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元港町昼食  作者: 白石 薬子
一章 春
19/20

『元港町昼食【祖母に会う】八月の第二週』

「おはよう」

 とカコが挨拶した。

 太陽はもう中天にさしかかろうとしている。おはよう、は時間に合ってるだろうか? そんな疑問は脇に置いといて「おはよう」とミライも返した。こんにちは、はなんかよそよそしいし。

「ごめん、おくれた?」

「大丈夫。私が先に来たの」

 そっけない声でカコは言った。

「こっちこそごめん。一緒に買い物するって言ったのに」

 ミライはにっこりしてカコから買い物袋を一つ受け取る。さっきまでスーパーの涼しい店内にいたカコと違って、ミライは顎の先まで汗が垂れている。

「暑いよね」

 カコの気づかう声にミライは、夏は暑いものだからと汗をぬぐった。カコのお気に入りの日傘が強い日差しから二人を守って影をつくる。

 これから二人でカコの祖母がいた団地に向かう。

 家から出るのはミライと会う時ぐらい、というのは嘘では無いようで、カコの肌は真っ白だ。日焼けにならないで肌が赤くなってしまうミライとは違う。

 快晴だった。

 元港町では水不足が噂されるくらい晴れ間が続くのに、どこかの地方では大雨が降って大変だと噂になっていた。汗を軽く拭きながらカコは言う。

「こっちも、少しぐらい雨が降ればいいのに」

「だねえ」

 ミライがよいしょとスーパーの袋を担ぎ直した。

「ところでカコ。今日は何作るの?」

「ハンバーグ」

 土曜の昼前に下準備をして、たまには二人で昼食を作る。


 静まり返った灰色の団地の影をくぐって行く。コンクリの階段を上がる足が重い。カコがブザーのボタンを押すと。

「どうぞ」と年をとった女の声がした。

「こんにちは」

 カコが挨拶して玄関を開ける。片付いた部屋だった。見ただけで、住んでいる人の年齢が判る部屋だった。落ちついていてどこか古臭い。片付いて見えるのは、住んでいる人がほとんどものを動かさないせいだ。どこにもうっすらと埃があるのがわかる。けれど内臓じみただらしのないタオルや見苦しく散らばった小物などないのはさすがカコの祖母なだけのことはある。

「あれ?」

 ミライが変な顔をした。下駄箱の上の空っぽの花瓶の側に、妙なものを見つけたからだ。カコが不思議そうな声を出す。

「どうしたの?」

「あ、なんでもないなんでもない」

 カコに促されて玄関にかけられたのれんを分けて奥に入ると。

「よく来たわね」

 奥の居間には、カコの祖母がいた。白髪の女がちゃぶ台の前に座って絣の着物を着て正座している。さっと風が通り抜けて、ミライの呼吸が少し楽になる。今年の夏は暑過ぎる。

「汗かいてるでしょう? シャワーでも浴びたら? 二人とも」

 カコの祖母は穏やかな声で勧める。

「タオルはうちの使ってもいいから」

「顔だけ洗わせてもらっていいですか?」

 カコが丁寧に尋ねた。

「ハンカチは自分のがあるし」

「そう」

 強いて勧めないけれど、祖母の声は少し残念そうだ。とりなすようにカコが言う。

「時間があるうちに、お料理作りたいの」

「ありがとう」

 老婆は会釈する。さばさばした口調がカコにそっくりだと思う。細い眉、神経質そうな目元、薄い鼻、そのどれもがカコに似ている。

「さ。作ろうか」

 台所のシンクの前に材料を並べてぼんやりしているカコにミライは声をかけた。

 涼しい風が通り抜ける。おかげで冷房が無くても平気だ。カコは牛と豚のひき肉をボウルにあけてパン粉や卵と混ぜる。手つきは悪くないと思う。ミライはそれを横目で見ながら、ポテトサラダの仕度だ。ブロッコリーも茹でて付け合わせにしたいし、お味噌汁も作りたい。豆腐も美味しいものをと、ここに来る途中に武六豆腐店で買っている。茗荷はお婆さんが好きだったらしいので、この昼食に相応しくないけれど買ってある。

