小さな電子音がスピーカーから発せられた。それはチャットメッセージが届いたことを知らせるアラームであったようで、太った少年はいそいそとキーボードに手を伸ばした。
【ミサ:で、何がわかったの?】
【ハシモト:ちょっと待ってよ。ユーキが来てからね】
【ミサ:まだかな。チャットとはいえ、キモデブと二人きりなんて嫌だわ】
「キモデブって、活字にされるとけっこう傷つくなあ」
チャットルームには「ミサ」と「ハシモト」が入室していた。ハシモトはミサによって発信されたメッセージに渋面を作り、キーボードに両手を這わせて「ユーキ」の入室を待った。
【ユーキ:お待たせ!】
【ミサ:遅い!】
【ハシモト:揃ったね】
【ミサ:で、何がわかったわけ?】
【ハシモト:ミサミサとユーキが、ログイン時の注意事項をまったく読んでないってこと】
【ミサ:はあ?】
【ハシモト:このゲームで強制イベントとして最初に発動が決まっているのは、勇者のシゴキだけなんだ。マニュアルにもこのイベントをクリアーしないと、モンスターを倒してもお金は手に入らないし、木剣しか装備できないと書いてある。この状態で他プレイヤーと遭遇しても、チャットぐらいしかすることがないから、今誰にも会わなくても支障はないだろ?】
【ミサ:そりゃ、そうだけど】
瞬時に表示されるメッセージに遅れることなく、ハシモトの指が素早くメッセージをタイプしていく。わずかな変換ミスすら見受けられない。これだけでも、彼がPCの扱いに長けた人物であるとわかる。
【ハシモト:ログインしたときに、モニタープレイヤー宛のメッセージが表示されたろ? 君らの脳波を検出している間に、読んで同意したはずなんだけど】
【ミサ:……あんたの言う通り、読んでないわよ】
【ユーキ:んなの読まなくても、ハシモト大明神が丸暗記してるんだろ?】
「だろうと思ったよ……」
VRゲーム内で作成されたチャットルームの会話は、ゲームをプレイ中の人間たちはあたかも口で会話をしているように認識される。要するに、いちいちタイピングしなくとも、メッセージを念じれば脳コンを介して相手に通じる仕組みになっている。脳コンを装着していないハシモトが、口角を吊り上げて呟いた言葉は、横たわるミサとユーキの耳に入っても認識されることはない。
【ハシモト:まったく……。それによるとね、MMOの部分は同端末でログインしたプレイヤーのみに適応するって書いてあるんだよ。だから、広場に行っても誰も居ないの。多分、サーバーの負荷軽減のためだと思うけどね。ミサミサが心配しているような、僕らだけゲーム世界に取り残されているなんてことは、起きてないよ~☆】
「あ、うっかり『☆』なんて送信したけど、大丈夫かな」
ハシモトは一瞬、キーボードを叩く手を止めてチャットルームのテキストを睨んだが、彼の送信したメッセージの下には、すぐに返信のテキストが表示された。
【ミサ:なにそれー。じゃあ、ヘイトNPCとか全然実感できないんじゃない?】
【ハシモト:そんなことないさ。一応僕らは三人で参加してるからね。例えば勇者アルスのヘイトポイントを僕らだけ最大値にしたら?】
【ユーキ:ヘイト百パーセントってことか。なんか、勇者先輩が哀れだぜ】
【ミサ:あんた、何べんその先輩に殺されたと思ってんの? VRの世界とはいえ、許せないわ。勇者なんて、とことん不幸になればいいのよ!】
【ハシモト:まあ、ヘイトポイントがどんな風に影響するかは今後のお楽しみ。そろそろバッドエンドじゃない?】
【ユーキ:まじか~。鬱になるわ~】
【ミサ:あんたが早く一本決めないからでしょ!?】
ユーキとミサは、それぞれ嘆きとなじりの言葉を遺してチャットルームから退室していった。
「まあ、そうだね。ユーキには頑張ってもらわないと……」
ハシモトの最後のメッセージは、直接口から発せられたものだった。彼は視線をチャット枠から右にずらし、アルスというNPCによる、三人の少年少女の殺戮が展開されているウィンドウに注目した。およそ青少年がプレイすることを想定しているとは思えないほどの残虐極まりない描写が画面上に踊っている。このゲームは対象年齢の下限を大幅に引き上げる必要があるだろう。
「うわあ~。ミサミサが、えらいことに……」
ハシモトが眉を潜めて感想を述べる間、彼は自室に横たわるユーキとミサの身体がびくびくと痙攣するのを冷徹な目で睥睨していた。
壮絶なスプラッターシーンは五分ほどで幕を閉じ、PCの画面は一旦暗転した後、再び草原のシーンへと切り替わった。
『…………不憫だわぁ』
画面上に美しい女性の姿がアップになり、スピーカーから気怠そうな音声が発せられた。イベントがループに入ったことを確認したハシモトは、美麗なグラフィックで描かれた彼女の肢体を食い入るように見つめていた。
「ああ~。シュエリスちゃん……はあはあ」
ハシモトはコントローラーを操作し、プレイ画面のカメラ角度を調整した。
『くそ! また手も足も出なかったじゃねーか! このループ、なんとかならねえのかよ!?』
ユーキが毒づく音声も流れてきていたが、ハシモトは女神の姿から目を離すことはなく、コントローラーを脇に置いて、右手を股間に伸ばしていた。
「公英? ちょっといい?」
