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第十話 世界の法則 後編2

 世界から月が消えた。

 

 この世界の星空は実に美しい。そこには月など初めからなかったかのように、素知らぬ顔の星々が瞬いている。


 俺はかざした手の指の隙間から、それを呆然と眺めていた。魔力を込めて念じてみるが、何も起こらなかった。

 かつて俺が空に手をかざせば、月の女神の引力に導かれた小惑星を隕石として落とすことができた。

 所詮この世界で魔法を使って引き起こせる事象には限界があるが、大気圏で燃え尽きることなく、莫大な熱量と質量をもち、加速によって高められた圧倒的なエネルギーをもって飛来するそれがもつ破壊力は尋常のものじゃなかった。

 リュカゥが大気圏外と敵の上を亜空間トンネルで繋ぎ、そこにシュエリスが隕石を導くことで行われる最強の攻撃魔法――女神の鉄槌と呼ばれたそれは、回避することも防御することも不可能な必殺の一撃だった。

 だが、手ごろな大きさの小惑星なんて、そうそう星の付近を通過するわけもない。大きすぎれば星の環境を変えかねないほどの大爆発を起こしてしまうし、小さすぎればそもそも攻撃にならない。魔王を倒すのに裏世界へ出現させるのに、程よい小惑星が見つからないまま、俺たちは魔王との決戦を迎えていた。


 魔王なんて、城ごと消し飛ばせばいいと思うんだけど。


 イシュタルが決死の覚悟で王の間に俺たちを押し込んだあの日。重い扉が閉められるのを待っていたかのように、魔王の黒い影が立ち上がったのを見てどちらが魔王かわからない笑みを浮かべたシュエリスを押し止めたことが、懐かしく思い出される。


 この世界のどこにいようとも、夜空を見上げて名を呼べば、あたしは貴方の元へ現れる。


 魔王を倒したとき、彼女は天頂を指差して言った。月夜であれば、世界のどこにでも神域を創り出すことができた月の女神の妖艶な微笑みを求めて見上げる夜空には、どの方角を見ても月はない。何度夜を徹して空を眺めていても、それは変わらぬ事実として俺の心に一層深く刻み込まれるだけだった。


「…………シュエリス」


 それでも、と思い呟いてはものの。

 昨晩同様、それは星空に溶けていくだけだった。











「いらっ……」


 彼女はアーチ型の入り口をくぐって入ってきた俺たちを見て、気分を害したのかもしれない。

 だが本来は、「いらっしゃいませ」とでも言いたかったのだろう。

 ダイナーの店員――砂漠の民には珍しい栗毛を頭頂部で団子状に結い、イレーナという刻印の上に「明るい接客がモットーです!」というメッセージが書き添えられた名札制服の胸にピンでとめている女――は天使の微笑み(えいぎょうすまいる)はおろか、店に入ってきた客に対する歓待の言葉すら瞬時に忘却の彼方へと追いやり、代わりに引き連れてきた恐怖と嫌悪がない交ぜになった顔をして、湯気が立つ料理を乗せたトレイを支える手を離してしまった。


 離してしまった手がそのまま大きく開かれた口元に移動していったので、彼女が悲鳴を上げるのだろうと思った。


 それだけでも十分不快だが、ほぼ同時に発生するだろう食器と料理が床に衝突して奏でる狂想曲――ガラガラとかビチャビチャとかいう音が俺の心をこれ以上かき乱すのを防ぐために、小さく唱えた時空魔法がほんのわずかの間――時間にして二秒だけ時を止めた。


 その間、真っ赤に煮えたぎったホットチリソースとそれに埋没していた豆類が空中で制止しているのをすべて回収し、騒音の発生と床の汚染を避けることはできただろう。彼女の時間が戻ってきたときには二階のモーテルの受付けに移動して、まるで白昼夢でも見たかのように錯覚させることも可能だった。だが、俺がそれをしたところで誰に感謝されるわけでもない。

 

