元港町昼食【立ち入り禁止ロープの店】五月の三週目
竜の肉が手に入ったということで立ち入り禁止ロープの店に行く。
「いつ来ても物々しい場所だよね」
ミライはそっと黄色と黒のまだらの紐を持ち上げてカコを通す。
「なんでこんなに厳重なのかな」
中に居るものを、ここから外に出さないためだろうか、とミライは思う。ここにいるものはそんな危険なものじゃないのに。
標識ロープは竹林に絡まって、線と柱の建築物の様相を成している。ふわふわした長い髪を後ろに縛ってミライもロープを潜り抜けた。アスファルトから冷たい土を踏んで、制服の少女が手を繋いで行く。
黄色と黒のロープは奥へ奥へと続いて、途中幾重にも幾つにも道が分かれている。気まぐれにロープを張っただけに見える道を進みながらカコはミライに耳打ちした。
「ところでミライ、言葉に気をつけてよ」
「え?」
「危険だからね」
心配いらないよ、とミライは繋いだ手をぶんと振った。
「すごい丁寧じゃない? あの人。ほら、以前ホットケーキごちそうしてもらったときとか」
「そういうこと言ってるんじゃないの。判ってるでしょう? あの方、ナイーブだからね。自分達の正体を知られたくないのよ」
「そんなもんなのかな」
ミライは立ち止まってふくれっ面をする。カコはいつも気にしすぎだと思う。
「でも私、見たまんまでもいいと思うよ。どう見ても見間違えようが無いし。かっこいいじゃん」
「私だってそう思うよ。でも、本人がそう思ってないんだから仕方ないじゃない。彼は、獣になった自分を、恥じているのよ。気付かないふりをしてあげるのが礼儀だわ。後、身の危険ね」
「危険?」
物騒な忠告に眉をひそめると、カコは薄い唇をミライの耳元に寄せてひそひそと囁いた。
「そう。身の危険を感じているの。だからこんなロープ張って立ち入り禁止にしているわけ。覚えておいてね……。ところでミライ……」
「判ってるって、気をつけるから」
自信満々に注意事項を口にしたミライを、カコが冷ややかにたしなめる。
「そうじゃなくて、帰ったら勉強だからね」
ま るでカコの内緒話が、初めからそれだったみたいな口調だ。ふん、だ。今くらいそんな話しなくてもいいのに。言い返そうとしたら、がさ、と何かが藪をかき分 ける音が聞こえて二人でそちらを見る。竹に張られたロープの暗がりからタキシードを着た白い狐が現れた。二本足で進み出て二人の前でちょこんとお辞儀す る。
「いらっしゃいませお嬢様方。本日はいかなるご用件で?」
「今日は竜の肉が手に入ったって聞いたの」
今までの話が聞かれていなかったか、焦って目が白黒しているミライをしり目に、カコがストレートに切り出す。案内はにんまり目を細めて。
「ええ、そう、最近の曇ったり晴れたりの、曇ったりのところの曇ったりの時に仕留めたんですよ。やっこさん雷でもって大暴れしましたがね。何、あのお方の厚い毛皮ニャ通りませんわい」
「世界最強の生き物だものね」
褒め言葉のつもりでミライが口にするのを、カコが肘でつついた。皮肉だと取られたら厄介だ。ただ白狐は純粋に褒め言葉と思ったらしく謙遜する。
「いえいえ。世界最大の象の堤も蟻から崩れると言います。毎日のたゆまぬ努力あってこそ高みに登れるというものでございますよ」
「毎日の、努力が、高み、だってよ、ミライ」
ぐうの音も出ないミライに白狐は目をぱちくりさせる。
「どうかなさいました」
「ニャンでもありません……」
うなだれるミライのおしりを、ぱん、とカコが叩いた。
「来週、中間考査なの。私達。で、今この子は普段より元気が無いのよ」
