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元港町昼食  作者: 白石 薬子
一章 春
18/20

元港町昼食【寂静只今営業中也】八月第一週目

 元港健康促進センターで、一泳ぎして帰る。蝉の鳴き声がぶつかるように聞こえてきて息をついた。

「外は暑いねえ」

 そう言いながらミライは真っ白く焼かれたアスファルトを蹴った。ずいぶん泳いだ後だと、返ってこの灼熱が気持ち良い。

「お昼、何を食べようか」

 カコは日傘をくるくると回す。並んで深水寺の側を抜けて商店街に向かう途中、ミライが足を止めた。

「空腹の」

 人差し指をちょいちょいと動かす。

「中にいれたし夏の空」

 カコの口元がにやっとする。

「ワコードの宿題?」

「うん」

 真剣な顔でミライは、動かした指を眉間にもってくる。俳句作りは夏休みの宿題の一つなのだ。

 国語教員の井戸井は俳壇と付き合いがあって趣味で俳句を作っている。それだけならよいのだけれど、その趣味を人に押しつけるきらいがある。

 緑萌ゆ 木陰に涼め 若人よ

 これが井戸井が夏休み前に詠んだ句だ。大抵最期の五句が「若人よ」になるので、失笑する生徒も多い。あだ名はワコードである。そんな生徒の想いなんて全く無視して井戸井は枯れた声で一学期最期の授業で宿題を出したのだった。

「上手い不味いは関係無いので十句詠んでくるように。君達は句の勉強ばかりをするわけにもいかないだろうから、多少不味いくらいの方が面白い」

 普段乾いた授業を行う井戸井だけれど、自作の俳句を交えた話をするときこの老教師の頬が微かに上気する。その頬笑みが妙に生っぽくてミライは苦手だ。カコはその背をパンとはたく。

「いいじゃない。お気に入り」

「ワコードのお気に入りなんかじゃなくていいよ」

 ミライが顔をしかめる。井戸井はミライの句が気に入っていて、ミライだけ二十句の宿題が託されているのだ。他にも何人かそういう「特別待遇」の子がいる。

「ミライは詩的だからね」

 カコは褒めるけれどミライの眉間から憂いは晴れない。

「正直、適当に五七五って書けばなんでも俳句になるような気がするんだよね」

「言い得てるかもね」

 ミライの指摘にカコは同意する。頷くカコに後押しされたのか、ミライは拗ねたように続けた。

「第一、古池やかわず飛び込む水の音、だって、複数のカエルが跳び込んだのかもしれないでしょ?

 適当なんだよ」

 カコの頭に、池の中にぼしょぼしょと飛び込むカエルの群が浮かんで変な笑いが出た。肩をすくめるミライ。

「けれど、この句のイメージでは、古池に飛び込むのは一匹ってことになっているんだよね。そう感じるし。

 それが落ち着かない」

「書いてないのに、十七字で「一匹の蛙」ってイメージさせるのが俳句のすごさなんじゃない?」

「そんなすごい俳句書けない」

 カコは近寄ると日傘を傾けて、ミライと同じ影に入った。思うにミライは周囲が想っている以上に完璧主義者なのだ。自分が納得できたならさほど気にしないけれど、納得できなければ皆に褒められても落ちつかない。