 俺は、一歩後退しようとしていた彼女の足の下に氷水と近くの客が食べていたバナナの皮を滑り込ませた上で、彼女の脇を通り過ぎて階段を上がった。


 階段を上がった先にはあまり立派とは言えない造りの木製カウンターがあり、「御用の方は鳴らしてください」と書かれたメモと共にベルが設置されていた。


「部屋を頼む」


 ベルが軽快な音を奏でるかと思いきや、叩いた衝撃で大破し、カウンターが折れた。久方ぶりに行った戦闘の余韻か、力の調節がうまくいかない。

 階下では派手に食器が割れる音と、ドシンという何かが床を打った音、さらに恐怖とはまた違った悲鳴が聞こえたが、俺の知ったことではない。


 俺に今必要なのは、ゆっくりと休息できる個室だ。


「大変申し訳ございませんが、当館は冒険者のお客様は――――ひっ!」


 ベルの音とは違う破壊音と喧騒、さらには俺の風体――砂漠を旅したおかげで服と流れるようだった金髪は赤茶けた砂だらけの蓬髪となり、さらに屠った魔物の返り血で赤黒く固まった状態――のそれで冒険者と判断したらしい宿の受付職員が、最後まで言いたいことを言えずに息を飲んだのは、俺が睨みつけたせいなのだろう。先日オアシスの水面に映る自分の顔を見たが、確かに険が強く勇者というよりは冒険者、いやもう犯罪者のそれといっていい顔をしていた。


 世界から月が消えて一か月。リュカゥと共に世界に起きた変化の謎を探るべく旅を続けている今の俺は、輝く白銀の鎧を着込み、夕凪のマントを翻して黒馬に跨る勇者ではない。


「――いや、そういえばちょうど、空室ができたばかりでございました!」


 きれいに剃りあげた頭から大量の汗を流しながら、受付がカウンターの下からルームキーを取り出した。慇懃(いんぎん)な笑みを貼りつかせて「最上階のスイートでございます」と言い、震える手で摘ままれた一対の鍵がこすれ合ってリズミカルな金属音を立てていた。


「どどどど、どうぞ」

「……ありがとう」


 一応礼を言って、その場に修繕費どころか階下の女性の治療費を自腹で支払い、宿とダイナーを改装しても十分に釣りがくる量の代価――砂漠で殺した巨大毒サソリの心臓――を置いて、俺は「303号室」へ向かった。勇者ではなくなった俺は、あくまで一般人だ。魔物を倒せばそれに応じて報酬が支払われる「冒険者」などと違い、何をどのようにいくら殺しても、誰も金を払ってなどくれない。


「ちょっとマスター! 今のお客は――」

「シッ! たぶん‘元’勇者だ! 関わらん方がいい!」

「やっぱり! あの凶悪な目つきでピンと来たんですよ! 何かトラブルでも起こされたら――」


 階下から俺の背に、ダイナー兼宿の職員どもの会話が突き刺さる。

 英雄どもが邪神を倒すために王都から旅立ち、破竹の勢いで戦果を挙げて世間を騒がせている中、いつの間にか‘元’勇者などと呼ばれるようになった。‘現’勇者なんて現れていないと思う。もしかすると英雄が現れたことで、勇者と呼ばれる者自体が必要なくなったのかもしれない。


 俺は半年前、女神が消えたことについては当然王へ報告しようとした。しかしハガリオ王本人とは謁見すら叶わず、俺の訴えが通ったかどうかも分からないまま、故郷の村で待機するように指示された。

 仕方なく村で待っていれば、なんのつもりか王族との結婚を勧められたがもちろん断った。王城暮らしなんてまっぴらごめんだし、見合いの相手とは年が離れすぎていた。三十路に入った俺と、まだ永久歯も生えそろってない少女が結婚したところで何も生まれまい。


 大きな力を、王は手元に置いておきたい――そのようにお考えなのです。


 持ってきた書状を読むなり拒否した俺に対して、ロールパンのような髪型をした使者は、声を潜めて忠告してきた。


 英雄の皆さま方は、邪神を討伐後は元の世界に帰ると明言なさっているとか。王は、アルス殿を王族に迎えることで、アゼリアの将来を盤石なものにしたいというお気持ちがあるようです。


