アイ・ミェーズのナポリタン 五月第二週
お腹いっぱい怠惰に食べたい、とカコが言う。
白のブラウスの襟元は、二年生の色の青だ。制服が夏服に変わった証拠だ。晴れ渡った土曜日ならうきうきしながらミライと一緒に学校から飛び出したかもしれないけれど、雨でも降りそうなこの天気なら話は別なのだ。
「なんだか、口も動かしたくない感じ」
「お腹が空っぽなの?」
放課後、三々五々に教室からいなくなる学友たちの背を眺めつつミライが尋ねると、カコは。
「心が空っぽなの」
とせつないお答え。
「二人で食べたら、お腹いっぱいでしょ」
ミライがカコの首に腕を巻きつけると。
「まあそうだけどね」
とすんなり認めて、でも小さくため息をついて。
「それでもわがまま言いたいでしょ」
「そんならアイ・ミェーズ行こうよ。カップルひやかしに行こう」
そのミライの提案に、カコは渋面をつくって眼鏡を直した。目もそらす。窓から、曇天の下に燕が飛ぶのが見えた。思案して、カコは頭を振る。
「あそこのナポリタン、ミミズっぽくて嫌。
それにあのお店、恋人以外入れないし。い、以前、一本取られたし」
「いいじゃん、二人用なんだし。私たち恋人同士って言えば入れる店なんだし」
ミライはにやっと笑って小型のハサミを取り出して見せた。
「今回は仕度があるよ」
パチン、と何かを切る音。
「一本取り返すんだ」
世界で唯一の二人用スパゲティ。
土曜日の昼下がりは二人とも道草をして、そんな「あり得ない料理」で昼食をとることになっている。
アイ・ミェーズはパスタ専門店だ。
二人専用のレストランは油絵用ナイフでもって生土色を塗りたくったような壁をしている。キャンドルの明かりがテーブルごとのカップルを照らしている。熱い口づけを交わし合う各テーブルを横目で見ながら、しれっと金赤と白の格子模様のテーブルクロスに両肘をついて待った。
「お待たせしました」
とウェイターが持ってきたのは、まずは火のついていない蝋燭と、真っ黒の目隠し。ギュッと目を閉じて待つミライの頭に丁寧に黒いバンドを巻くと、続いてカコの眼鏡をうやうやしく取って銀の皿に乗せた。ぼんやりした視界。極度の近視をもつカコに目隠しなんて意味無いけれど。自分の目元にビロードの目隠しを巻くウェイターにカコは尋ねた。
「思うんだけど、どうして目隠しするの?」
「お食事と、お互いに集中していただくためでございます」
目を閉じたまま応えるウェイター氏に、カコはまだ不平を述べる。だって見えた方が美味しく思うわよ、と。
「食事は味覚嗅覚だけじゃなくて、視覚も充分な方がいいって聞くわ」
「わたくしめが、まだ金箔に身を包まれた王子だった時……」
ウェイター氏はカコの頭の後ろで、紐をリボンの形にきゅっと結びながら言った。
「わたくしの持っていた瞳は、とても立派なものでございました。しかしそのサファイアの目は、ただ見せかけの幸せを食むだけのものでした。ええ、美しい物を見る目も必要でしょう。わたくしが睥睨しておりましたかの街も美しく、その繁栄にわたくしも満足しておりましたから。それを全て味気なく無意味と申すつもりはありません。
ただたまには目を閉じて、もっと美しい物を見つめる時間も必要とは思いませんか? 暗闇の中で浮き上がるのは、愛しき者への想いとその口づけなのですから。
愛する二人がひっそりと言葉無く語り合う。
ここはそういうお店なのです」
詩人なウェイター氏の立ち去った気配を感じると、カコはひそひそ声でミライに話しかける。
「仕度は?」
「ばっちり」
ミライが突き出した親指は見えなくても伝わる。カコは微笑んで、ミライの目はしっかりとそれを捕えていた。目隠しの下に出来た隙間から覗いたミライの瞳はきらきら輝いている。
「ぎゅっと目を閉じたまま目隠しで縛られたら、目を開けたとき隙間が出来るのよね」
目をつむった時に出来る眉間の縮んだ皺は、瞼を開けると、伸びてかぶさった目隠しを押し上げる。そうして出来た隙間から、目隠しの外が見えるのだ。
千里眼の単純なトリックを自慢げに語る彼女の唇に、カコはそっと指をあてた。ミライったらほんと、声が大きいんだから。
「……シッ、黙ってて。
ところでミライ……アレは?」
「パームしてるって」
ミライが右手の中に隠し持っているのは小さなハサミだ。
ほどなくどこからかいいにおいが漂ってくる。そっと背筋を伸ばしてミライは素知らぬ顔をする。
「おまたせしました。ナポリタンスパゲティでございます」
大皿がテーブル中央に置かれて、ご丁寧にウェイター氏は、カコの手をとってミライの手の上にかぶせる。てっきり企みがバレたかとひやりとしたけれど、隠し持たれたハサミは取り上げられなかった。ほっとする。しかしウェイター氏の問いかけにまたギクリとさせられた。
「本当にお二人は、恋人同士ですか?」
「「はいっ!」」
同時に返事をした二人に、ウェイター氏は優しい声で「それはようございました」と微笑した。
「恋人同士でなくてはここのお店は入れませんからね。それはご存じでしょう?」
強く頷く二人の肩を彼はそっと叩いて。
「でも、ただの友達同士では、もとよりここに入ることなんか出来無いんですよ。……どんな企みを以てしても。