 しばらく歩いていると、ミライがまた立ち止まった。今度は俳句の推敲では無さそうだ。

「ふんふん」

 と口に出してひょいとミライが覗いたのは、一見ただの民家だった。鼻を微かに動かして音を聞く。

「おいしそうなにおいがする」

 こうしたときのミライの勘は鋭い。

「ちょっとおじゃましてみようか」

 とカコは日傘を閉じた。

 土曜の昼下がり、二人は道草をしてこんな適当なところで昼食をとる。


 表札には『寂静』とだけあった。濡れた土に飛び石があって、庭木が静かに茂っている。庭には喧しいくらい蝉の音が籠っていた。

「いらっしゃいませ」

 背の高い男の人が会釈した。利休鼠の着物を着たがっしりした男性だった。目元口元に深い皺が寄って、眉間の一つ彫りに若いころの苦労がしのばれた。

「ここはお店なんですか?」

 カコが尋ねると着物の男はニコとして。

「ええ。夏から秋の営業となります」

 と応える。

「この季節は、よい音が手に入りますので」

 庭にしつらえられた座卓にはすでに何組か客が来て、定食のようなものを食べている。いずれも年をとった人が多くて、皆姿勢がいい。ちょうどよい木陰が涼を呼びこんでいる。と、影の中、ひと際目を引く場所があった。大きな岩の塊だ。目を引く理由は、そこだけが日差しに強く照らされて白く輝いているからである。調理場があったせいかもしれなかった。黒い鍋が忙しそうに何かを揚げている。

「さあ。お茶でもいれましょうか」

 招かれた庭の座卓の前で赤い着物の娘が点ててくれたのは中国茶だった。青茶というやつだ。平たい器に小さな急須を入れて、上からお湯を注ぐ。急須の葉を蒸らすために、容器自体にお湯をかけ回す。その儀式めいた所作をカコとミライは見つめた。

「さ、どうぞ」

 お猪口のような小さな椀に注がれたお茶を飲む。心地よい玉が喉を零れおちて行くような感触にため息が出た。

「なんかすーっとする」

「ミントとは違うね」

 お茶を啜りながらカコとミライは調理を眺める。調理場の女が岩にそっと手をやると、ゆっくりと何かを引き剥がし始めた。剥がれた何かは、その手の中でびりびりと震えている、ように見える。

 よく見れば黒い鍋は火にかけられていない。透明に震えるそれはボールの中で溶き卵に漬けられ、それからパン粉をつけられて油に沈められた。途端。

 ビーン。と何かが震える音。細かくしゃわしゃわと揚がる油の音に混じって震える音がする。

「あれ、何を揚げてるんだろう」

 カコが囁くので、ミライは目を凝らして。

「音を揚げてるんだと思う。多分、蝉の音」

 ほどなく黄金色の揚げものが鍋から引き出されて白い皿にのった。薄く切ったズッキーニと茄子の炙られて、マリネのように漬けこんであるものが添えられている。南瓜のマッシュが彩り程度に添えられていて、中央にはフライが三つ乗せられていた。白身魚のフライくらいの大きさで、けれど厚みはそれよりはるかに薄かった。

「これは何を揚げたものですか?」

 カコの質問に給仕が予想通り「蝉の声です」と応えた。

「お好みで胡椒と白ワインのビネガーをご用意しております」

 ご飯はほんのり温かく、味噌汁は熱い。いただきます、とフライにそのままかぶりつくと、カラッと揚がったものが微かに口の中でワーンと震えた。常温の油で調理されたはずなのに、口に熱い汁が溢れる感じ。思わず口に手をあててもぐもぐする。淡白な白身の味の奥に、胸がすくような爽やかさが隠れている。

「ああ、これは確かにビネガーあったほうがいいかもね」

 カコが卓上のクリスタル瓶を取りあげてさっさとかけると、ミライもそれにならう。もう一口食べると、フライの微かな塩味に酸味が加わって、ご飯無しではいられない味になった。

「お味噌汁もいい出汁出てる」

 オクラのお味噌汁だった。ねっとりとした果肉が赤だしの汁にぴったりでよい。つけあわせのマリネは酸味に厭味がなく、こちらは思った以上に肉厚。南瓜のマッシュは甘くさらっと口に溶けるよう。上等の金団みたい。