 フライパンに油がしかれて、俵型のハンバーグがよい音を立てた。外側を焼きしめした後で一度皿に上げ、肉を少し休ませる。それからパイ皿に移して、ガス台のグリルで芯まで焼き上げるのだ。ライス代わりに今日はバケットを用意している。ハンバーグを焼き上げる前に、薄く切ったバケットを軽くトーストする。

「いいにおいねえ」

 うっとりした顔で祖母が言うと、カコはちょっと笑って、それから。

「ちょっとごめん」

 とフライパンに火をつけたまま玄関口まで小走りに行ってしまった。涙を拭きに行ったのかもしれない。ミライはハンバーグが焦げないようにフライパンの上をひっくり返す。

「泣かせちゃったわねえ」

 ミライに話しかけるでもなく、カコの祖母が静かな声で言った。

「これ以上泣かないで欲しいわ。あの子は何も悪く無いんだから」


 仕度は整えられていく。玄関から何食わぬ顔で戻ってきたカコの目元は少し赤くなっていた。涙の跡がある。黙って二人で作業した。

「あら。美味しそう」

 並べられた食卓を、嬉しそうな声で老女がねぎらった。ハンバーグの隣にはブロッコリーにポテトサラダが付け合わせであって、バケットは軽く焦げ目が入る程度で皿の縁に置かれている。添えられたお味噌汁がアンバランスだった。

 カコとミライが作った皿を、老婦人は矯めつ眇めつ眺めて、微笑した。

「和歌子は、ずいぶん美味しいものを食べてきたのね」

「はい」

 小さく頭を下げる。こめかみに汗が浮いている。カコの祖母は頬笑みをたたえたまま。

「あなたはあんなに小さかったのに。

 咲子さんもしっかり育てて下さったのね」

「ありがとうございます」

「さ。お食べなさい」

 神妙な顔で、勧められるままにミライはハンバーグに手をつけた。切り口から肉汁が溢れる。もう一口箸で割ると、とろけたチーズがどろりとこぼれた。茗荷と豆腐の味噌汁をすする。暑さに疲れた喉と胃に、優しくすべりこむ。そのにおいをうっとりと嗅いで、カコの祖母は頷く。まるで一緒に食べているように。

 カコがしゃがれた声で言った。

「すいません。私、お婆様のことよく覚えてません」

「それは仕方ないわね。私達の交通事故のとき、あなたはまだ幼稚園の年長さんだものね」

「はい」

「もう十年経つのね」

 彼女の声は穏やかだ。カコがぎこちなくうなずいて、ブロッコリーに箸を伸ばす。孫のぎこちない態度に、十年近く前に肉体を置き忘れた女は揺るがない。

「でも私は覚えてますよ。あなたが叱られたことも褒められたことも、失敗したことも成長していたことも全て。

 あの日。

 私とあなたのお父さんが買い物に行った時、お留守番は嫌だと泣いたでしょう? ほんとうに、連れて行かなくてよかったと思いますよ」

「おとうさんは?」

「文孝とは去年会ったでしょう?」

 祖母が笑った。

「そうだわ。おはぎ食べない? いただきものだけれど」

 祖母がそっと立ち上がって、カコがあっと声を上げた。ずっと動けないものかと思っていたからだ。

「身体が無くても動くことくらいできますよ。折角孫が美味しいものを作ってくれたんですからね」

 意味ありげなことを言う祖母は、戸棚から重箱を取り出す。開けると綺麗なおはぎがぎっしり入っていた。

 