ええ。
例え「土曜日の二人」でもね」
「……あ!」
何か言おうとした口に、ナポリタンスパゲティが一本飛び込んでくる。喉に突っかからない速度で、ソースを身にまとった赤い糸がするすると口から喉をつたって胃に落ちていく。熱くて、美味しい。美味しくて、熱い。トマトケチャップとコンソメの味。細かく刻まれた玉ねぎニンジンソーセージの味。
スパゲティで二人が繋がった瞬間、目隠しの隙間から覗くミライの目の前で、蝋燭にぽっと火が灯った。まるで乾電池に豆電球を直流でつないだみたいに。ほの明るく照らされた皿の中に、ゆっくりと這うスパゲティが見えて思わず苦笑する。想像していたけれど、インパクト強すぎ。美味しいけど、見ない方がよかった。その真ん中あたりに検討をつけて、隠し持っていたハサミをパチン。中央で分かれたスパゲティの糸はまだまだするすると互いの口に入っていく。
これでよし、とミライはほくそ笑んだ。
強制的にさせられるのは趣味じゃないからね。
二人用二人前の長い長い一本のパスタで出来たスパゲティは、端っこと端っこが互いの口に飛び込むように出来ている。
全自動で両端からするする食べられていくパスタは、やがて中央でピンと張りつめて緊張状態になり、互いをぐいと引っ張って、強制的なキスをさせる。
確かに恋人同士でなくてはいけないわけだ、これは。
あれが悪かった、とは言わないけれど、ミライはちょっと癪だったのだ。今回ミライの仕掛けはその意趣返しでもある。
一本の両端が口に飛び込むなら、その真ん中をちょん切って二本にすればいい。
これでキスしないまま、ナポリタン食べられる。
ミライがほっとして油断した途端、蝋燭の火がぱっと消えた。
え!?
目の前の異変を気取られぬように、急いで小型のハサミを制服のポケットにしまって、素知らぬ顔でミライはカコの手を繋いだ。ぎゅっと握り返されてつい身震いする。
去年の今頃、まだおしゃべりすら慣れてなかったカコとミライは、この店のトリックを知らないまま、初めて接吻を味わったのだ。
スパゲティは滑らかにカコの舌に絡まり這いずり滑り落ち、味わう暇を与えず踊る。重なり合った手のひらは汗ばんで胸がいっぱいになる。お腹いっぱいになる。今なら、ミライとキスくらい、なんてこと無いけれど、それでもやっぱり、無理やりは嫌だ。
突然暴れ出そうとするミライの手を、ぎゅっとカコは抑える。なんだか離したくなかったから。なにしてるの、今さら。そんなに手を繋ぐのが嫌? 仕掛けは終わったんでしょう?
力が抜けたミライの指に指を絡める。
そう、それでいい。
一本のナポリタンに慣れてきて、唇で啜り、舌を絡め、嚥下していく。抵抗無く切れ端が口に飛び込むさまを想像していたから、ミライの胸にちょっと穴が開く。なんか残念な気がする。
と。
ぐん、と口が引っ張られるような感触がして思わず立ち上がる。
あれ?
これ前と同じ感覚だ。
唇に身体が引っかかる感じ。魚が餌にかかった感じ。噛み切ろうにも唇は感触に悦んでいて、そっとその先の柔らかいものに触れた。
あ、ミライの唇。
そのあと、舌を微かに何かが締め付けてきた。
え?!
なに、この輪っか!?
驚くカコの口に、ミライの舌が飛び込んでくる。舌が逃れようと動くと、舌が舌に触れて、背筋にぞくぞくっと電気が走った。
カコは思わず目を見張るけれど、闇の闇しか見えなくて。
結局観念してぎゅっと目を閉じた。
熱い息が、漏れた。
言葉すくなに店を出たのは、それから十分ほど奮闘した後だった。
カコは一歩先に立って進む。ミライは後に続く。頬が熱い。ミライは自分のほっぺを軽く叩いて冷ました。背中から語りかけてくる静かで深いカコの声。
「……どうしてああいうことになったの?」
「いや、あの長いスパゲティを切るのは上手くいったんだけどね」
変な笑顔になって、ミライはおどおど応える。
「うん、ちょうど真ん中くらいで切ったんだよ? それで上手くいったって思ったら蝋燭の火が消えてね? あ、バレたらいけない、って思ってハサミをポケットにしまったら。え、と、ウェイターさんがやってきてね。
断面を蝶結びで結んだの」
「じゃあ、あのときお互いの舌に絡んだのは、蝶結びの輪っかってことね?」
「そ」
「どうして、ミライ解かなかったのよ!」
「……解こうとしたじゃん」
ミライのとがった口から、不貞腐れた声が出た。
「でも、カコがぎゅって手を握って離さなかった」
力いっぱいカコが手を突き出す。ミライが握ると、真っ赤な顔が振りむいた。
「口直ししたい! アイスティー飲みに行こう!」
「ずいぶん荒々しいキスだったね、カコは」
余計な軽口をたたくのは自分の悪い癖だとミライも自覚している。でも、握った手が嬉しくてつい口に出てしまった。ふん、とカコは目をそらす。耳まで真っ赤に染まっている。
「ミライもね。いやらしい……!」
「どんなふうに?」
ちょっと考えて、カコ。
「興奮してて。
ワイルドだった」
吐き捨てるように言って、それでも手を離さない。照れたように少し早足になって、ミライは笑ってしまう。少女たちが駆ける。
元港町の空砲が鳴り響く。
二人が喫茶に入るまで、曇天は雨を降らすのを待つ。