頭の回転が早いのに、ミライはうっかりミスが多いのだ。けっして悪い頭では無いのに、そんなうかつなところにカコはイライラさせられる。勉強といっても格 別難しいことをするわけではない。カコの作った簡単な問題を、時間を決めて解いていくという地道な反復練習の繰り返しだ。落ち着いて解けば余裕で解ける問 題だ。ただそれを直前でするのとしないのとでは、試験の結果は雲泥の差が出る。自分のためになると判っているのに、それが面倒くさいミライだった。
「借りてきた猫、というわけですなハハハ」
いかにもおかしそうに言う案内に、二人は口元をひきつらせて愛想笑いをする。
「さ、お二人ともこちらにいらして下さいな。竹林は迷い道です。当店はこちらからの入店にあいなりますよ。ささ、どうぞ」
タキシードがロープの結界を外すと、さあっと風が通って、こんなところに入口があったのかと驚くくらい単純に食堂のホールが顔を覗かせた。
「主もお待ちしております」
土曜日の昼下がりは二人とも道草をして、そんな「あり得ない店」で昼食をとる。
席について、勧められるままに温かいジャスミンティーを飲んでいると、厨房ではもう用意が出来ていたようで、すぐに器が運ばれてきた。美しい陶磁器の皿に 盛られているのは薄切りにした透明の肉だ。一見してアロエのよう。もう一つは硝子の器に盛られた丸く白く濁ったもので、これはライチのよう。
「涼しそうな品物だね」
「透明度が河豚とか鯛みたい」
眼鏡を中指で押し上げて、カコは目を閉じる。
「味……想像できそうで、想像できないわ」
「とりあえず頂きましょ」
「そうね」
二人で箸を出そうとしたその時、これはどうも、と声をかけてくる者がいた。黄色と黒の店主だった。目の覚めるような浅青色の漢服をまとって、手には竹の尺 を持っている。口元に群がる白い髭と、頬から全身にかけてみっしり生えている黄と黒の模様の中で、キラキラ光る瞳がこちらをじっと見ていた。ただ手は人の 形をしていて、甲の部分まで獣毛に覆われている。彼はそっと両膝をついた。
「本日は土曜日のお二人をお招きし、真にありがたく面映ゆく……」
「あ、いえいえ」
「私たちそんなに立派なものじゃありませんから」
両膝をつき叩頭すらしかねない店の主を二人は慌てて止める。猛々しく威厳のある肉食動物に卑屈になられるとかえって居心地が悪い。恫喝し脅されるよりはま しかもしれないけれど、それでももう少し居丈高にふるまってもらった方がありがたい。今は大人しくしているけれど、もし穏やかな声の彼が爪を出した ら……。
「身の危険ね」というカコの忠告を思い出してミライは身震いする。そんなことはしない、と判っていても一度偏見を覚えたらそうとしか見られない。そんなだらしない自分を叱る意味でも、ミライは普通に会話をしようと試みる。
「そうそう! あたしもカコも、ただ、美味しそうで珍しいものにトライしたいだけなんです」
「虎、威?」
怪訝な声の主に、思わず口元を押さえるミライ。そう、目の前にいるのは虎なのだ。黄色と黒のロープに囲まれた、竹林に住んでいる、虎。目を大きく見開く人形のように美しい少女に、店主はにっこりと微笑した。
「いやですねえ、お客様。ここに虎はおりませんよ」
「え、ええ、毛並みがずいぶん綺麗だからつい、って、痛っ!」
テーブルの下でカコに足を踏みつけられて、ミライは思わず声を上げる。ここではその二文字や、それを思わせる言葉は禁句なのだ。主は敏感すぎるのだから。面倒になりそうな話題を避けるべく、カコは別の話題を振る。
「竜の肉なんて、どうやって取ったんですか?」
当然の質問に彼は莞爾した。彼が待っていた質問でもあった。
「それはですね、風を使ったのですよ。奴らが雲を使うのなら、我らは風を使うのです。やつらは雲を盾に飛んで逃げますからね。こちらは風に乗って追うのです。まるで翼が生えたように……」