自身で作成したAIを自動操作に切り替え、階下へと降りてきたハシモト少年に声をかけたのは、妙齢の美女だった。
「由紀奈姉ぇか……何?」
「クリスマスイブだというのに、仕事漬けで夜中に帰宅した姉に、まずはお帰りと言いなさい。美佐ちゃんと勇気君、来てるんでしょ? まだゲームやってるの?」
とても血が繋がっているとは思えない細身の女性は、弟の言動を窘めつつ、彼女にとっても幼馴染である二人の様子を訊ねた。
「ああ。熱中してやってるよ」
「そう。私はもうしばらく起きてるからね。美佐ちゃんに変なことするなよ?」
「馬鹿言え。勇気が隣にいるんだぞ?」
ニヤついて注意する姉を一睨みして、公英は冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。その手がわずかに振るえているのを悟られまいとするかのように、ダイニングに座って夜食をとる姉に背を向けてコップに中身を注いだ。
そして一息に百CCほどの牛乳を飲み干すと、ふと自身の右手の臭気が気になった。どんなに鼻が利く人間が相手でも、橋本家の広い対面式キッチンにいる彼の手掌のにおいなど感じ取れるとは思えないが、彼は急いでシンクに据え付けられた浄水器の蛇口を捻り、台所用洗剤で念入りに手を洗った。
「ところでさあ、なんで公英は一緒にやらないの?」
「……」
姉の由紀奈は秀才ではあるが、弟の公英のようにコンピュータープログラムに精通しているわけではないし、公英が父親のPCにハッキングし、発売前のVRMMORPGのデータをコピーした上に、ある計画のために様々な改ざんを施したことなど知る由もない。
だからといって、専門用語を多用して煙に巻くような説明では、父の会社で重役秘書を務める彼女をごまかすことなどできはしない。彼女はNOAⅡに関する知識にしても、下手な営業マンよりよほど精通している。
「まだ、ファーストイベントを攻略中なんだ。勇気をチャレンジャーに指名したから、僕はログアウトしても、AIが対応してくれるよ」
「そう……」
「じゃ、部屋に戻るから」
「VRTに気を付けなさい。前作の患者……まだ病院にいるらしいわよ」
前作とはもちろん、初代ナイツ オブ アゼリアを指す。ネット上に流布されたNOA海賊版をプレイしてVRT――仮想現実中毒にり患した男性が、未だ意識不明の重体であることは、有名な話だ。
「そのために、僕だけAI操作で起きてるんじゃないか。何かあれば、すぐ対応できるよ」
「あんただけ起きてるってとこが心配なんじゃないの……。真医会病院に伝手があるから、危ないときは私に言いなさい」
「はいはい」
姉の苦言にそれ以上付き合わず、公英は会話を打ち切った。彼女相手に余計な修飾や、下手な嘘は通用しない。公英は事実のみを姉に伝え、その裏に隠された真の目的の隠ぺいに成功した。彼は気付かれないように嘆息すると、ゆっくりと自室へ戻っていった。
再び薄暗い部屋に、ポピュラーに過ぎるクリスマスソングのハミングが響き渡った。NOAⅡのプレイ画面は、何度目かわからないループを迎えたユーキが、木剣を構えてアルスと対峙しているところだった。
「プレイヤーはゲーム内でヒットポイントゼロ――すなわち死亡した場合は一旦ログアウトとなり、ペナルティーとして二時間ログインできない状態となる。
進行中のイベントは、協力プレイ中のキャラクターがいる場合は続行可能だが、離脱したプレイヤーが同イベントに復帰することはできない。どうしても同一メンバーで調整んしたい場合は、一旦イベントをリタイアして再度『広場』にてパーティーを組むか、全員ログアウトして同一端末からログインし直す必要がある。
ただし、ファーストイベントは協力プレイの有無に関わらず、直前のイベント分岐点まで時間が巻き戻る――ってね」
マニュアルの全文を暗記しているという言葉に嘘はないようで、公英はハミングを中断したのち、彼の計画にとって最重要と思われる文章を諳んじた。
「パパの組んだプロテクトは中々に堅牢だったけどね……やっぱり家族だから、癖みたいなのってあるんだよね」
ノートPCの左上の画面に、勇者の腹に木剣を突き入れてガッツポーズを取るユーキの姿が映し出された。同時にファンファーレと共にイベントクリアーを示すテキストが、ログ画面に表示された。
『おいハシモト。くれるっつーけど、貰って大丈夫か?』
公英がスピーカーから聞こえた声に反応して顔を上げると、何となくぼんやりとした表情に見える勇者アルスが、ユーキに大振りのバスタードソードを差し出しているところだった。
「うん。『達成報酬』にちゃんと書かれてたからね。おっけーだよ」
彼は口に出すのとほぼ同時にタイピングしていく。その後もいくつか会話が交わされるが、公英は的確に答えを返しつつ、別ウィンドウを開いてあるプログラムを実行していた。
「さあ、ユーキ。ブラックサンタから、クリスマスプレゼントだよ?」
公英がEnterキーを押した。その瞬間、NOAⅡを構成するプログラムにいくつかの変容が生じた。
それから数刻、ゲーム内の時間では一日程度の観察を経て、特にエラーが発生することもなく、順調にシナリオが進行していることを確認した公英は、満足そうに頷いて脳コンを装着した。