 要するに、邪神がいなくなった世界で俺のような戦闘力を持った人間を飼い殺しにしておきたいのだろう。他国に流れたり、反乱を起こされてはたまらないだろうからな。そういうことなら、英雄の誰かに子供でも作らせればいいだろう。あの好色そうなデブなんて、後宮の女たちが言い寄れば、いくらでも仕込んでくれるさ。


 などと言うわけもなく、詫びの言葉を重ねて丁重にお断りした俺に対して、使者は露骨に表情を歪ませた。


 創造神から戦力外とみなされたお前をひろってやろうという陛下のお心を踏みにじるとは、どういうつもりか。

 勇者だなどともてはやされていたのは過去のこと。四の五の言わず、大人しく飼われておればよいのだ。


 その後もさんざんに俺を罵倒して使者は王都へと帰っていき、俺は村を出た。


「…………はあ」


 ゆっくりと階段を登りながら自分の将来について考えていると、よけいに暗澹(あんたん)たる気持ちになったので、思考を女神消失に戻そうと試みた。


 だがこの世界で神を消す方法など、いくら考えてみても分かる訳はない。

 仕方なくアゼリアで回れるだけの神域――当然創造神のところは避けた――を訪ねてみたものの、神々の対応は実に冷たいものだった。神々の集いを抜けたとはいえ、シュエリスは兄弟神のはず。彼女が消えてしまったことに心を痛めているものもいるはずだと主張したリュカゥも、ここのところふさぎ込んでいる。旅について来てはいるものの、最近は姿を現さなくなっていた。


「飯ぐらい喰わないと…………あ」


 部屋に入って道具袋を弄り、現金が無いことに気づいた。よくよく考えてみれば、巨大毒サソリの心臓を冒険者施設か肉屋で買い取ってもらって現金にしておけばよかったのだ。そうすれば、宿に泊まっても多額の現金が残っただろうに。

 巨大毒サソリの心臓は、食すればこの世界で最高の滋養強壮効果を発揮する。流通が少ない北部や、神々が住まう西方の「神域」であれば、末端価格で家が建つほどの値段で取引されているのだ。

 俺は、一度支払った代価の返却を求めたりはしない。せいぜい腐らせないようにするのだな、従業員よ。


 ちなみにあと半日もすれば――おそらく深夜、ダイナーから客が引けた頃になれば、失われた心臓を求めてゾンビ化した巨大毒サソリが宿を急襲するだろう。今から風呂に入ってゆっくりと仮眠を取り、巨大毒蠍(めざましどけい)がやって来るのを待っていればいい。

 これは六年前、リュカゥの神殿を探してこの地を訪れた俺に対して、狡猾な魔族が仕掛けた罠だったわけだが、その経験が実生活で役に立つとは思わなかった。


「結局は、創造神(やつ)のところに行くしかないんだよ……」

「アルス、どうして転移魔法で飛んでいきませんの?」


 俺の独り言に、風呂の外から声を掛けてきたのはリュカゥだった。彼女には、当面の目的が「エリヤに面会(じんもん)」することだと伝えてある。


「エリヤは一応、『この世界の全てを見ている』わけだろう。明らかに敵意をもって転移魔法で神域に入っても、弾き飛ばされるか下手をすれば消されるかもしれないだろう」

「……シュエリスを消したのは、やはりエリヤだと考えているのですか?」


 数日ぶりに聞く時空の女神――エリヤの十三番目の娘の声は沈んでいた。彼女にしてみれば父親が娘を消してしまったなどとは考えたくないのだろう。


「それはわからない。俺の……‘元’勇者の仲間たちの件も含めて、やはり創造神が無関係だとは思えないんだ」

「そう……」


 俺は黙って頷くと――リュカゥにはそれで通じる――湯船から上がり、詮を抜いて砂と血で濁った湯を流した。小さな渦を描いてゆっくりと吸い込まれていくそれをぼんやりと眺めながら、俺は魔王を倒して凱旋した後の日々を思い出していた。