ミライがぽんと手を打った。
「それってまさに、翼を得たと……った……」
強いものに更に勢いが増す、そんな意味のことわざがつい口から出そうになってミライは硬直する。店主はきょとんとしてミライを見る。にっこり微笑してミライはごまかした。
「翼を得たということですね!」
「そう!」
自慢げな店主に身体を向けて、カコもミライも料理よりもその話を聞く体勢になっている。天をつく竹の揺れる音がする。先ほどの白狐が主の為に酒を持ってきた。話が長くなりそうなことを、察してのことだろう。顔を顰めて店主は白狐を追い返すように手を振った。
「いや、俺はいいのだ。酔うと、止まらなくなる」
「何 をおっしゃいますか。それくらいでちょうどよろしいではありませんか。どうも心配がすぎますよ旦那さま。もっと堂々としてらっしぃまし。強い物が縮こまる ほど扱いづらいことはありませんよ。先ほどこちらのお二方もおっしゃってましたよ。旦那さまを「世界最強の生き物」と」
顰め面が渋い顔になっ て、ミライは思わずカコの顔を見る。怒らせただろうか。こんなとき、焦ったように見えないカコは本当に頼もしい。ミライは、この黄金と黒の毛をまとった猛 獣が牙を剥いたらどうしようと気が気ではない。情けない。こんなに私は臆病だったかしら。何かフォローをしなければと口を開こうとしたとき、店主は大きく ため息をついた。
「それはな。一対一ならばな。俺とて早々負けるものではないよ。それは人の頃もそうだった。
しかしなあ、知恵を合わせられると、いかな俺でも勝てぬ。
人ならば、そう、学問しかり詩作しかり。前人その知も借りて己が知恵を更に精査し研磨し高めれば、たかだか獣の一匹や二匹敵うべくも無い。
今日爪牙誰か敢へて敵せん、か。ふふ。昔は俺も大きく言ったものだよ」
重くなりかけた空気に、カコはさりげなく。
「竜はどんな味がするのですか?」と尋ねると。
「おや、お二人ともまだ召し上がっていなかったのですか」
と主は驚いた。
「こ れは失礼を。さ、早速食べてみてください。さしあたって肉は、瑞々しく歯の間ではぜるようです。そこにピリッと雷光が走ります。ええ、もうすっかりしめて ありますから、痛みより酸味を覚えるでしょうね。だからこそのニンニク醤油です。活力の出る大蒜の味とそのエキスが溶けだした醤油が、竜独特の酸味と合う のです。身はぷりぷりしていて甘いですよ。隋園ならなんと申しますかな、こうやって生で食わせるやり方はケシカランと言うかもしれません。ただ彼も穿鑿を 慎むと説いております。余計なことをするなという戒めですな。だとすればこうやって薄造りにして出すのも悪くありますまい。そして、元々竜は水の性があり ますから、煮るのはあまりうまくないのです。何故か固くなるのです。炙る、炒めるもよくないですな。肉の稲光が火を得て爆ぜます。筋に籠る旨いスープが もったいないし、下手に汁をかぶれば大火傷です。薄切りにして冷えているのをさっと食う。これだけのことです」
「単純で美味しい。それがキモなんですね」
カコが相づちを打つと、ぴたりと長い話を止め、主は恐る恐る尋ねた。
「あなたは、肝を食べるのですか」
噛み合っていない会話にミライは何気なく答えた。
「うん。カコ、内臓好きだよ。魚とか、食べられるものは骨まで食べる」
「ちょっと、ミライ!」
カコの声にミライは、タレをつけた竜の肉の刺身を、口に運ばず箸を置いた。
「何よ、カコ、そんなびくびくしちゃってさ。別に変なこと言ってないでしょう? 食べられるものはきちんと食べつくす。それが大事だっていつも言ってるじゃない。