 突然ミライが動きを止めたので、カコは妙な顔をする。

「どうした?」

「いい句が浮かびそうなんだけど、出そうで出ない」

「昼食す、蝉の声など素揚げして、みたいな?」

「あ! そう! そんな感じ! っていうかカコの方が上手いじゃん!」

 なじるように褒めるミライにカコは手を振った。

「そんなこと無いよ。昼食す、とかださいじゃん。説明臭い」

「素揚げして味淡きかな蝉の声、でいかがでしょう」

 はっと顔を上げると、主人が側に立っていた。 お口に合いますか? と尋ねる主人に二人は素直に「はい、とても」と応える。

「それにしてもここには蚊が居ないですね。うちなんて蚊がたくさんなのに」

 ミライの言葉に主人ははいはいと頷く。

「それは徹底しています。なにせ蚊の音が混じればせっかくのフライに雑味が出ますので。それも夏の味と出す店もありますが、うちは夏の静かさを食べて頂きたいものですから」

「静かさ? 蝉の音のフライじゃないんですか?」

 カコが眉を潜める。あの岩にしみ込んだ蝉の音を食べさせているのではないのか? 調理法を見てもそうとしか見えない。当然の質問に主は莞爾として。

「音があるから無音があるのです。騒がしいから静かさもある。味には二つあります。表の味と奥の味。表の味はこれこれこうと判る調味料の味、調理法の味、素材の味。奥の味はその更に先にある心の舌の味覚です。奥の味は、時に、まごころなどと称せられることもあります。ただまごころばかりが奥の味ではありません。これが妙味なのですよ」

「すいません、よくわかりません!」

 ミライが素直に頭を下げた。美少女に教えを請われて主は笑みを崩さずにそのまま正座した。美しい座相だった。

「つい余計なことを申し上げました。句作にお悩みとのことで、下手の横好きながらつい口を挟みたくなりました。

 ミライ様は、おそらく目の前のイメージだけを、句に詠み込もうとしすぎるのでしょう。そうするとかえって何を伝えていいのか判らなくなります。目の前の情報は多ございますからね。

 そうではなく、常にあなたの中で感じている感動や気持ちを、出会った起こった一瞬の立場から見つめ直してみてはいかがでしょう。

 あなたの喜びはなんですか?」

 はっとした顔のミライが顔を伏せて、絞り出すような声で言った。

「……国語の先生の俳句が良いと思えないんです」

「はあ」

「いつも自信満々に俳句を詠むんですけれど、どれも一辺倒で、オチもほとんど同じなんです。

 そんな人に、俳句を作れって宿題を出されるんです。

 おかしいと思いませんか?」

 静かな顔をして、主人。

「先生は、どんな句をおつくりですか?」

「緑萌ゆ、木陰に涼め若人よ」

 利休鼠の主人は口元をほころばせて。

「あなたの先生は、心配性ですね」とだけ言った。


 緑の庭を出る。

 灼熱の日の下で、再びカコが日傘をさす。 昼過ぎを告げる元港町のドンの音がする。

 全身がビーンと震えるような感じがして、カコは言った。

「肌の奥に、フライで食べた音がまだ震えている気がする」

 微かに頷いただけで、ミライは何か深く考えている。おそらく、さっきの主人の言葉を反芻しているのだろう。

 水着の入ったプールバッグを肩にかけて、カコは尋ねる。

「なにかいい句思いついた?」

「夏のおと、響く木陰の土を踏み」

 すらすらとミライが口にするので、眼鏡の奥でカコは目を丸くする。さっきまでの迷いが嘘みたいだ。けれどミライはぴたりと足を止めた。息がつまったみたいに口を二三度ぱくぱくさせる。涙が目尻から流れて、さっきの句につなげる。

「ひとりぼっちでいるのはいやだ」

 突然涙を流すミライに変な笑いが出て、カコは深く息を吐いた。

「俳句に、下の句ついてるじゃない。短歌よ」

「五、七、五じゃ足りなかったの!」

 ムキになって声をあげるミライの顔を未使用のハンカチで拭いてやる。

ミライの背が、ずいぶん高くなったのを抱き寄せて知る。


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