虹の橋の喫茶店 四月第三週
虹が出たから、今日はあの橋で食事を取ろうと決めた。
「遠いね」
眼鏡をずらしてためつすがめつ見やるカコに並んで、ミライも目を細めた。
「虹のたもとに行くまでに、昼食が終わってしまう」
「一気に上って行こうか」
「ヤコブのはしご?」
「直線で上れば、早いものね」
ミライの提案にカコはちょっと考えて、オーケーサインを出した。
職員室から古新聞をもらってくると、細長くくるくると巻いて膝でパキッと折った。その切れ目から中身を引っ張ると、みるみる長い梯子が出来あがる。二人でこのニュースペーパーツリーを支えると、慎重に虹の橋にかけ渡した。
「カコ、落ちないでね」
踏んでみて梯子の強度を確認してるカコがフンと笑って応えた。
「バランスさえ取れば大丈夫よ」
左側に傾きがちな梯子を軽々と上りきると、そこにはもうちゃんと喫茶店が開いていた。土曜日の昼下がりは二人とも道草をして、こんな「あり得ない店」で昼食をとる。
「こちらはなにがお勧めですか?」
カコが尋ねると、水を運んできた黒い犬の店主は。
「シフォンケーキですな」
と愛想のいい笑いを浮かべた。
「苺、オレンジ、南瓜、抹茶、紫芋、虹色に近づけたかったんですが難しくてですな。
その代わりに餡を挟みました。青はどうしてもケミカルな色になるので悩みどころです」
「生クリームついてる?」
「ええ、たっぷりと」
ミライの質問に愛想よく応える黒犬店主に、じゃあそれで、と二人は唱和する。
「にくまんじうやお汁粉もありますよ。よろしければどうぞ」
犬、猫、ハムスター、オウムに亀、色とりどり雑多な動物達が、めかしこんで静かに歓談している。虹の橋から見下ろす春の元港町に、何が見えるのか、ときおり手を振って呼びかける。
「私の主人の息子は立派に大きくなりまして」
「うらやましい。私は主はお子がございませんで……」
かわされる笑いは遠慮がちで、想い出に掠れて柔らかい。猫は春の日差しにまどろみながら紅茶を啜り、小型犬の一団は甲高い声でおしゃべりに興じている。ふわふわのプードルが目をぱちぱちさせながら自慢話をする。
「全く、旦那様と奥様にはいまだに頭が上がりませんわ。冬の寒い日に、途方にくれていたあたしを拾ってくださったんですもの。ええ、一度引っ越しを体験しましたわ。わざわざあたしを飼う為に、あたしを飼う為にですのよ? 気の毒に奥さまはお子が出来ない身体でしたの。だからかしら、あたしのことを「うちの娘ポトフ」って呼びますのよ?」
「お待たせしました」
ほどなく二人の前に、大振りに切り分けたシフォンケーキが運ばれてきた。ほんとうに、色とりどりのシフォンケーキは華やかで、甘みはしっとり抑えてある。
「虹初見の日ですからな、今日は。お二人に合わせて店開きさせていただきまして」
「皆さん、誰かをお待ちしてるんですか?」
人間用に特別甘くしてもらった生クリームを絡めてミライが尋ねる。ミライは勘が鋭くて、真っ正直だ。ここがどんな喫茶店か薄々気づいているカコは黙ってコーヒーを啜る。
「ふぅ、つかれますな。今日みたいな日は疲れます」
同じテーブルに腰かけて黒犬の店主は汗をぬぐう。失礼、と手をつけていなかったカコのコップを取り上げてがぶがぶと水を飲みほした。こんなしぐさにも愛敬がある。
「ええ、皆さまお待ちなんですよ。虹の向こうでね? そしてこんないい虹があがったときは、この橋の上の喫茶店でお茶を飲んで町を眺めながら待ち人を待つのです」
空になったコップに水さしの水を注ぎながらカコは問いかける。
「待たないで、行った方がよいんじゃないですか?」
「迎えにですか?」
「いいえ、その先にです」
カコの質問は、相手から苦い顔を引き出すためのものだ。けれどこの世なれた店主はにっこりと笑顔を崩さない。カコの、表に出て来にくい優しさに気付いているみたいに。
「ええ、そう、迎えを、見たことは一度だってありゃしません。なんせあなたたちはそっち、僕らはこっちですから。みんなね、どっかでそれは判ってるんですよ。ほんとはね。でも、頭で判っても、心で判らなきゃ仕方ないもんです。
そりゃあねえ、六道輪廻を巡り巡って先に進めば、もしくは別の形でまたお会い出来るかもしれませんな。けれどね、やっぱり、待ってみたいものですよ。それが主人の居たものの願いなのでしょうよ。
愛された家族だけが、きっとここにいるのです」
「それって幸せだなあ」
ミライの夢見るような言葉にむしろ、店主は寂しい笑いを浮かべて言った。
「いいえ。囚われれば苦しいでしょうな」
言われたことが判らないミライはぽかんと口を開ける。カコはミライの脛を軽く蹴って、なお続きそうな問答を止めさせた。カコはすぐこんなことする。不承不承だけれど、ミライは口を閉じた。カコがこんなことをするときは、後でミライが思い返した時、恥ずかしさと罪悪感で死にたくなるような質問をしかねないときだから。二人の声なきやりとりを知ってか知らずか店主は「一期一会」と手を差し出した。
「どれもこれも、そんなもんです」
握手して、手を握って、やっぱりミライは口を開いてしまう。
「あなたは寂しく無いんですか?」
「僕は野良でしたから」
何気なく言って、店主は椅子から立ち上がる。
「寂しさには慣れているんです」
正装した動物たちのティータイムは、麗らかな春の午後一杯続く。パステル色のシフォンケーキは動物用にあっさりとした味わいで、その代わり香りは豊かで鮮やかだった。
カコはさっと眼鏡を取って、顔を片手で覆った。聞くともなく聞く動物たちの話が実は、どれもプードルに負けないくらいの自慢話と知って。かつて、そして今もどれだけ、主人と自分が通じ合っているかと得意げに話しているのを聞いて。
ミライはハンカチを取り出してそっとカコに手渡した。
「虹のシフォンケーキの青は、空の青でいいね」
ハンカチを目元にあててぎこちなく頷くカコ。かつてのパートナーを懐かしむ、動物達を想って。ミライは紅茶のカップを両手で包み持って言った。
「虹は青い空でつながる橋なんだものね」
元港町に、お昼のドンが響く。やあ、と動物達がさざめく。ああ、この空砲だねえ、元港町の名物だねえと懐かしんで。かわされる話題は遠慮がちで、愛情に満ちて暖かい。猫は紅茶を啜りながら毛糸玉の話をし、手乗り文鳥は人差し指のつかまり方を講釈し、小型犬の一団は甲高い声でおしゃべりに興じている。ふわふわのプードルは目をぱちぱちさせながら語りきれないほど自慢話をする。
「ポトフなんて美味しそうな名前でしょう?
あたしあのお二人の娘だったんです。ええ、あたしの次の娘もいるんですよ。あたしの次にも、家族が増えるんです。あたしがお二人と出会わなかったら、あのかわいい妹や弟も路頭に迷っていたことでしょうよ。なにせ命は、血だけじゃありませんからね……」