そもそも今日はカコはちょっと気にしすぎ。多少こっちが気に障る事を言ったとしても、一々そんなの気にしてたら話も先に進まないでしょ?! こっちが普通に接してれば、相手だってむやみな乱暴は働かないわよ」
奇妙な気づかいと、自分の情けなさに苛立ちを感じていたミライの声がきつくなる。主は急な展開に目を開いて成すすべもない。場を取りなそうとするカコの声もつい大きくなる。
「ミライ、あなた何言ってるか判ってるの?」
「判ってるよ! でもカコが言うほどここの店主が危険だと、私は思わないわ!」
「ちょっと! 私の言いたいことと違う! 話! ちゃんと、とらえてよ!」
カコがテーブルから立ち上がったその時だった。
「虎得る!?」
その言葉に動転した主は、白狐が持ってきた酒を倒す。思わずテーブルクロスを掴むと、皿やらタレやら箸やら茶碗やらを巻き込んでテーブルが倒れた。思わず飛び退くカコとミライ。主はそのままよろよろと後ずさって大声で叫んだ。
「閉店だ! 閉店だ! 奇襲だ奇襲だ! トラトラトラだ! に、に、人間が虎得ると! 虎得ると言うぞ!」
あっけにとられた二人から離れて、大声で叫んでいる。
「虎骨酒だ! 内臓だ! 骨までしゃぶられるぞ、肝まで食われるぞ!」
「まったく旦那は考え過ぎなんですよぅ。とんだトラブル、いや、問題発生だ」
ぶつぶつ言いながら白狐が店の品物を手早くテーブルクロスにまとめて縛る。カコとミライの目の前に例の黒黄の標識ロープが張られる。竹の隙間から貨物自動 車が飛び込んでくる。乗り込んだ店主と白狐を運び去る。気がつけば竹林の店は消え去っていて、緩んだトラロープだけが寝そべっていた。
「今日のは、カコが悪かったね」
得意げに言うミライをカコは険しい目で睨んで、それから苦笑する。
「頭でっかちは、ダメね」
「ねえ、あのさ、カコ。カコが言ってた身の危険って、もしかして……」
言い淀むミライに、カコは肩をすくめた。
「虎の身の危険よ。あのKEEP OUTは人間を締め出すためのものよ」
「そう教えてくれたらよかったのに……」
「教えたら、何か変わった?」
それは難しい問題だ、とミライは思う。あんなに警戒されていたら、何がきっかけで大騒動になるか分かったものじゃない。少年のような髪を掻きあげて、カコは冷ややかに言った。
「あの虎は誰も信じないわ。自分しか信じてないの」
午後を告げる元港町の空砲の音を目印にして竹林を抜ける。明るい日差しを受けて二人空を見上げ、顔を見合わせた。ふう、っとため息をついてミライが言う。
「さ、なんかお腹に入れるもの買ってカコの家行って、それから勉強しようか」
「そんなにお腹空いてる?」
珍しくカコが疲れた顔をして、ミライの肩に手を回した。
「それより私、ちょっと眠りたい気持ち。昼寝一緒に付き合ってくれる?」
「じゃあうちに来てよ、パジャマ貸してあげる」
二人で家に向かい、黙々と着替えて同じベッドに横になる。微かに開けた窓は吹きつける青嵐に震える。冷えてきた部屋、窓を閉める代わりにそっと身を寄せ合ってカコが囁く。
「遠くで、虎の哭く声がするね」
「一人が寂しいのに、一人でいるんだね」
なんだかお腹のあたりが、胃の部分とかじゃないもっと胸の奥の変な部分が苦しくなって、腕をからませ合って目を閉じる。風の音に混じって狐の声が聞こえ る。ほらお酒お飲みなさい、もっとお飲みなさい気を楽になさっしゃい。トラになるくらいがちょうどいいんですって、暴れるのは嫌ですがトラも中々いいもん ですよ……。狐との酒宴は、あの竜の肉をつまみにしてるのかな、と思う。それなら、食べ損ねたのはそんなに惜しくない。
試験直前の土曜日。
二人の乙女は贅沢に惰眠を貪る。