 元港町のドンが鳴る頃にカコとミライがドアの外に出ると、気難しい顔をした男の人が立っていた。作業服を着て腰に手を当てている。

「ちょっと。困るよ」

 恰幅のいい中年男だった。うんざりした声に二人の中学生は肩を縮める。

「この団地はお盆が終ったら解体作業入るから。危ないんだよ。部外者立ち入り禁止。トラロープ見えなかった?」

「すいません。くぐって入りました」

 カコは頭を下げる。不機嫌そうに男が睨んで。

「この中でなにしてたの」

「お料理です」

 ミライがおそるおそる言うと。

「おりょうりぃ!?」

 と男が甲高い声を上げた。この世の規律を背骨につっこんだみたいな偉そうな声だった。

「ちょっと! 何したんだ。ここはガスも水道も止まってるんだぞ」

 男は頭をがしがしと掻いてドアノブに手をかけるとぐいと推した。がらんとした空間が広がっている。

「おままごとなら別の場所でやってくれ!」

 うっすらと埃の積もった玄関に彼は土足であがり込む。ミライが靴を脱ごうとしたのをカコは止めた。そして自分は土足でさっさと部屋に入ってしまう。躊躇した後でミライも靴を履いたまま入室した。

 人気の無いがらんとした部屋には誰かが居たような形跡は欠片も無い。

「料理の跡なんて無いじゃないか」

 不機嫌な声で男は言って、ぎょっとした顔になる。元は居間として使われていたであろう部屋の床につやつやしたおはぎが一つだけ残されていたからだった。

「なんだこれ」

 怪訝な顔の作業服にカコははっきりと。

「おはぎです」と言いきった。

「亡くなった祖母に供えたものです。

 よければどうぞ」


 真っ青な空の下に立ってカコはほっと息をつく。ぽつんと残されていたおはぎに不気味なものを覚えたらしく、作業員はそれ以上何も聞かずに二人を追いだしたのだった。

 二人でカコの家に向かう。夕方から従兄弟が来るという話だから少し抵抗があったけれど、ミライの左手にぶら下がっているこのおはぎは、ミライが持って帰るには少し重い。

 日傘の下でカコがありがとうと囁いた。

 眉間に一本皺を刻んでいるミライが「何が?」と尋ねる。

「今日、つきあってもらって」

 神妙な顔をするカコにミライはひらひらと手を振った。

「いいよそんなこと。お盆だしさ。

 ところで、ちょっと引っかかるんだよね」

「何が?」

「このおはぎは誰が作ったのかな」

 ああ、とカコも頷いた。確かに考えるとおかしい。

 部屋に残された一つは祖母のためのおはぎだ。あとはお重のまま持たせてくれた。お昼を食べ終わった後で、おはぎまで食べることが出来なかったからだ。いただき物だと言っていたこのおはぎを持って、一体誰がここに訪れたのだろう?

「実はちょっと心当たりがある」

 ミライは額の汗を拭った。

「カコは玄関に、眼鏡あったの気づいた?」

「眼鏡?」

「そう」

「ああ」

 思い当る節はある。

 堪え切れなくなってカコが玄関まで行って涙を拭った後の話だ。臙脂が濃くなったような眼鏡がぽつんと下駄箱に置かれていた。その側に自分の眼鏡を置いて、カコはしばらく自分のハンカチに顔をうずめたのだ。

「全然気にしなかった」

「ちょっとは気にしなよ。あれ見てあたしぎょっとしたんだから」

「何がぎょっとしたの」

「カコの眼鏡そっくりだったんだもの」

「え?」

 立ち止まってカコは眼鏡を外す。こめかみから流れ落ちる汗を手の甲で拭って眼鏡の弦を見ると小さな文字で何か書いてある。目を細めて読む。

「五年後に返して、だって」

 二人で顔を見合わせた。

「つまり、私は五年後にお婆ちゃんと再会するわけか」

「おはぎを作ってね」

 ミライはにやっと笑って「これ食べるの楽しみだよ」と言った。

「五年後どれだけカコが料理上手になっているかわかるからね」

 奥歯を噛みしめて大きく呼吸をしてからカコも笑った。

「それじゃあ、私はお父さんとももう一度会えるのかもね」

「どうだろう」

 ミライは苦笑する。

「でも、会えたらいいね」

 カコの父親は陽気な人だった。去年の今頃、交差点で会ったのだ。彼は去り際にミライの耳元に囁いている。その言葉がミライの胸にいまだに刺さって抜けない。

「俺は彼女(カコ)の母を許すよ」

 という呪いのような言葉を。

 どこからから微かに読経の声がする。

 昨年、父と出会った交差点でカコはミライと三度信号を待つ。

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