 一年という時間は、俺の腕を鈍らせるのに十分な怠惰をもたらした。別に何もやることが無かったわけじゃない。だが裏世界において全力で戦った俺を迎えた平和な世界では、意識的に怠惰でいなければならなかった。文字通り血反吐を吐いて手に入れた日常生活に戻ってみれば、それはひどく――退屈な日々だった。

 起きている間は、建物の影から走り出た子供たちや、木々の間から飛び立つ小鳥から風にそよぐ稲の穂に至るまで、目に見える全てが魔物に見えた。

 寝ていてもわずかな物音で覚醒し、悪夢を見ては叫んで飛び起きる日々が続いた。様子を見に来た家人に跳びかかり、危うく首を引きちぎりかねないところで母が飛び込んできたこともあった。

 退屈しのぎに冒険者の真似事をしてみたが、魔物が消えた世界で、ひたすらに手加減しての獣狩りや、重作業の手伝いなどしたところで鬱屈が晴れることはなかった。


 徐々に力の調節が可能となり、悪夢も見なくなってきたある日、畑仕事の休憩時間に生家の屋根の上で寝転んでいた俺は、東から吹いてくる風に凶悪な気配が混じっているのを感じるとともに、そこいらを飛び回る風の精霊たちが騒いでいるのを見た。


「おい、この気配はなんだ?」


 禍々しい、しかしどこか懐かしい空気を感じた俺は、風の精霊――やつらはなぜか群れている――の力を久方ぶりに引き出して、騒がしい精霊を一匹呼び寄せて訊ねた。


〈――――‘テキ’ガクル〉


 下半身に小さな竜巻を纏わせた半透明の生き物が身を縮めて答えた。力の弱い精霊は、明確な自我を持たないものがほとんどで、詳しことを訊ねても徒労に終わることが多い。しかし当時の俺には「テキ」という答えで十分だった。

 風の精霊は、当然風神の眷属だ。その彼らが敵と称する禍々しい気配を持つ邪悪な存在が出現した。

 俺にはそれで十分すぎたのだが、地上に現れた邪神はご丁寧に神殿を創造し、神々と人間に宣戦を布告した――。







「アルス! 前ぐらい隠したらどうなんですの!?」


 回想から意識を現実に戻した俺は、ドロドロになったタオルを床に打ち捨てて、そのまま浴室を出た。その俺を見たリュカゥがせっかく現していた姿を消し、抗議の声を上げた。自分はスケスケの羽衣一枚のくせに、などと言えば、彼女の照れ屋魂(シャイ・ハート)が燃え上がってまともに力を貸してくれなくなってしまう。

 俺はやれやれと嘆息しつつ、わざとゆっくり着替えをした。姿を消しただけで、ソファー辺りに佇んでいる女神の気配を感じながらの着替えは、なんとなくエロティックではあったものの、今は彼女とそういうことに勤しんでいる場合ではない。

 レンタルの夜衣にしては上等なシルクで編まれたそれに身を包み、俺はすぐさまベッドに横になった。しっかりと休息を取り、魔物の襲来に備えよう。


「……ちっ」


 風呂に入る前、ゴミ箱に投げ捨てた新聞――『三英雄ついに邪神の神殿へ!! ミサミサ嬢VSハイドラ様 人気投票結果は三面へ』の見出しが躍るそれを一睨みして、俺は寝返りを打った。

 やつらの実力では、高位の魔族にすら太刀打ちできないはずだ。邪神の神殿への活路はかつての仲間たちが切り開いているのだろうが、その辺りについては詳しく報道されていない。

 

 三人の復活と変貌、邪神復活後も不干渉を決め込んでいる神々など、英雄どもがやってきてからこの世界はおかしくなっている。


「…………ダメか」


 とても眠れそうもなかった。俺は転移魔法で巨大毒蠍の死骸の元へ飛び、それを消し飛ばした。






舞台裏シリーズをどこに挟もうか……それが問題だ。

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